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同人誌「横須賀線・総武快速線」試し読み その3:総武鉄道、開業する

はい!みなさんこんばんは、長沢めいです。

いま、冬コミに向けて「横須賀線・総武快速線」の同人誌を制作中ですが、今回のコミケでは会場での立ち読みを不可とさせて頂くことに致しました。そこで、事前に内容をある程度お見せしたい!と思いまして、冒頭部分を中心に何回かに分けてnoteで公開していきたいと思います。

今日は、横須賀線・総武快速線の歴史について概説したパートの3つ目、「総武鉄道、開業する」をご紹介します!

(※文面は今後、調整する可能性がありますのでご了承ください)

なお、マガジンにまとめてますので、他の記事はこちら↓からご覧ください

総武本線、開通する

日本で最初の鉄道路線が開業したのは明治5年(1872年)のこと。品川-横浜間で仮開業したのち、新橋-横浜間で正式に営業を開始し、首都・東京と貿易港・横浜を結ぶ交通手段としてその地位を確かなものにしていきました。その後、鉄道網は全国へ広がり、その波は千葉にもやってきます。

■新政府は資金不足

 明治政府は新橋-横浜間の鉄道開業に続いて、1874年には神戸-大阪間、1877年には大阪-京都間の路線も開通させます。このように、明治政府による鉄道建設は順調に進んでいるかのように見えますが、ひとつ大きな問題を抱えていました。それは資金不足です。

 折からの戊辰戦争で戦費がかさみ、さらに廃藩置県後には各地の藩が負っていた債務も新政府が返済することになり、政府の財政は非常に苦しい状況にありました。一方で、軍備増強や殖産興業のための投資も急がねばならず、明治政府は資金のやりくりに苦悩することになります。

 実は新橋-横浜間を含む初期の鉄道建設にあたっては、ロンドンで発行された外国債が充てられていましたが、この時が明治政府にとって初めての外国債だったこともあって信用が十分でなく、年利は9%と非常に負担が重いものでした。

 このような財政状況により、新政府は東京と関西を結ぶ路線以外の鉄道建設には及び腰となっていたわけです。

■一石二鳥?の私鉄設立

 支出を減らしつつ、鉄道建設を進めたい。一見、無茶に見えるこの課題に対して明治政府はひとつの解決策を見出します。それは民間資本の導入です。そしてその背後には家禄奉還制度の設立があります。

 当時の明治政府では旧士族・旧華族に対して家禄を給付していましたが、この家禄を受け取る権利の返還を呼びかけて、応じた者には「秩禄公債」を与える、という施策を行います。これを家禄奉還制度と呼びます。

 この家禄奉還制度によって旧士族・旧華族たちは一時的な資金を手にしましたが、同時に家禄に代わる収入源を確保しなければならず、安定したリターンが得られるような投資先が求められていたわけです。

 明治14年(1881年)、安場保和らが岩倉具視に働きかけたことで一気に具体化し、「日本鉄道」という会社が設立されることになります。もちろん、安場らが岩倉に行った説明の中にも家禄奉還の件はしっかりと登場していました。

華士両族ノ定禄ヲ廃シ更ニ金六公債証書ヲ給フ、其額一億円ニ及ヘリ、以テ両族ヲシテ恒産ヲ興シ独立ノ良民タランコトヲ望マル…(中略)…今鉄道ノ業ヲ起コスニ於テハ彼レ空手ノ輩若干ヲ役シ得ルノミナラズ、彼等亦沿道不毛ノ地ニ徒リ農業ニ就キ或ハ遠ク北海道ニ移ルモ亦容易ナラン…
(「日本鉄道史 上巻」)

 日本鉄道は「政府からの求めがあった際には国有化に応じる」等の条件と引き換えに、資金面などでの優遇を受け、1883年の上野-熊谷間の開業を皮切りに、現在の高崎線、東北本線、常磐線にあたる路線を次々に開業させていきます。そして、日本鉄道の成功を受けて日本各地で鉄道会社を設立しようとする動きが活発化します。

■千葉にも鉄道を

 日本全国で鉄道ブームが沸き起こる中、1887年には千葉からも鉄道会社設立に関する申請が2件、提出されます。

 1件目は成東で戸長などを務めた安井理民らが計画した総州鉄道、もう1件は佐原の伊能権之丞らが計画した武総鉄道でした。両者は東京の本所から佐倉まではルートが重複していましたが、前者は八街などを経由して銚子に向かうルート、後者は佐原へ向かうルートを申請していました(下図)。

 しかし、2つの申請は政府により却下されてしまいます。その理由については以下のような公文書が残されています。

千葉県平民安井理民并同県平民伊能権之丞等出願東京銚子間并東京佐原間鉄道布設ノ件ヲ調査スルニ…(中略)…同線路ハ概ネ十分ノ水利アルノミナラス頃日利根江戸両川ノ間ヲ開鑿シ益水運ノ利ヲ増進セントスルノ計画アリ…(中略)…同線路ハ他ノ幹線鉄道ニ聯接セサルヲ以テ諸工場若クハ器械等モ独立設備セサルヲ得ス其費額モ予算ノ外ニ出ツヘク随テ収支相償ハサルハ明瞭ナリ(類00377100-004)

 実は明治初期の政府内では、鉄道と並んで舟運も重要視されており、東北では野蒜築港や北上運河の建設、関西では淀川の改修などが行われていました。そして首都圏では利根川と江戸川を結ぶ利根運河の建設計画が進められていたところでした。安井理民たちや伊能権之丞たちの計画は、まさに水運ルートに重なってしまったわけです。

 また、孤立路線であるために工場などの設備を自前で持たなければならない、という指摘も書かれていますが、後年、総武本線が他路線との接続に難がある路線になってしまうことを暗示しているようで興味深いところです。

■軍部を味方につける

 さて、一度は却下となってしまった千葉の鉄道計画でしたが、安井理民たちと伊能権之丞たちの間で計画の一本化が図られ、ついに1889年には「総武鉄道」という社名で免許取得に漕ぎつけます。そして1894年7月には千葉県で最初の鉄道として市川-佐倉間が開業。続いて12月には本所(現・錦糸町)までの区間が開通し、1904年までに両国橋(現・両国)-銚子間の路線が完成しました。

 ところで1887年の却下から約1年半しか経たないうちに、政府が免許交付に転じたのは何故でしょうか。

一昨年中出願ノ末却下セラレタル東京ヨリ銚子港ニ達スルモノ及ヒ東京ヨリ佐原ニ至ルモノト略同一ノ方向…(中略)…云モ地方庁モ最前トハ所見ヲ異ニシ其敷設ヲ協賛シ且本線ハ陸軍省所管ノ兵営用地ニ開シ同省に於テモ頗ル好都合…(類00432100-001)

 と当時の公文書に書かれているように、地元自治体の態度の変化(注:1888年に千葉県知事が交代している)と、陸軍からの後押しが強く影響したようです。言い換えると、総武鉄道は地元住民たちの手によって計画され、軍部を利用することによって実現した鉄道だともいえます。

 なお、利根運河を経由する舟運は総武本線の汽車のスピードに太刀打ちできずに衰退していきましたが、運河自体は1941年まで維持され、現在は公園として整備されています。

 その後、1907年に総武鉄道は国に買収され「総武本線」と名を改め、国有鉄道網の一部となりました。しかし、路線の起点は都心から川を隔てた位置にある両国のままで、他の路線との結びつきは弱いままでした。

総州鉄道案・武総鉄道案と水運ルートの比較


ようやく今作のテーマの一つである総武本線が開業しましたが、横須賀線と直通するまで、まだまだこのイントロは続きます。次回は総武本線が都心部に乗り入れるまでの部分を公開します!

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