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アカデミー賞でみた人種差別の話

はじめに

つい先日の話、アカデミー賞授賞式での出来事が話題になっていますね。↑オスカー像なつもり。

具体的にはアイアンマンで有名なロバート・ダウニー・ジュニアとララ・ランド振りに受賞したエマ・ストーンが、それぞれ登壇したときのプレゼンターへの態度が差別的なのではというものでした。この対象として挙げられているのが中国系ベトナム人の俳優のキー・ホイ・クァンと中国系マレーシア人女優のミシェル・ヨー。
幸いなことに(?)エマ・ストーンの対応に関しては、ミシェル・ヨーが直ぐにこれを否定。受賞したときにドレスの着衣状態に問題があり焦っていたこと、オスカー像を持っていたプレゼンターのミシェル・ヨーが意図的にオスカー像をエマ・ストーンの親友で同じく登壇していたジェシカ・ローレンスから手渡しできるような計らいをしたこと、映像は故意的に編集されており、実はこの2人はそのあとに会場でハグしていたことなどが発覚、エマに対しての非難は沈静化しつつあります。一方、未だにロバート・ダウニー・ジュニアのキー・ホイ・クァンへの態度がとても差別的であるとSNS上で物議をかもしている状態で、メディアもそれに追従するように報道していますが、真偽のほどは明らかになっていません。

人種差別に対しての色々な反応

個人的に、こういった差別的と取れる行為が国際的な場で起こることにはなんら不思議も違和感もなくて「あり得るし、仮にあったからといって今に始まったことでもないな」という感覚です。しょうがないというのが正しいかもしれないです。こういった経験は、アメリカに住もうが、東南アジアに住もうが自分がその空気からあたかもいないように扱われること、という経験が全くなかったというほうがレアな経験であると考えているという大前提が経験として出来上がってしまったからです。
実際、この報道を受けて私のような意見を述べる人は大勢いました。またもっと違う視点をもった切り口の人、冷静な人、感情が高ぶって擦り切れてしまう人、差別だと声高に叫んでSNSで拡散する人もいます。加えて、大好きな女優さん、俳優さんを守りたいと弁明に走る人もいましたね。実に色々な反応が各国からあるなと感じています。

加齢と理性という切り口でみると

ロバード・ダウニー・ジュニアは現在58歳。正直言ってもうありのままに生きていてもおかしくはない年齢ではあります。どういうことかというと、周囲に気を遣って理性でカバーできる年齢でもなくなっているのではないかと思ってしまうのは私だけでしょうか?

大学を卒業し、実に色々な大人を見てきました。大人というのは理性を保つのが年を追うごとに難しくなります。恥ずかしいとか、人の目が気になるとか、自分より上に気を遣わなければならないとか、そういったものが加齢するごとに減少し、圧倒的に上から抑えられる対象が減るのです。そして同時に体力も気力も衰えてしまう、これは生物学的に仕方のないことです。細胞分裂の速度が減り、いろんな箇所が劣化していく、自走しずらくなる。そうなると脳も加齢しますよね。そうすれば自制心といった理性・集中力などの自分をコントロールする能力に極端に負荷がかかるようになり、考えないようにしたり、負荷を軽減させていく。無意識にでも明らかに保てなくなる。結果、社会向けのかりそめの自分を創りだせなくなると思うのです。これは女性にもありますし、男性にもある、加齢による弊害でしょう。

社会のルールで抑え込む?

こういった加齢を遅らせる、少なくするように努力することはできますが完全に止めることは出来ない。それでもそれを止めたいと思う人は一定数います。そういう人は自分を他者として常日頃から認識し、自分もそして他者を観察する習慣をもってきた人かもしれません。具体的には自分たちは人間という動物であることを理解している、そして老化は人としての理性を退化やすくさせることを常に意識していて、抗うための思考や方法を模索して意識を張り巡らしている。人は意識していないとついつい本能のまま動いてしまう動物であると分かっていて、だから驕らず冷静に見れているみたいな人。私も数人あったことがあり、みなさん常に何かを学ぼう、知ろうという姿勢が強い方でした。

みんながこうであれば問題はないのですが、そういった人はほんの一握りであり、だからこそ社会的ルールやタブーや常識などといった足かせを、人間が人間同士仲良くできるルールをその時代にそって作り出しているような感覚があります。さもないと人間はとたんに動物になり本能で突き進むので社会という組織が簡単に壊れてしまう。最近は戦争、侵略などが続き国民の当たり前が揺るぎ始めている、ルールを守るということができなくなっているといった問題を世界が抱えています。

58歳のロバート・ダウニー・ジュニアが仮に東洋人が苦手で態度に出してしまったのであれば、それはある意味本能で動いた結果であり仕方のないことだなと思えてくる。私の周囲の58歳を見てもだいぶ好き勝手なことを言い出している、彼は生物学的にいえば好きなことを言い出してもやりだしても何らおかしくないではないかと考えてしまうのです。何かを思うことは誰にも止められないですし、嫌いなものを好きになることは難しい。

ただ一方で、それを俳優という社会性をもった職業柄、世界が見ている場所で出してしまうこったことが今の社会のルールとして適切ではなかった。会社で言えば会社員が株主やステークホルダーの立場をわきまえることなく、好ましくない行為をしたという話。差別を怒るというよりは、そのプロフェッショナルとしての質の低さについて言及するほうが、実は彼は反省しやすいのかなと思ったりもします。東洋企業が彼が出る映画には一切をもって投資しないよと言い出したら困るでしょ?まだ一応仕事をしているのだから身分をわきまえてね?といった具合の話以上の話にはしにくいなと思うのです。

理解できないものは怖い

アメリカに住んでいた時、私の同級生の中には東洋の知識がないことで異文化への理解のない子は大勢いました。言ってしまえば彼らは自国に住んでいる限り、東洋人の文化など興味を持たなければ分からないです。そして理解ができないのは知らないからでしょうし、無意識に受け入れられる幼少期にそういった人たちと交わった経験がないからです。加えて、その子の育った環境を大きく左右する親という存在が、そもそも東洋に対してのなんの面識がなく興味もなければ、東洋に住まう人は永遠に得体のしれない人種です。そういったことが子どもの教育に自然と影響したのだと思います。

どんなに教育的に良い環境で育った子も、東洋人はアメリカ人の日々の生活において未知の存在です。日本人が泳いでいる魚を美味しそうといったり、神経が残って動くイカやタコを踊り食いする姿は、火を通すことが普通のアメリカ人にしたら気持ち悪いと思っても仕方がないと思うんです。更に、彼らにとっては観賞用であるクジラやイルカですら追い込んで殺し食べる文化も古き良き文化として残そうとしたりする感覚は、私たちが中国人がごちそうとして生きたサルを椅子に座らせて脳みそを食べるとか、犬を食べるとかを受け入れられないことと一緒です。彼らの辞書にはない私たちの食文化は、彼らの目には異様に映ることは否めません。

更に彼らのアジアに対するイメージが永遠にアップデートされていないこと、知識を得る機会がすくないことも誤解を招いています。日本人もこの傾向は多分にあります。アフリカ・インド・フィリピン・マレーシアなどの区別が明確になく、子供が半裸で栄養失調歩いていて、エボラや何か怖い病気が蔓延し、毎日汚い水で多くの人が困窮しているイメージを持つ世代は少なくありません。しかしながら日本よりも急激に経済発展を進め、爆発的に富裕層が育ってきていることは受け入れるどころか興味すらありません。

私が東南アジアに住んでいると言えば、大気汚染を心配してくれる友人がいました。こんなに手軽にインターネットがあるにも関わらず、調べることもないまま「私ならとても汚くて住める気がしない」と言い切る友人もいました。実際、日本にも汚い街や明日のご飯にも困る人がいるように、そういう国や地域ももちろんありますが、今や香港や台湾は日本よりも地価が高く、シンガポールはアジアマーケットでは主要国です。多くの都心はもう日本と変わらない暮らしができるようになってきています。要は、知らない、興味すら湧かない対象が突然自分の生活に入ってくると、とたんに無知が人の恐怖に変わる、その知らないを意識してしまうことで区別して排除して自分の環境を変えないことで安全な区域を保持する。自分のほうが良いと思いたいので相手を悪いとする傾向もありますね。それが人種の単位で起これば差別の感情を生むということなのだと思っています。人が何かを排除するときの根底の感情は恐怖なのではないかなと。

時代で考えると妙に納得がいくこと

特にロバート・ダウニー・ジュニアが学生だったのは40年ほど前ですよね。通信手段に電話があるが携帯電話はないです。インターネットもないですね。そして海外に渡航できる人も限られていました。
彼はニューヨークのマンハッタン出身で同じく俳優の父と女優の母の元に生まれています。6歳からマリファナを父に吸わされるなど、家庭環境も常にドラッグ問題があり突飛なものだったようです。更に、ロバートの父が生まれた時代は、まさにナチスの時代。ドイツのヒトラーがオリンピックで開幕宣言をしたくらい大昔で、日本で言えば、二・二六事件が起こった昭和11年の頃になります。第二次世界大戦が起こって真珠湾攻撃が1941年といった時代に生きた両親に育てられたのがロバート・ダウニー・ジュニアなのですから、昨今の感覚で叫ばれる人種差別など、心から考える必要のない時代に生まれ育ったことが簡単に推測できます。
その時代の流れに自身が適応する必要がなかった、関心もなければ自身の身に着けた価値観をアップデートのない環境で生きてきただけのことです。そこに加齢が加わったことで見える幅がより狭くなり、今回のようなことで社会的に彼よりずっと若く生まれた世代が彼をどう評価するかなんて考える余地もないでしょうから、今の差別ヘイトに対しての嫌悪的な感覚を自分の幼少時代から無意識に体得した、教育された人にとっては到底納得がいかない話であるかもしれません。個人的には視野を広げて考えれば、どちらが良くて悪いという話でもないんだけれども。

身近にある差別

自分の話に少し戻すと、ちょうどロバートの両親くらいの時代に生まれ育ったのが私の祖母です。毎日昔話をして、今の時代のことはほぼ知りません。iPhoneなどの最近のモノは持ちたがるくせに、通話しかせず、LINEなどを学ぶ気は全くないのですが、とにかく自分はいつも若くて時代の最先端を行っており、若い世代の話も理解していると信じ切っています。
帰国子女の孫と、歯医者の孫を抱えていることが彼女の自慢で、自分は社会の中では素晴らしく成功したとすることに、彼女のコミュニティーでも命をかけてプロモーションを続けており、どこからが本当で嘘なのかも意識しないで話しているので、母が疲弊しています。
娘と孫が海外に住んでいたというだけでなぜか自身も海外通だと思っている彼女ですが、彼女はびっくりするほど差別的な発言をします。黒人をクロちゃん、クロンボと呼びます。悪気はまったくありません。中国や韓国は自分たちが占領したという意識はありますが、それがどういった国なのかの今には興味もなく、私が働いていた東南アジアは汚く貧しい国だから危ないと言います。一方、私たちにはアメリカと仕事をしてほしいとアメリカを高く評価しています。服で一番良い品質なのはメイドインイタリーです。イギリスはエリザベスさんで息子はバカだといいますが、実際に彼らが何をしたのかには興味がなく、テレビが言っているからそう思う、これが現実なのです。

私の祖母は田舎ではとても裕福だったといいます。親戚の男兄弟は医者が多く、私の曽祖父(祖母の父)は昭和天皇に従事した軍人なのだそうです。ただし、女性だからという理由で十分な教育は受けられておらず、結婚相手も親が決めた人と結婚して母が生まれ、祖父の仕事で上京しました。こういった思考は時代とともに変わります。彼女が受けた教育は彼女が選んだものではないでしょうし、そのなかで構築された知識は今では彼女の無意識のなかに存在しているので変えることは出来ません。そういった無意識に植え付けられたものは残念ならがどれだけそのあとに時代が推し進み、変わって、社会のルールが増えたところで自然にはアップデートできないのです。だからこそ自分の一番さえていた時代の感覚、何十年前もの記憶を今も使い続けてしまう。これがどんな人にも成立するんだと思えたなら、無駄に腹を立てたりして人を傷つけることもしなくて済むんですよね。

差別的な話をされるたびに、大学や職業だけで人の賢い賢くないを決める言動があるたびに「それは昔の話だからね、今はそれだけでは推し量れない時代になっているからね、若い人の前でそういう話をしては恥ずかしい思いをするんだよ」と祖母には話すようにしていますが、そうすると途端に機嫌を損ねてしまうので、そういう話をする必要もないのでしょうが。うちの祖母は気がとても強く、気位も高いので、なかなか他の人のいうおばあちゃんとは違うのかもしれませんね。

だからこれからどうするよ?という話

大切なことは次の世代以降が、自分たちの時代よりも、そういった違うことが怖いことを作らないように、いかに教育や仕組みを整備するかということではないでしょうか。

今でいうのであれば、埼玉県に多く住まうクルド人に対しての意識もそうでしょう。連日悪いニュースが多く、埼玉県の川口市蕨市界隈は治安が悪く、クルド人が日本を占拠しているといったイメージがSNSから沢山配信されています。それを特定の営利目的の自民党の議員がサポートしているというリークがあったりして、何が本当かは分からないけれど、クルド人がどういったものなのかが分からないためヘイトがとても上がっている。日本人が怖がっているんだと思います。ただし、自分たちの生活にその多くが直接影響がないので調べることもしない。だからヘイトだけはあがるのだけれど、そのまま放置されていることも多いです。クルド人はイスラム教徒なこともあり、9.11のアメリカの同時多発テロ以降、日本人は自分の宗教とは全く無縁のイスラム教にまでヘイトを飛ばすようになりました。これも知らないということと、知ろうともしないことから起こることに繋がります。差別をなくそうと海の向こうにばかり、受けた差別ばかりに過敏になる私たちですが、実は日本で自分たちがこの人たちを無色透明にして、無意識にヘイトを持っていることには意識がいかない人が多くいますよね。

学校教育に頼らざるをえない

子どもを産むと、ただの男女がいきなり親になりとても崇高な教育をできるものだと考える人が多いです。ご両親の育て方が良かったのね。とかご両親がまともじゃなかったのね。みたいなことを平気で言う人がいますが、両親とて子供を産む前はただの男と女で、そんな大した人間でもないのに両親に人間性の構築も含めて色々な責任を任せすぎているような気もします。そんな高い意識で子供を産む決断をする人なんてそうそういません。

人にもそれぞれ性格があるように、備わっている意識、育ってきた環境、そして考え方もほんとうに様々です。子供を産み育てることにフォーカスして考えると、今こそお互いが好きになって結婚するのが普通ですが、昔は親が自分と同じ身分であるなどを理由に結婚する相手を決めていました。今は自分と価値観が合う人、思考が似てる人で、結局どこか似た者同士を感じられるものが居心地が良いからという理由で結婚して家庭を作ります。結局、同じような共通点が見いだせるような環境で子どもを産み育てれば、それが彼らにとっては当たり前であり、普通になる。だからこそ同じ日本でもご家庭によって常識が違ったりしますよね。

これが日本で言えば、市町村レベルでまた傾向が違うし、県をまたげば全く違う常識があります。同じ日本人であれど、家庭レベルから思想の差があり、これが市町村、県、地方、国とレンジが広がれば、それは意識なんてものは統一できない。違うことは普通なこと、ただし、違うことを悪いことではないけれど誰かを悲しませず、それぞれに幸せな生活ができるようにそれぞれの場所にルールがあること。それを守ることでいざこざを減らそうとしてきた社会がある、だから良い大学に行くためではなくて、国家として共通認識をある程度もって国を存続させていく。そのために教育があるんだと思うんです。これが時代の流れとともに若干変わってくる、そこを教育で埋めていく。親の教育だけではなく、社会が意識的に教育していく、だから教育が必要なのではないかという話なのかもなーと。

だから今後の日本の教育は良い大学へ行き、良い会社に就職しても、自分の住まう地域には色んな国の人がいて、色々な常識がある。一緒に生きていくためには日本のことだけ知ればいい世界ではなくなりました。さあ、どうしようか?という意識を早い段階から無意識に植え付けていく必要があるんでしょうね。それか政治のシステムを大きく切り替えて厳しく鎖国をするか。島国であったがゆえに、ここら辺が全部ロバート・ダウニー・ジュニアと同じ意識ですすんでいるのが日本人なのではと思うので、あまり彼を否定するとブーメランが帰ってきているような気持ちになってしまうのです。

べきべきは脳死

私たちの周りにはよく「べきべき」おじさんとおばさんがいます。この「べき」は完全に脳死で言っているし、ロバート・ダウニー・ジュニア世代の人たちの「べき」がジャスティンビーバー世代の「べき」ではないし、アリアナグランデの「べき」だとも限らない。この「べき」という言葉はとても危ない思考を固定させてしまう言葉だとも思っています。要は、自分を正当化さえるための常套句なだけで「べき」なんてこともなかったりするので、今日からこの言葉を使っている人は使わないことをお勧めします。というのも、「べき」は思考が一気に老化する黒魔法だと思うのです。ちなみに当の私も結構な頻度で「べきべき」おばさんになりがちな傾向がありました。なので余計に意識をするようにしています。今後残りの人生の大きな目標でもあります。

「べき」が減れば相手や物事をもっと広い視野で多角的に考えることができるようになります。結果、自分にも相手にもよい塩梅の結果を導き出すこともできるなと経験で学んできました。「べき」と仮に思っていたとしても自分を一度疑う、そうやって考える習慣と精神力を出来る限り持続さえること。これは一般的にネガティブだとか無駄だとかいう言葉に集約されて、結局大人になると自分の興味があること以外を考えなくなるようになります。

ただこの「考えることは疲れるからやめるの、もう体力がない」というのは、毎日運動しない人が運動をいきなりすると疲れるからしないと同等の意味を持ち、頭の筋肉をただ衰えさせている老化なのよね。

結果、政治について考えるのは疲れる、NISAなどのお金の新しい情報も勉強したいけど仕事が大変で無理だから手を付けない、お金のことはよくわからないからお金で人に任せる、と委託委託で(委託できる機関が存在できればよいのですが)終わらせる大人が多くなる、だって老化しているから。

それでも残念なことに子育てと人付き合いだけはなかなか委託できない。恋愛もアウトソーシングしたところで、結局アプリも結婚相談所も逐一面倒なフォローアップはしないですし、紹介すればそれで終わり。恋愛相手の理解できない思考や行動を分析して返信を代行してくれません。運動も自分がしないといけないですし、やらないことで得られるメリットよりデメリットのほうが膨大にある。それを太ったり痩せたりというビジュアルで確認できないのが脳のキントレの難しいところなのかもしれないですね。話していて最初はいい人だったけれど、面白くない。言っていることが小難しくて分からない。こういった違いが長い時間を経てでてきてしまうもの。

だから脳の「べきべき」ぐーだら癖は発見された時は手遅れ、もう静かにこの世を終えてもらいたいくらいの老害に落ちていく。ここを大人は意識して生きないと第二のロバート・ダウニー・ジュニアが自分ということになるわけです。これは教育を軸に自分でそれをアップデートしているかどうか、それだけの話なのだと思います。読書でもいいですし、旅行にでかけるでもいいです。なにか新しいものに触れて考える時間を無理をして維持する鍛錬をしなければならないということなのだと思います。自分は自分の正義で生きていたが、ふと周りをみたら同世代しか同意してくれず、若い世代には煙たがられていたなんてこと。ありませんか?

考える範囲を狭めてみるという提案

さっきほどのクルド人の話もそうですが、人種差別なんていう大きな社会テーマを他人事で、しかも被害者意識で考えてばかりいては考える範囲も広がりません。では自分の身近ではどんなことが起きているだろう?小さなところでもいいから考えてみたらどうだろうといった思考癖を持つことで、変な時代癖、性別癖というバリアを外してフラットに物事を見るかもしれません。「これが普通と思ったけれど、普通でいることが一番難しいな、実は普通なんてものは普遍的なものではないのではないか?」なんていうのも考えることがあります。

考えれば考えるほど、自分の意識や思考から自分が離れれば離れるほど、世の中は複雑で何が正義かわからないものです。偉いことをいっている政治家が東大卒業、MBA取得、高学歴なご両親、など一見人が望むものを持っていたとしても、結果汚職、自殺、金銭やセクハラなどの誰もがやりそうな陳腐な理由等でその功績がなくなってしまう姿をたくさんみてきました。人と関わり合う中で色々なジレンマや欲、誘惑、そして裏切りにあう。どんな人もそうなんだと思います。

大切なことは、普通でいることでも、高学歴であることでも、良い職業に就くことでもない。何か自分が受け入れられないことをがあったときに、自分の足で立ち、時代の流れを理解し、楽なほうに無意識で流されないことを意識すること。自分が知らないことを調べて知見を広げて物事を断定しないで俯瞰的にみることなのではないかなと。

私もこうやって考えると、クルド人問題はあまり足を突っ込んで考えていないですね。クルド人にも実に様々な人がいると思います。彼らは自分の国を持たず、国境で暮らす民族で、自分の国があるという感覚を味わったことがないという実に理解しがたい現実を持つ人たちです。日本は避難民として受け入れることで彼らの命を繋ごうとしました。ただ、色々な自由を与え過ぎたわけでもなく、きちんと考えることをしなかった。自分と違う感覚を持つ人を受け入れればどういうことになるのか、何が問題で、どういうことを考えないといけないのか。これが優秀な人たちが集まる霞が関の日々の選挙活動の中で優先順位が低く、知ろうとしなかった。他の国に住まわせてもらっているのだからおとなしくしている「べき」で思考をとめてしまった結果、相手の普通と、日本の普通がかみ合わなくなってきたのかもしれません。

忘れない、忘れさせない、忘れる前に考えつくせ

ロバート・ダウニー・ジュニアの話もあと少しすれば消えて何事もなかったかのような日々が戻ります。でもそれは、人が深くそのことが何たることだったのかを考えないからで、問題がまた少し後回しになっただけのことです。人はいつか忘れてしまい、新しいことに食いつきます。

子どもが中間テストで悪い点数を取ったときは、怒り狂ったり落ち込んだりする両親も1カ月もすれば忘れてしまうし、次の期末テスト前にふと思い出して騒いでみて、結果それが受験前に大津波のように押し寄せてくる。そういった深くなぜそうなったか、そうなのか、を考えないで「べきべき」いいながら生きる大人がこれから少しでも減っていくこと。そういう「べき」が「べき」で対応できない社会が訪れるのはもうやってきています。

私たちがロバート・ダウニー・ジュニアの父親くらいの感覚で次の時代を迎え入れる可能性はあって、自分たち思考をもった子どもがロバート・ダウニー・ジュニアで、お互いに「べきべき」いって社会の変化に自分たちを適応させる脳の筋力トレーニングをしていない。こっちのほうがまずいんだということに気づいたほうがよほど有益だと思う、そんな気持ちになりました。

最後に

差別は多分消えない、だって誰が上で誰が下でと思う子とは人の心の安定につながるから、同じ人種同士でもすることだもの。

もし、そこをどうにかしたいのであれば、まず自分が差別をしたり、区別をしたりしていることを意識することから始めたほうがいいと思う。あとは徹底的に「べき」を自分の中から排除していくこと。

無意識にすべてを受け入れるというのは、生まれてからそれが普通であり、両親もそれを普通だと思っているということが大前提。だからこそ今ある人種や宗教、国同士の問題は意識して受け入れて向き合うしかないのかなと。もちろん相手を非難する傷つけるという未来のない行動をすることは歴史をみても繰り返しすぎるので排除していきたい選択肢ではありますよね。

自分がもし、次の世代にこういった行動をしてほしくないと願うなら、まず自分がやめられることを探す脳みそを使いたいなと思うのです。向き合うこと悩むことを始めてみよう。それは決してネガティブ思考なのではなく、未来に繋げるために必要な脱老害の最初の一歩なのかもしれません。

その積み重ねがきっと人という動物の生き方を変えられる「かも」しれないし、ただそうする「べき」だとも私は言えないんですよね。あくまでもおすすめすることしかできない。こういった日々起こる紛争や人種差別って自分がまきこまれると悲しいけれど、自分がしていることは気付かないものだったりするのもポイント。ということで、今回のNOTEは終わりです!


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