ぐちゃぐちゃ20代③ 人間関係編

人付き合いを苦手だと感じ始めたのはいつのことだろう。よく覚えていない。
転機はおそらく2回あったような気がする。
一度目は、小学生のときに転校したことだ。田舎で生徒数も少なく、いじめも(私が見る限りは)ない平和な学校だった。遊ぶ友達もいたけれど、正直楽しくなかった。原因は文化の違い。
その小学校では、ジャージを着て登校する子がなぜか多かった。なので、カーディガンにスカートという普通の服を着ているだけで「なんでお洒落してるの?」「隣の男子が好きなんでしょww」と茶化された。当時、服に興味があった私にとっては不満に思ったが、うまく言い返す強さがなかった。そして、人数の少ない学校では生徒同士の距離がものすごく近かった。歓迎されていると考えるべきだったのかもしれないが、自他の境界が曖昧なことにかなり引いてしまったのも事実だ。
ここで自分らしさより、浮かないこと、目立たないようにすることに専念し始める。好きなことや楽しいことより、攻撃されないための手段をとる=意図的にキャラクターを作るようになった。疲れるし、面白くない。人間関係を煩わしく思った。

二つ目は、中学2年生のときにある友人と喧嘩をしたこと。厳密に言うと、私は喧嘩をした覚えがなかった。
風邪で数日休んで登校したその日から、その友人と取り巻き1名(以下BとC)に無視されるようになった。最初は「今日はなんか反応が悪いな」と思っていたが、移動教室に誘われないなどのことで無視されていることに気がついた。
私が何かしたのだろうか、いくら考えても理由はわからない。正義感とプライドの高かった私は「理由も言わず、休み明けから無視するなんて卑怯だ!」「そんな奴こっちだって要らないわ」くらいに思っていた。実際に、BとCから無視されていても困ることはなかった。一緒にお弁当を食べる人、休み時間に話す人は他にもいたからだ。CもBの不在時には話しかけてきた。また、Bは当時そこそこ嫌われていたので、Bのグループからわざわざ抜けて私と通学してくれた子もいた。
Bと私の冷戦状態は、Bが痺れを切らしてメールしてくるまで少なくとも数ヶ月は続いた。

この嫌な成功体験(?)から、私は人間関係を
できるだけ分散させようと考えるようになる。目的ごとに付き合う友人を変えるのだ。そうすれば、そのうちの誰かと問題が起きても、孤立することはない。ただし弊害もある。誰とでも付き合うぶん、誰とも深い関係になれなかった。6年間でジャイアンの言う"心の友"はできなかった。この子とはずっと友達でいたいと思うことはなかったし、それは相手も同じだろう。

さて、こんな中高時代を過ごした私だが、クラスでの立ち位置は【試験前だけ友達が増える人】。どのクラスにも数人いるであろう、あの人たちだ。ノート貸して、勉強会開いて攻撃。一度も断らず、2週間後の「ごめーんまだ写してない笑笑」にも笑顔で受け流した(内心大激怒)。結果的に何かをしてあげる立場になることが多かったので、自分がそうされなかったときの怒りと軽蔑はものすごかった。この話、長くなりそうなので割愛。

大人になってからは他人に期待する私が間違っていたのだと理解できるけれど、当時はそうもいかず。孤立しない、損をしないために人の機嫌を取り続けるしか能のない自分にも心底嫌気がさしていた。自分は嫌いだが、他人はもっと嫌いだった。

そんな気持ちを抱えながら大学に進学する。楽しかった。強制的な集団行動が格段に減り、自分さえしっかりしていれば評価される。気持ちもかなり楽になった。友人関係はますます広く浅くなる一方だったが。
ただ、人間関係の煩わしさや人嫌いがなくなることはなく、また社会に対する理解が深まるにつれて厭世観も増す。

そして数年後に体調を崩す。"ちゃんとやってたはず"の自分の人生がうまくいかないのだから、世の中を呪いそうになる。理不尽だ、悔しい、つらい。この身体を抱えて生きる価値などあるはずがない。自分にも社会にも。
そんな感情に支配されていた10代〜20代半ば。二度ほど首を吊ったのもこの時期だ。その話もまた今度。

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