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だからスキを手渡したいんだ week25

こんにちは、だいすーけです。
その週に読んだnoteのなかからいくつかの作品をピックアップしてご紹介するという取り組みをしています。今回はその25回目。早いもので今年ももう半分終わりますね。

と、いうことで。今回は前書きをさっと短めに。
それではさっそくご紹介していきたいと思います。
どうぞ。



隣の芝生が青いなら / 谷川さや花 さん

周りを見回せば、そこには一面の、青。柔らかな風が、その表面を撫でる。キラキラと光の跳ねるその様子に、こころは奪われる。わたしも、あの青が欲しい。
「隣の芝生は青い」。ぼくは青どころか、それが金色に見えることが多々あります。谷川 さや花さん、はじめまして。

自分がほんとうは何を求めているのか、何が欲しいのか。隣の芝生の青さに目を奪われている状態のときほど、それが霞んで見えづらくなるような気がしています。谷川さんが、欲しかったものがあるとして。でも、もしその「欲しい」の感情が、だれかがやさしく手入れをしつづけた芝生の色を見たことで、湧いたものだったとしたら。

だからいつも「いいな」と思うと同時にドキリとする。大丈夫かな、まちがえた栄養を抽出していないかと確認してしまう。

「いいな」の裏に隠れた、「うらやましい」の感情。膨らみつづければいつかそれは「妬み」となって、他者のしあわせを喜べなくなる。自分が好きだった人たちのしあわせに、笑顔を返せなくなる。人のものは良く見えるから、そう感じたときほど気をつけなければならない。だから。

隣の芝生が青いなら、わたしも私なりの青を育てよう。

このように思えることは、決して簡単ではありません。「私なりの青」。大切に育てたその色を愛しく思えたなら、そのとき初めて「隣の芝生」の色をただ素直に「きれいだな」と思えるようになるのではないでしょうか。


動画世代のわたしたちが、noteを書き続ける理由 / きゆか さん

公開当初から多くの方に読まれたnoteだったと思います。集まった支持は、上の世代の「なるほど」なのか、Z世代やミレニアル世代の「そうそう」なのか。

『今の10〜20代が、noteを書き続けるのめっちゃむずいよね』

現在41歳の、どちらかというとアナログ側のぼくでも感じることがあります。TikTok、YouTube、Instagram。まるで情報の洪水のような、デジタルの波。押し寄せるそれらを受けとめるだけで精いっぱい。自分がその波に乗っている絵が想像できない。
一方、きゆかさんをはじめとする現在20歳前後の人たちは、その波の中で育ってきた世代。(いい悪いの話ではなく)情報はビジュアル(と、音)で収集するのが当たりまえ。わからないことは人に訊く、本を読む。そんなことより数段早く手にする情報、段違いのスピード感。そんなキラキラした瞬発力のあるSNSに囲まれる中で、ましてや文章を書こうなんて。ハードルが高すぎるよねと、敬遠してしまいがち...だ、けれども。

それでもわたしがnoteを書き続ける理由は、『投稿に重み』があるからだ。

ほかのSNSとnoteが大きく異なる点は、ここなんですよね。投稿の、重み。ひとつ書き上げるのに費やす時間、労力。そして、それが逆に、新鮮に映る世代がある。

少しでも動画世代の人たちがnoteで創作をはじめてくれたらとても嬉しい。

そんな世代の代表として、なんて言ってしまうと不要なプレッシャーになってしまうかもしれませんが、きゆかさんの創作への熱意と姿勢を見て「わたしも書いてみたい!」と思ってくれる同世代がすくなからずいると思うし、これからも現れると思います。
書きつづけたその先に、見たい景色が見えますように。


自分と文章が並んだ / ゆっこ|yukiko yamada さん

つづけていた毎日更新を終えて、ちょうど1か月くらいでしょうか。書けるときに書く、ゆるやかなペースで書く。そうnoteとの向き合い方を決めた、ゆっこさん。心配していたのは、「書く習慣がなくなること」。そうなんですよね、つづけてきたことの反動、日常として取り組んだものが遠い存在になってしまうことへの恐怖。以前はぼくも100日ちょっと、毎日更新をしていました。だから、その気持ちはわかるつもり。

毎日書くということを止めてみて、わかったこともありました。それは、毎日書くということそれ自体が、いつの間にか重みとなっていたこと。知らず知らずのうちにかかっていた負荷に気づけたことは、大きなことなのではないかなと思います。
で、その上で。

書く習慣は維持したまま。
毎日ではなくゆるやかに書く。

24時間ごとに訪れる区切りに追われることもなく、かといって、区切りがないことに甘えることもなく。そんなペースで綴るようになって、「「自分」と「文章」が並んだ」。これは、書くことにまっすぐ向き合ってきた姿勢がなかったらわからないこと。

文章が自分を追い越さない。足元にもいない。ぴったり同じタイミングで進んでいけてる。

「等身大の自分」を書くこと。これから大切にしていくのは、自分がつかう言葉や紡ぐ文章が、「しっくりきている」のかどうか。
見える景色が変わったのかな、と思います。新たなステージに導いてくれたのは、これまで書いてきた自分自身に他ならない。
これからも、楽しみにしています。


【空に浮かぶパンケーキ】 / 碧月はる さん

パンケーキだ。今日の私は、パンケーキを食べるためにここに来たのだ。

大きな期待を胸に鼻息荒く、はるさんがパンケーキをオーダーする姿を想像してしまいました。写真のパンケーキ。テンション上がりますね...おいしそう。写真を見て、画面をスクロールする手が止まりました。
運ばれてきたパンケーキを前に、はるさんが内心で上げたらしい歓声は、きっと外に漏れていたのではないでしょうか。パンケーキをオーダーしたときの、きっと何千倍も。はるさんの目の輝きは、キラキラに増していたのだと思います。

はるさんの描く、こういう日常が好きです。
ぼくの深読みのしすぎなのかもしれませんが、何というかこう、ここはパンケーキなのですが、その甘さや優しさを、全身に沁み込ませていくような。目のまえのしあわせを、壊してしまわないように、優しく包み込むような。そんな、描写のある日常。

しっかりと厚みのある二枚のパンケーキは、あっという間に私の胃袋に吸い込まれた。何なら、心にも吸い込まれた。

深みのある赤いお皿にのった、ふわふわのしあわせの鍵。濃いめの珈琲とともに身体の隅々まで行きわたって、それはそのまま、生きる力になる。

夕暮れの空に柔らかく光るまんまるのお月様が、店を後にしたはるさんを迎える。タイトルのとおり、まるで空に浮かぶパンケーキのように。徐々に色濃く、一日を終わりへと導く空の上。すこしずつ耀きを増すお月様に見守られて家路につくはるさんの、その日の眠りはきっと、とても深く穏やかなものになったのだと思います。


愛だ、恋だ、それは大切な雫だ。 / 夢花 さん

ふるふると震えながらすこしずつ大きくなって、やがて滴り落ちた雫が潤すその対象はひとつだけではないのかもしれない。そして、それは生きてきた時間と視界の広さにもよるのかもしれない。

私は、どちらかというと愛には種類があり、どの愛も自分なりに最大級で、ステージが恋愛なのか仕事なのか友情なのか育児なのかは、あまり重要ではないと思っている。

愛に種類があるとして、その愛情がどこに注がれるかということはあまり重要ではない。そう思う理由を夢花さん(はじめまして!)が綴ってくださいました。
恋愛、仕事愛、友愛、親子の愛。ほかにもあるかもしれませんが、このように夢花さんが思う理由は、そこには「相手のことをきちんと見つめ、わからなくても知ろうとし、自分自身を省みたり成長していこうとする工程」が共通して存在するから。

「1番でありたい」「愛が欲しい」。こと恋愛においては(いい悪いの話ではなく)この傾向が強いように思いますが、数を知れば知るほど、愛は「欲しい」より「与えたい」「してあげたい」という思いへと変わっていくのではないでしょうか。

そこになんのメリットも見返りもなくていいとさえ思えたら、それはもう、自分が持つ愛情のタンクが大きく育った証ではないだろうか。

愛情を「注ぐ」という表現が、ぼくはとても好きです。それこそまさに、滴り落ちる雫のような。その一滴が、乾いた土地を潤す。豊かな土地に、更なる豊饒をもたらす。注ぐ喜びと注がれる喜び、そのいずれをも深く理解するために。そこにあるものを愛として、大切に育んでいきたいと思います。




おわりに

「だからスキを手渡したいんだ week25」、今回も5つの作品をご紹介しました。今回もたくさんnoteの中を旅しました。探しても探しても、まだ見ぬスキがある。人の数だけ文章があって、その人の過去や現在や、その日の気分によって、また無限に生まれる。(noteという狭いプラットフォームの中にあっても)ずっと追いつくことのない旅。いい時間を過ごさせて頂いたと思っています。

と、いうことで。突然ですが、今年も半分を終えるこのちょっとした節目でこのシリーズはいったんおしまいにしたいと思います。
理由はふたつあるのですが、ひとつは自分の言葉がなかなか生み出せない状況で(最近全然更新できてない)、もうすこし自分の中身と対話する時間が欲しいこと。そしてもうひとつ、前に定期購読マガジンの中でお話ししたことがあったんですけど、かねてからちょっと仕事を見直してみようかな、と思っていて、それがすこし動き出しました、ということ。こっちがメインかな。

ご存知ない方のためにすこしぼくのことを書くと、ぼくは現在バーで働いていて、もう長いこと通常の営業ができない状態です。思わぬ形で時間ができて、それがこれまでの自分の人生を振り返るきっかけになりました。今17年目のこの仕事が嫌いになったわけではないし、後悔もしていません。でも、40を過ぎてこの先、このままほかの世界を知らずに生きていいのだろうかとか、興味のあることや趣味にしていること(写真をはじめとした「表現すること」など)、それらをその枠の中から出さずに眺めているだけでいいのだろうかと。正確にはウイルスの世の中になる前からなのですが、すこしずつそう思うようになっていました。noteはそうしたきっかけを、ぼくに与えてくれました。みなさんの日常、過去、挑戦、進んでいる道。それらがぼくに、たくさんの価値観と可能性を見せてくれました。そしてこんなふうに、一歩踏み出してみようと思わせてくれたんですよね。ほんとうに感謝。
もちろん、いろいろやってみて元に戻る、そんな選択肢や可能性もあると思います。そのときはきっと、清々しく戻れると思います。それでいいし、そうするべきだし。

長くなってしまいました...べつにnoteを止めるわけでもないし、しんみりする話でもないのにな。

だから、自分のことにちょっと専念する時間が必要なんです。そのための一環として、このシリーズもいったんおしまいにします。今111週連続更新なんですけど、それもこだわるのやめます。
更新するときはするしみなさんのnoteも変わらず読むし、zoomの集まりもこれまでどおりお声がけ頂けたらうれしいしこちらからお願いすることもあると思うし、変わらないんですけど、自分のスタンスとして区切りとして、ちょっとこれは表明しておきたいなと思って書かせて頂きました。
なので皆さま、これからも変わらず、よろしくお願いします。このシリーズをおしまいにする分、twitterでのシェアはしていきたいです。最近つぶやきもろくにしてないし。あ、Instagramはちょこちょこ更新しています。癒し。

ということで。長々とすみません。紹介noteが主役なのに、あとがきがメインみたいになってしまいました。だいすーけからちょっとしたお知らせとして、あとがきにかえさせて頂きました。

今回もさいごまでお付き合いありがとうございました。このシリーズは、ぼくにたくさんの価値観をもたらしてくれました。とてもためになったし楽しかったです。
これからも変わらず、仲良くしてください。
よろしくお願いします!






このシリーズはマガジンにもまとめてありますので、よかったらこちらからもどうぞ。







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