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仕組みVS根性論2


前置きが長くなってしまったので、記事を分割。前回は、こちら。


4月から通っていた就労移行支援事業所を辞めた最後の一押しは、なんとコロナが遠因だった。

1日中一緒に居た人がコロナ陽性になってしまったと報告を受け、私もその翌日くらいから、喉の違和感を覚え始めた。

しかし、その旨を通所先に電話すると「今は濃厚接触者というのは無いから、来ていいよ」との返答。

「来ていい」とは…?「お大事に」ではなくて「来ていい」と言われたことに、耳を疑った。
いくら濃厚接触者という定義が無くなったからといって、コロナがただの風邪になったわけではないし、インフルエンザと同等の扱いなのに「来ていい」とは。

そのあとの数日間は、毎朝、驚きの連続だった。微熱があると報告すれば、
「36.8度なんて熱のうちに入らない」
「脈が早い気がするって…(単に一緒に居た相手がコロナ陽性って聞いたから不安になってるだけで)気のせいじゃない?」
「歩いて病院まで検査に行けるなら、来られるよね?さっさと来て!」

そう言われて、仕方なく通所すれば、
「休んでばかりで、働く気があるとは思えない」と言われる。

一つひとつの言葉は、理解できなくも、ない。
例えば、脈が早いのは不安になっているだけというのも、あり得る話ではある。36.8度くらいなら、発熱のうちに入らない人も、いるだろう。

でもそれは、目の前の体調不良を訴えている人に掛ける言葉として、果たして適切なのだろうか。

後日、この件について考えを巡らせていて、ふと「あぁ、これが、性別違和を抱える人が常に晒されている現実なのだな」と思った。
自分自身の感覚を否定される辛さ。自分にとっては『ある』感覚を、そんなはずはない、と世間から言われ続ける。
これは、同性愛者だってそうだし、アセクシャル(無性愛者)だって常に同じような言葉に晒されていると、私は感じる。

『そんなはずはない』『異常だ』『自然に反する』『人は皆、思春期になると異性に惹かれます』(←保健体育の教科書)


さて、前回の記事で『そもそも、就労移行支援事業所に通うことにした理由は、メンタル休職歴のある人として、心機一転、再就職する為だった。』と書いたが、私のように心身に不調を抱えた者が集まってくる場には、私が掛けられたような言葉、端的に言えば「やる気がある/ない」といった根性論は、そぐわないと思う。

やる気があっても心身の調子が整わないことはあるし、やる気がなくても、仕事に行くことはできる。やる気があっても、何故かいつも遅刻してしまうという人はいるし、やる気はなくとも、生活の為に働いてお金を稼いだりする。

根性や気合だけでは、どうにもならないのも、また、現実で事実なのである。(つづく)

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