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あれから2年、母への想い。

母が亡くなって2年が経った。
毎年、母の日が近づくといつも以上に
母に思いを馳せる。

私は母にとてもよく似ていて、まるで一心同体のように気持ちを理解しあえていたと思う。
だからよく、あーでもないこーでもないと
語っては、大泣き、大笑いしていた。

私の口癖は「お母さんが死んだらわたしも
死ぬ!」だったほど、母のそばを片時も
離れない子どもだった。
母が病気を患ってからは、さすがに心配
させまいと封印していたが・・。

母は、とても器の大きい人だった。
人に対して愛が深く、母が一言「大丈夫だ~」と言えば、皆笑顔になる。
人を引き寄せる不思議なパワーを持っていた。
頼まれごとは断れない、家ではたくさん
愚痴るけど、一歩外に出たらそれを感じ
させないほど明るく、みんなを巻き込んでは
常に豪快に笑っていた。
でもその裏には人一倍人の事を考えて、
常に誰かを気遣っていた。
だから母は皆から信頼され、愛されていた。
ただ明るいだけじゃなく、人を包み込む
懐の深さと強さがあった。

そんな母が誇りだったし、母があっての父、
兄、私だった。
家では厳しく、(というか口が悪かった笑)
母を怒らせたら死ぬほど怖かった。
今思えば、どんな時も”全力”だった、
せわしない母の姿が思い出される。

「皆が帰ってきたとき、気持ちいい家で
迎えたいでしょ、キレイな家にはいい運気が
やってくるのさ!」と家の中はいつも
ピカピカで、家事も完璧。
いったいどこで力を抜いていたんだろうか。

そんな母の病気がわかった時、母自身が一番
辛かったはずだが、家族みんなが口に出さず
とも、それぞれに辛く苦しい日々を過ごしたと思う。
私も嫌な夢を見ている様な、逃げたくても
逃げられない辛い日々だった。

病気がわかった後すぐに、慣れない父が
不調の母に代わり毎日料理を作り出した。
はじめは母からダメ出しの連発だったが、
父の器用さでやがて「母の味」を再現できる
ようになり、母も美味しいと言うほどに
成長した。

私は長く付き合っていた人とほどなく結婚し、
旦那と2週間に一度のペースで片道2時間かけ
キレイ好きな母が少しでも良い気分で過ごせる
ように実家の掃除と家族との時間を過ごすために帰省した。

帰る時は毎回、本当につらかった。
運転する旦那の横で泣きながら帰ったことも
たくさんあった。
調子のいい母を見れば、この時間が少しでも
長く続くように、調子の悪い母を見れば、
元気になりますようにと、祈る思いで実家を
後にした。

自分にできることは何でもしたい、
母にもらったとても返しきれないたくさんの
ものを一つ一つ恩返しする思いだった。

大阪に住む兄は、可愛い孫の存在が母の
パワーになるようにと家族3人で1年に6回も
実家に足を運んでくれた。

今思えば辛いことも多かったが、ひとつひとつの幸せを噛みしめ、家族がチームになり母を
囲んだ時間が、本当に幸せだった。

3回忌の法要のため、久しぶりに家族が
集合した。
兄家族にはもう一人の可愛い女の子が加わり
我が家はさらにパワーアップした。
母の姿は見えなくとも、ちゃんと母の存在を
感じながら皆であっという間の楽しい時間を
過ごした。

私の一番の理解者である、母。

母がいない毎日なんて最初は想像すら
できなかった。
でも今は、自分自身が「母の魂」を持っている
気がしてならない。
だからあまり寂しくなくやれている。
それでもたまに、わけもなく大泣きしたり
この先自分に子どもができても、我が子は
母の愛や温もりに触れることはできない、
そう思うと辛い。
でも父の、「俺がいるだろう!」の言葉で
なんとか前向きになれる。
いつか子どもができたら、母のことを話し
母がそうしてくれたように大きな愛情で
包み込んであげたい。
姪っ子たちにも、この先の長い人生の中で
「おばあちゃん」の存在を恋しく思った時、
母の愛を代弁したいと思う。

母は人より短い人生だった。
だから皆何気なく、「残念だ」という。
でも私はそうは思わない。
強がりではなく、短い人生の中で
こんなにも素晴らしい家族を作り
人生をかけて愛してくれた。

そして、たくさんの人に愛された。
人一倍濃い人生を、堂々と駆け抜けた。
わが家の誇りであり唯一無二の存在である。
一生尊敬してやまない偉大な母。

そりゃ少しの後悔はあるけれど、
「母の子どもになれて幸せだった」
「ありがとう」
と心からの本音を伝えられて本当に良かった。


皆力強く、元気に生きているよ!と伝えたい。
たぶん誰より近くで見守ってくれていると
思うけど。

これからも母とともに、生きてゆく。
旦那と、父と、兄家族と。
母のような大きな大きな存在になれるように。


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