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同人誌「横須賀線・総武快速線」試し読み その7:五方面作戦、決行

はい!みなさんこんばんは、長沢めいです。

いま、冬コミに向けて「横須賀線・総武快速線」の同人誌を制作中ですが、今回のコミケでは会場での立ち読みを不可とさせて頂くことに致しました。そこで、事前に内容をある程度お見せしたい!と思いまして、冒頭部分を中心に何回かに分けてnoteで公開していきたいと思います。

ちなみに、メロンブックスさんでは冊子版の予約受付を開始しています!
(※電子版は後日公開予定です)

今日は、横須賀線・総武快速線の歴史について概説したパートの7つ目、「五方面作戦、決行」をご紹介します!
(※文面は今後、調整する可能性がありますのでご了承ください)

なお、マガジンにまとめてますので、他の記事はこちら↓からご覧ください


五方面作戦、決行

総武本線では1932年7月1日に両国-御茶ノ水間で電車の運転が始まって以降、翌1933年3月には両国-市川間、同年9月には船橋、1935年7月には千葉まで電化区間が伸び、電車の運転区間も拡大していきました。しかし、太平洋戦争によって総武本線の沿線は大きな被害を受けます。

■千葉駅、移転する

陸軍の様々な施設や飛行機工場などが建設され、軍都として栄えた千葉市。しかし1945年には2度の空襲を受けて、市の中心部の7割が焼失してしまいました。

終戦を迎えると、千葉市では市街地の区画整理が実施されます。実はこの区画整理では大がかりな鉄道網の再編が行われており、具体的には

・現在地より東側(現・千葉市民会館付近)にあった千葉駅
・現在の京成 千葉中央駅付近にあった本千葉駅
・現在の千葉市中央公園付近にあった京成の千葉駅(現・千葉中央駅)

以上の3駅が現在地へと移設されています。また、以前の千葉駅では房総線(現在の内房線と外房線)が銚子方面を向いて総武本線と合流していましたが、東京方面との直通運転できるような配置に改められました(1963年)。これにより房総半島各地との交通が大きく改善しましたが、一方で京成は市街地の中心部から追い出されてしまった格好になってしまいました。

なお、復興時に千葉市内にあった軍関係の施設跡地の多くは教育機関や公園の用地へ転用されており、軍都であった面影は公園内の記念碑などに残るのみとなっています。この点で、米海軍の拠点になった横須賀とは対照的な街並みになったといえます。

■秋葉原駅は連日入場制限

さて、戦前の工事によって都心への乗り入れを果たした総武線の電車でしたが、ある重大な弱点を抱えていました。それは秋葉原駅です。

当時は渋谷・新宿・池袋といった副都心はまだ発展しておらず、ビジネス街といえば、大手町を中心とした山手線の東側に偏っていました。そのため、「総武線から秋葉原で東京方面行きへ乗り換える」というルートに通勤客が殺到してしまったのです。

例えば1964年の朝ラッシュ時の総武線は10両編成の電車が2分30秒間隔で運転されていましたが、最混雑区間(平井-亀戸)での乗車率は285%、秋葉原駅での乗り換え客は1時間で34,500人に達していて、抜本的な対策に迫られていました。

先の鶴見事故で過密ダイヤが批判されたこともあり、国鉄では東海道線・横須賀線、中央線、高崎線・東北線、常磐線、そして総武線の5つの方面の輸送を強化する計画、いわゆる「五方面作戦」を立案します。そしてこれが、総武快速線の建設と横須賀線との直通運転化に繋がるのです。

■通勤対策「火の粉」論

ところで、「五方面作戦」より前の国鉄では、中央線で線増工事が行われた以外、路線の建設には消極的でした。その背景には「国鉄は都市間の幹線輸送に注力すべきであり、通勤輸送は国や自治体が住宅政策と関連させて取り組むべき」という思想が国鉄内部にあったためだと言われています。

ただし、当時の国鉄の運賃は法律によって定められていたため容易には値上げが出来ず、加えて財政状況には厳しい目線が向けられていたため、大規模な投資は困難であった、という点も無視できないと思われます。事実、1961年に国鉄常務理事だった滝山養は「道路」という雑誌に寄せた原稿の中に「自主性を奪われて常に収支で制約され、資金に対し見通しがつき得ないがために、これまで具体計画を纏めるに至つて居らない点が少くなかつた」と記しています(道路(241)[58])。

「五方面作戦」においても財政面の状況は変わっておらず、当時の石田礼助総裁は「肩にかかる火の粉を振り払う」という表現を使用していました。必要に迫られての投資である、という点を強調していたわけです。

■横須賀線・常磐線直通?

さて、先に滝山養の原稿について少し触れましたが、タイトルには「東京都心及び周辺の鉄道計画」とあります。公式の案ではないとしつつも、「問題点につき私見を述べ」ているもので非常に興味深いものとなっています。

まず、当時から線増工事が進んでいた中央線に関してですが、東京-御茶ノ水間の線増を計画したものの用地買収に失敗したため「代案として東京-市ヶ谷間の地下鉄による短絡案をとらざるを得なくなつた」と記しています。

さらに「この際中央線を中野から営団5号路線に乗り入れ、東陽町から総武線に結べば中央、総武両線の直通運転が可能」と、現在の地下鉄東西線にあたるルートについても言及しています(※ただし、総武線側の分岐点は西船橋ではなく亀戸と記載)なお、一時期は東西線の大手町駅よりも北側に総武線の地下駅を置く案もあったようです。

加えて、両国からの都心乗り入れについても「地下鉄によらざるを得なくなり」との記載があり、これも現在のルートに合致していますが、続けて「東京駅で折返し運転をせざるを得まい」とも書かれています。後の国鉄内部での検討でも、一時、総武線の東京駅は東西線の大手町駅寄り北側に置く方向で検討が進んでおり、直通運転の構想は後から出てきたものだといえます。

それでは横須賀線はどのように書かれていたかと言うと「一部電車を品鶴貨物線の活用を考え分離」と、これも現状と合致しますが、品川から先については「一応考えうる路線は品川から地下鉄8号路線により日比谷、大手町を通り地下鉄9号線に沿つて三河島に抜ける」とあり、横須賀線と常磐線を直通させる案があったようです。

■地下鉄と快速線の建設

少し時間が経過し、1967年に発表された「総武本線東京、津田沼間線路増設計画」(井上六郎・東工18-4)というレポートには、総武線関係の具体的な検討結果が記されています。このレポート内では、地下鉄東西線ルートと総武快速線ルートの2つが混雑対策案として採用されたことを述べていますが、東西線ルートに関しては

・東京駅での乗り換えが不便なため、利用客の転嫁率は12%と見積もられる。将来的には東京-西船橋間でさらに線増が必要となる
・東西線も総武線も緩行線になってしまうため役割分担が出来ない

と書かれており、総武快速線への転嫁率は40%と見積もられていることから、混雑対策の本命は総武快速線であったことが伺えます。

また、同じく1967年7月にJREAという雑誌に掲載された「東京地下ターミナル」(柳田真司・JREA10(7))では、東京駅の運用についての検討が紹介されています(下表)。当時の横須賀線は3ドアの113系、総武線は4ドアの101系と103系が使用されていましたが、4つのパターンを検討した結果、総武快速線に113系を導入する②案が採用されました。こうして「横須賀線の東海道線からの分離」と「総武快速線の建設」は具体化していったのです。


次回、ついに横須賀線と総武快速線が直通運転を開始します。お楽しみに!

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