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気の強い女の子でいるということ

わたしは気が強い。
言葉を話せもしない赤ちゃんの頃から全身で自己主張をして、祖父をして「こいつは気が強くなるぞ」なんて言わせたのだから 、それはもう生まれながらの気質なんだろうと思っている。

でも、最近思うことがある。
気の強い女の子が気の強いまま育つことはとっても大変で、何なら奇跡に近いことなんじゃないだろうか。

例えば、わたしは背が高いこととか(高いといっても160cmそこそこだけど、女性にしては高い方だし、ヒールをはけば170cm近くなる。)、肩幅が広いこととか(間違っても華奢には見えない)、勉強も運動も人並み以上にはできてきたこととか(中学の成績はオール5だった)、そんなことのおかげでわたしは「気が強く」いれたのではないだろうか。

だって、もしわたしが小柄で華奢で、ペットボトルのふたを開けることすら一苦労、なんて女の子だったら、電車で後ろに男の人が立つだけで恐怖だろう。混んだ電車で首筋に鼻息を吹きかけてくるおじさんをにらんでやることなんて、できないかもしれない。
もしわたしが勉強も運動も出来なかったら、教室で発言したり、部活を仕切ったり、「ブス!」と言ってきた男の子に「うるさいバカ!」なんて返せなかったかもしれない。

また、「環境」もわたしが「気が強く」あることを許してくれたと感じている。比較的裕福な家庭に生まれ育ったこととか、習い事も塾もたくさん行かせてもらったこととか、東京の男女同数の進学校に通っていたこととか。
母は男女雇用機会均等法以前から男社会で働いてきた人だから、わたしに花嫁修業をさせる代わりに、「女は男の3倍成果を出さないと認めてもらえない。だから勉強しなさい。」と言って育てた。今時そんなことないだろう、なんて中学生の頃は反発したけれど、悲しいかな、間違っていなかったことが最近いろいろな場所で証明されている。

先日行われた東京大学の入学式の祝辞で、上野千鶴子氏はこのように述べた。

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

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この祝辞については賛否両論巻き起こっているけれど、ここではその是非を話すことはしない。
ただ、上野氏の祝辞は大部分が「東大男子」(そして世論)に向けられたメッセージであるように感じたけれど、環境に恵まれたという点ではわたしも同じだ、と思う。
恐ろしく気が強いわたしが、「女のくせに生意気だ」とか「女は引っ込んでろ」とか「女の子らしくおとなしくしてなさい」なんて言われずに、「女の子」であるためにわたしの可能性を否定されなかったのは、とても幸運なことだったのだと思う。

「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。(上野千鶴子)

「気の強い女の子」たちが、「気の強い女の子」のまま育っていける、それが当たり前になればいいと思う。

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