『だが』という逆接。

現在、日曜の夜に日テレで放送されているドラマ『だが、情熱はある』。
私は本当におもしろくて、毎週楽しみで、それ故、見終わったあとに共有したくなるのだけれど、そんな人は周りにおらず……ということで、王ロバ的に、ここに記す。

このドラマの評判として、ネット記事における評判が、よく無い。ネット記事という時点で気にするものでもないかもしれないけれど、ドラマというエンタメコンテンツの評価としては、世間の評価と近しいかも、と思うと捨て置けない気もする。
して、その記事の多くは、ドラマとして「悪い」わけではなく、なんというか、「楽しみ方がわからない」的な内容で、あまり評価されていない。
評価されるのは、主演の2人が、本人(若林、山里)両人にそっくり、という点。

そして、ドラマとして比較されてしまうのが、同じ枠の前クール『ブラッシュアップライフ』。芸人バカリズム脚本で、安藤サクラ主演。
脇も木南晴夏に夏帆、水川あさみとガチガチなキャストで、バカリズムのもっている日常の滑稽さみたいなものが描かれるから、すごーく大雑把に「芸人モノ」としても比較されてしまっている様な気もしている(被害妄想かもしれない)。

加えて、「楽しめない」的な理由としてあげられるのは、「若林と山里にあまり興味がない」というもの。目に見えての成功体験とか、到達点とか、その着地点がわからないから、楽しめない、と。

(おそらく)このドラマの着地点は、冒頭でも述べられているが、コロナ禍で行われた、無観客・配信公演の「明日のたりないふたり」だと思われる。
山里亮太と若林正恭の漫才ユニット「たりないふたり」の解散ライブだ。この公演直後、若林が倒れて救急車で運ばれるというのは、知ってる人には知られているが、世の中に周知のレベルかっていうと……。
つまり、それがそのまま『だが』の評価になってしまっているのかもしれない。

そう、このドラマは「たりないふたり」「だが、情熱はある」なのだ。
逆接の先だけ観ても、楽しめなかろう。その評価が「本人に似てる」で完結してしまうのは仕方ない。
私自身も、本やラジオで書かれている「あのエピソード」の映像化として楽しんでいる。
何より「たりないふたり」になる(なってしまう)裏付けのように観ている。感覚としては、古畑任三郎が犯人を追い詰めているときのあのシークエンスだ。
そう言えば、「そりゃおもしろいでしょうよ」と納得してもらえると同時に、「じゃあ楽しめないわ」と(残念ながら)理解してもらえるだろう。
だから、楽しんている身からすると、主演とその相方が「本人に似てる」からこそ、「だが」の先の物語として楽しめているのであり、もし雰囲気があまりに異なっていたら、おそらく観続けることはしなかったと思う。

おそらく、一般的には「売れた」=「成功」した直後、若林本人曰く「地獄」という、いわゆる「番組一周」のことも映像化されるだろう(というか、既にちらりと差し込まれている)。
つまり、世間的な「成功」も、「たりない」から「地獄」だし、そう感じてしまうのも「情熱」があるからだ。
どうだろう、私達も、「情熱」を原動力にして、念願かなって手に入れた「環境」に対して、「思ってたのと違う」という「地獄」に感じていないだろうか。
このドラマは「情熱」があるからこそ、その「情熱」に振り回されてしまう、そんな「生き様」に、共感してエモくなれる作品なのだ。

「仕事だから」と割り切れるのが大人なのだとすれば、割り切れないのは「若さ」なのか。
「情熱」の有無が大人か子どもなのか。
でも、仕事に「情熱」持つことって悪いんすかね?
でも、「情熱」なんてなければもっと楽なのにって思ったりもするよね?

なんか、そんな、ドラマなのだ。
ゴールデンのMCやってても、朝の帯MCやってても、愚痴っぽいふたりが大好きなんだ。
だって、「たりない」のに、そういう状況なのは「情熱」がもたらしてるのに、その「情熱」がふたりを「たりない」って感じさせてるんだもの。
それは、人間性そのものじゃないか。
もう、これは「文学」の匂いがするのよ。

「だが」という、逆接が示すのは、生きにくさなのか、高潔さなのか。
「ほぼ、実話。」だから、人生を描けるのだと思う。

結論:TVerで「たりないふたり」観られるから、それ観てから語れや。

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