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指示待ち人間を育てる方法

あれ?
気付いたら年が明けてるし、三が日も終わっているではないか。

年始のご挨拶どころか、年末のご挨拶もしそびれている方がたくさん・・・汗
ごめんなさい。


個人事業主になった2021年。

開業届を出そうと決めたあの日から、フリーランス虎の巻やら、開業1年目の教科書やら、めぼしいものをいくつか読み漁っていたのだが、どれを読んでも脅し文句のように書かれていたのが、そう、「確定申告」だ。

フリーランスの先輩たちも、毎年同じ時期に「大変だ」とか「やりきった!」とか、SNS上でさながら文化祭のように騒ぎ立てていた。
もうそれは、何だか得体の知れない恐ろしさで。

だからとりあえず、先輩たちの勧めで開業と同時に会計ソフトのfreeeを契約。
都度都度入力して、レシートが溜まらないように心掛けた。

が、こつこつ入力が続いたのはほんの数ヶ月で、イベントに追われ始めた夏あたりからすっかり後回しになり、ハッとした時にはもう師走だった。
これはまさに、読み漁った本の主人公ではないかww

そんなわけで、久しぶりに帰省したこの年末は実家でパソコンを広げて経費の入力祭りだった。


問いに出会ったからには探求せねば

前述した経費の入力に想像以上の時間を取られ、年末年始やることリストが半分以上残ってしまったから、正月休み最後の昨日も朝から晩までパソコンとにらめっこしていた。

ふと、空腹に耐えかねて、そう言えば朝ごはんも昼ごはんも軽食とかおやつとかの類に入るもので済ませてしまったなあと反省して夕食を食べ、シャワーを浴びている時だった。

──この国の教育は『指示待ち人間』を育ててしまっている。

そんな一文が頭に湧いて、そこから思考の沼に潜っていくこととなった。


余談だけれど、シャワーを浴びている時や、車を運転している時は特に、考え事が捗るような気がする。
それは何故だろうと考えてみて、頭は暇だけど手が空いていないからだ、と思い至った。

この世は疑問に満ち溢れている。
昔から、問いに出会ってしまうと探究せずにはいられないタチで、くだらないことを悶々と考え耽っていた。

小学校の高学年くらいまでは、取り立てて調べる術を持っていないから、ひたすら自問自答するしかなかったのだけれど、答えの出ない問いをひたすらに潜っていくのが好きだったのだと思う。

人は死んだ後どうなるのか、と哲学の王道みたいなところも当然通ってきた。

ある時は、あいうえお…の音や順番を疑問に思い、
──「か」も「さ」も「た」も、伸ばして発音すると「あ」が残るぞ!?
なんて世紀の大発見をしたと完全に思い込んで、テレビ番組に応募したこともあった。笑

けれど、パソコンを1人で使えるようになり、スマホを持つようになって、探求検索に変わってしまった。

疑問が湧いたら、すぐに検索して答えを探す。
一瞬で正解にたどり着いてしまう。

非常につまらないのだが、そんな正解から次の疑問が湧いて、検索して、また疑問が湧いて、さらに検索して、と繰り返すうちに無駄な時間を過ごしてしまうのだった。

だから、手が空いていない時はいい。
スマホで検索することができないから、昔のように答えの出ない問いを悶々と潜っていくことができる。

スマホを持つようになって、2.0まで見えるのが自慢だった視力も1.0くらいまで下がってしまったのだが、スマホは視力だけでなく、もっと大切な色々を、知らず知らずのうちに奪っているのかもしれない。


何をすればいいですか?と聞く仕事

さて、余談が過ぎた。
指示待ち人間』の話をしよう。

新卒で会社に入った時、「何をすればいいですか」と聞くことが許されるのは1年目までだと研修で教わった。
1年目はとにかく聞きまくって、その後は、指示を待つのではなく自分で動ける人材になれ、と。

だから、上司や先輩に指示を求める場合でも「私はこうしたい」とか「こんな案はどうでしょう」とかまず自分の意見を持つように心掛けた。

転職して「地域おこし協力隊」となり、フリーランスに近い働き方になってからは余計に、自分の意見や意思を持って行動するようになった。

成功しても失敗しても、結果を誰かのせいにすることはできない
それは厳しくも、やり甲斐を感じられる働き方だった。


すっかりそのスタイルに慣れてしまった後で、「何をすればいいですか」と聞かなければいけない環境で働くことになったのは非常に辛かった。

転職して保育という新たな業界に足を踏み入れたのだが、知識も経験も乏しい自分ではどうしようもないことがたくさんあって、指示通り動くことが求められるケースが多かった。
管理職にしか決められない(と言われている)ことも多く、とにかく聞いてから動いて、と言われる。

豪に入れば郷に従えと思って指示を待つのだが、自分が無能だと突きつけられているような気がして、自己肯定感がどんどん低くなっていく。

──ほかの先生たちは、よくこれに耐えられるなあ。
と感心した。

でもこれは、保育の業界や、特定の職場に限られたことではないだろう。
おそらく日本の教育システムに根があるような気がするのだ。


みんなで順番に学ぶ日本の教育システム

義務教育を受けている間、「次は何をするんですか」と聞くことはあっても「私はこれをしたいです」と言うことはなかなか許されない。

集団で教育を受ける以上は、決められた指導要領に則った教科書の内容をみんなで順番に学んでいくことが歓迎される。
遅れるものは落ちこぼれ、先んじるものは厄介者と扱われる。

それは教える側にとって、「みんなで順番に」が最もスムーズで、コスパがいいからだ。

「今日はこのページをやりますよ」と言われて初めて教科書を開く。
そこに生徒の意思はなく、完全に受け身だ。

それで能動的に学べと言われても無理があるだろう。


そう言えば、小学校だか中学校だかの頃に、答えはマルなのに式はバツ、みたいなテスト結果を受けたことがあったなあ。
納得がいかず先生に尋ねると、まだ習っていないやり方で式を作っているのでバツなのだと言われたっけ。

勉強が好きだったから理解もわりと早くて、次へ次へと教科書を読み進めていた私は、授業でまだ習っていないやり方を知っていたのだ。

問題の意図を汲み取る、というところまで求められているのだと無理やり自分を納得させた記憶があるが、あれはやっぱり引っかかる


ちなみに、父の仕事の都合で1年間フランスへ移り住んだ中学時代、現地校で数学のテストを受けたら、みんな電卓を持ってきていてひどく驚いた。

フランス語が分からない私は、授業中に持参した通信教育(Z会)の教材で自習していても良いよ、と先生から許可が出ていた。
だからみんなと同じテストを受けることはなかったのだが、電卓を使ってもいい数学のテストなんて何の意味があるんだろうと首をひねった。

たしかに社会に出れば、電卓やスマホやパソコンは通常装備で、それをうまく使いこなした上で答えを出すことが求められる。
そんなことに気付いたのは、ずっと後になってからだ。

脱線するが、ほとんどの授業をZ会自習で過ごしたフランス現地校生活で、マジメに授業に望んだ科目のひとつが「音楽」だった。

大好きな音楽は言葉の壁をいとも簡単に越え、特に歌うのが好きだから、フランス語の歌も音で覚えて一緒に歌った。
歌唱テストがあった時、試しにやってみる?と言われて歌ったら、みんなの前で拍手をもらうことになったりもした。

最近、こどもたちが意味も分からない難しい歌(鬼滅の刃の主題歌)を口ずさんでいて、そんな当時のことを思い出した。


「自分」で仕事していく時代の教育とは

個人事業主となって歩き出して、指示を待つことは本当にレアケースとなった。

たとえ相手から依頼された仕事であっても、こちらが出来ることを先に提示したり、たたき台を作ったり、時には要求を覆してでもよりよい策を提案したりする必要がある。

自分」がなければ、仕事ができない


この感覚は、雇用されて働く場合であってもやはり大切なんじゃないかと思う。
学校では教えてくれないし、日本の教育システム上なかなか養われない感覚なのだけれど。

指示待ち人間になるように教育されて、素直に従ってきた優等生ほど、放り出された社会で突然「指示を待つな」と無能扱いされるのだ。

なんて理不尽な国なんだろう。


実際の教育現場は、死力を尽くしていると本気で思う。
ほとんどの先生たちは、現行の教育システムに疑問を感じ、何とか出来る限り抗いながら、こどもたちの未来のために動いてくれている。

だから、その先の社会でこどもたちが失望してしまわないように、「地域」という社会が教育現場に併走することができたらと切に願っている。

そんな思いで、フリーランス保育士・プレーリーダー・コミュニティコーディネーターとして働いている私である。

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