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みんなのTLを彩ること。 #シェアめぐり

twitterでこの企画を知ったので、今日のテーマはコレ。あおやぎわかこさん、参加させて頂きます。よろしくお願いします。

ちょうど半年前、似たようなテーマで書いたnoteがある。半年たったので、ふたたび振り返ってみるいい機会。だから今日はそれを確認するために、ちょっと考えてみたよ。


シェアしたい/しなきゃ!って思うnoteはどんなもの?

日々こうしてたくさんのnoteを読んでいて、これをtwitterにシェアしたい/しなきゃ!って思うnoteってどんなものだろう。

①こころが動いたnote
②ほかの人の告知系note
③ぼくの企画に参加してくれた/タグをつかってくれたnote

ごくごく一般的なものだと思うけれど、こんなところかな。順番にちょっとずつ補足していこうと思う。

①。まぁ、言うまでもないだろうけれども。「こころが動いた」っていうのは、「感情(≒喜怒哀楽)に訴えかけられた」ということと同義と思っていいかもしれない。
喜怒哀楽、これ全部平等にってことではまったくない。イメージとして、こんな感じ。

「喜」と「楽」が当然多くの比率を占めることになる。うあ、面白い!そんな気持ちで文字通り喜々としてシェアしようと思ってしまう。反対に、「怒」。まわりでこれはほとんど見ないからっていうのもあるけれど(平和!)、ネガティブな空気を自分のタイムラインに流したくないからっていう理由が大きい。「哀」は、「怒」よりシェアしやすいかな。共感を抱きやすい気がする。

②。これはね、やっぱりみんながこの場を盛り上げようと思っている心意気に微力でも貢献できたらいいな、っていう思いから。③にも共通するけれど、以前「手書きnoteを書こう」という企画をやったときに、たくさんの人が告知noteをシェアしてくれて、宣伝してくれた。その心づよさや安心感たるや、企画をやったことのある人だったらまず共感してもらえると思う。みんなの協力があって成功した、そう言い切ってしまっていいくらい。だからぼくも、できるだけ協力したい。自分のできること、その手段の一つとしての、シェアがある。

③。誤解を恐れず言うと、これは「やるべきこと」としてやっている。140字という制約の中でいかに伝えるか、その訓練にもなる。「これ難しいなぁ...」と、途方に暮れそうになるnoteが正直あるし、たくさん悩むこともある。それでもね、②と同じ。盛り上げてくれた、参加してくれた、お礼の意味も込めて。「手書き」企画も、先月ゆる募をはじめた「わたしの執筆スタンス」も。公序良俗に反しなければ、基本的にはシェア。

シェアしたい/しなきゃの基準、簡単にこんな感じ。


シェアすることのメリットは?

だれかのnoteをシェアするのって、当然そのnoteが良いと思うから、たくさんの人に読んでほしいから、そんな純粋な理由ですることだというのにだれも異論はないと思う。
でももうひとつ。こんな見方もできるんじゃないかなって思っている。
半年前のnoteで、ぼくはこう書いている。

帯の最大のメリット。
それは、推しを自分のアカウントでみんなに紹介することができる、ということだ。
これはとても魅力的なことで、それは同時に、推しを発掘した、みんなに紹介した、という、仲介者的な立場にもなるというふうに言い換えることができるのではないかと思っている。

(※このnoteでは、シェアすることを「帯をつける」と表現している)

さらに、

帯をつけるという行為及びその内容には、その人の人柄やセンスが反映され、(中略)その人の「評価」「評判」にも影響する場合があると言ってもいいのではないかと思っている。

とも。
ここはこれを書いたときから変わっていないのだけれど、シェアするという行為は、自分のみならずみんなのtwitterのタイムラインを彩ることでもある。もちろん、みんなのnoteを自分のTLのお飾りにつかおうっていうわけじゃない。そうじゃなくて、シェアするにふさわしいnoteとそうでもないnoteがあるよ、ということ。だって、シェアにふさわしくない(とぼくが思う)noteを流れに放っても、みんなの邪魔になってしまうから。

...さて。ぼく、今過激なことを言ったかもしれません。「ふさわしいものと、そうでもないものがある」。ここは誤解されたくないので補足してみます!


ネガティブの、その先

ネガティブな空気を自分のTLに流したくない。上でそのように書いた。「怒」や「哀」が全部ネガティブかと言うとまったくそんなことはないんだけど、ちょっと考えてみてほしい。
たとえば、「怒」。「何なんだコレ、ムカつく!」なんて、ストレートにぶつけられても、ねぇ。投げっぱなしを受けとることはできるけど、流す気にはならない。そう思いませんか。ぼくならちょっと戸惑ってしまう。
シェアするうえで大切な基準になるのは、書き手がその感情を「一度呑みこんでいるかどうか」。その感情を「伝える形に昇華できているかどうか」。ここなんです。読んでもらう準備ができている、ぼくがそう思えるかどうか。そう言い換えてもいいかもしれない。
感情に任せて書きなぐったように思えるもの、これはシェアしづらい。もちろんそんな空気のnoteでも、いいなと思うものはある。けれど。
うんうん、そうか、そりゃあ怒るよね。つらいね、哀しいね。こころの中でそんな相槌を打ちながら、そっとハートを赤くする。でも、シェアはしない。
ふさわしいものと、そうでもないもの。こんなふうに、どんなに「いい!」と思っても、敢えてシェアしないこともあるんです。

どうかな、補足になったかな。
みんなのTLを彩ること、シェアというのはそういう一定の責任のあることでもあると、その気持ちも忘れないようにしないとね。


シェアに込めるもの

シェアする内容には、いくつかのパターンがある。

①本文の引用+内容の補足をするシェア文
②内容の補足をするシェア文のみ
③本文の引用+感想
④感想のみ

シェアするっていうことは、繰り返しになるけれど、これをすこしでもたくさんの人に読んでほしいって思うから。だから、ただシェアだけすることはしません。つけるべき言葉が見つからないときは、正直にその旨書く。「言葉が見つからない(ほど素晴らしいし読んでほしい)から、そっとシェア。」みたいにね。
広まってほしい、純粋にそんな気持ち。
だからこそ、シェアしたツイートにいいねしてもらったとき。自分の思いがだれかに届いたみたいで、とっても嬉しい。難しい、微妙な線でもあると思うんだけど。「他人のふんどしで相撲をとる」との境界線ね。自分の手柄と錯覚しないように。これを間違えないようには、いつも気をつけていたいと思っています。


おわりに

あおやぎわかこさん、書かせて頂きありがとうございました。趣旨に沿うものだったかな。ぼくは、こんなふうに考えています。
何だか偉そうに書いてしまったけれど、シェアしたくても言葉が出て来ず見送ったり、単純に時間がなくてできなかったりすることもたくさんあります。毎週読んでシェアすることを楽しみにしているnoteもあります。でも、スタンスとしては気まぐれではないと思っていて。だから、このnoteを書きました。
#シェアめぐり 、たくさん届きますように。

今回もさいごまでお付き合いありがとうございました。
週末、またたくさんのnoteが公開されると思います。みんながそれぞれの思いでするシェア、楽しみにしています。
それでは今日は、このへんで失礼します。







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