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自分の考えを持つ、ということ。たとえば、代々木公園の五輪ライブサイト設営のお話について。

ある物事について、いったいどこまで情報を仕入れたなら。もしくはどれだけ自分の経験として消化したなら。それを自分の考えとして、堂々と表明できるのだろう。
そんなことを延々考えているから、ぼくはいつも間に合わないんです。
考えを、意思を。しっかりと自分の中で持つことが、遅くなってしまう。

...みたいに、悩むことがあります。
というお話です。



5月31日。仕事の前に、代々木公園に寄りました。この日までに行っておきたかった理由がありました。それは、公園内の中央広場に生えている木を剪定し、オリンピックのためのライブサイト(パブリックビューイング)を設営する工事が今月からはじまるから(※)。工事の前の様子を、どうしても見ておきたかった。

※昨日(6/1)、この場所をワクチン接種会場に転用する方向、との報道がありました。また、ライブサイトとしての使用は中止の方向で調整、とのこと。


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オレンジの囲いで覆われた先(中央広場)には、10月の頭まで立入禁止。

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ベンチの先の花壇、よく写真撮ってたんです。ここにもはいれない。

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注目を集めた話なので、報道でも様々な意見が飛び交いました。
以下、いくつかの媒体の見出し。

五輪のために木を剪定「必要?」広がる波紋 代々木公園(朝日新聞デジタル会員記事 5/25)
代々木公園の木が切られはじめている! 五輪イベント会場建設への反対の声も虚しく(COURRIER JAPON 5/25)
代々木公園の自然を破壊する、東京五輪2020ライブサイト計画の中止を求めます#代々木公園の木々をオリンピックから守りましょう(change.org キャンペーン)
代々木公園の五輪PV会場工事 1日“強行”スタート、渋谷区民からは憤りの声(スポニチ Sponichi Annex 6/1)

一見しておわかり頂けると思いますが、随分と煽り気味の見出しもありますよね。
溢れかえる情報を取捨選択して、自分の目で確かめて身体で感じて、どのように自分の考えを固めていこう。
大げさではなく、これは個々人のセンスが問われる切実な問題なのではないかと思っています。

「センス」なんて、少々挑戦的な言葉かもしれません。申し訳ないのでぼくの立場を表明しておきますね。

引用した「change.org」のライブサイト計画中止のキャンペーンに署名しました。ライブサイトの設営それ自体とそのための剪定に反対しています。
ただ、このキャンペーンの「自然破壊」というワードは少々行き過ぎなのではないかと思っています。「剪定」は必要なことで、ただちに「木を切る=自然破壊」としてしまえば、ぼくらの生活は成り立たない。街路樹の手入れもできない。
また、ライブサイト設営と剪定の話を同時に語ってしまうことの危険性も理解しているつもりです。これはそれらをごちゃまぜにしてしまっている印象のキャンペーンだけれど、考えた結果、最終的には署名しようと思いました(※)。

※ここで議論を戦わせるつもりはありません。この問題に関心のある方は、賛成反対その他それぞれご意見があると思いますが、そのことについてのコメントはお控え頂けますようお願いします。また前述したとおり、6/1現在ライブサイトとしての使用は中止の方向で調整とのことです。


普段あまりこういう話はしないようにしてきましたけれど、政治的な、っていうのかな。柔らかいことだけ書いていたいなぁと思う。けれど、ときにはそういうわけにもいかないかなと思って。
あくまでこの件は、ひとつの例としてですけどね。

飲食店に酒類提供禁止、20時までと言っておきながら(お酒は出さないものの)ライブサイトでは飲食スペースを設置するなんて。ほとんどの人が静かに作品を鑑賞する映画館はダメなのに、思わず歓声を上げたくなるはずのオリンピックはOK。リアクションは拍手のみ、みなさん静かに鑑賞しましょうね。そんなの守れるはずがあるだろうか。1,600人(のちに収容の規模を縮小して710人になった)をどうコントロールする?具体的な方法も聞かされていないのに支持できるはずがない。

...から反対なんです。
でも、今こうしてぼくに見えているものって事実の側面としては決して多くをカバーしているわけではないじゃないですか。
ここにライブサイトを設営することで回るお金がある。仮に奇跡的にウイルスが収束して安全にオリンピックが開催されたなら、ここにライブサイトがないことで不都合が起こるかもしれない。とか。
今、反対って意見を表明しているけれど、自分の持っている情報が自分でジャッジするに足るものなのか。ジャッジする資格があるのか。持っている情報は、楽をして/無料で手に入れたものばかりではないだろうかと考えてしまう。


この例えでは意見表明したけれど、日常的に遭遇する多くの出来事や問題にたいして、そうやって考えていくと足が止まってしまうんです。
それってほんとうに考えているの?思考停止しているのと同じなのではないですか?そんなふうに思って。

このことは別に規模の大小は関係ないんですよね。情報の取捨選択のセンスや自分で行動してその問題に触れる努力。それって問題の舞台が世界でも日本でも東京でも、SNSでも職場でも家族でも同じこと。


ある問題について100%理解してからでなければ考えを持つ/口を開くことが許されないのだとしたら、きっとみんな沈黙。自分の不理解や不勉強があることを前提にして、異なる考えや意見も尊重しながら謙虚に自分の考えや意見を持ち、表明する(表明することは必須ではないけれど)。それしかないのはわかっているんです。でも、どこかで二の足を踏んでしまう。
ぼくがひとり意見を表明したからと言って何が変わるわけでもないけれど、「考えがまとまらなかった」「意見を表明しなかった」事実(もちろんその逆も、)は、着々と自分の人間性・価値観を構築していくんですよね。
だから、内容にもよりますが、twitterなどでハッキリ自分の意見を述べられる人は強いなと思います(沈黙していたってしっかり自分の意見を持っている人も多いのはわかっています)。そこに責任が伴っていることを理解した言葉はとてもまっすぐに見える。

興味関心がないのならスルーでいいのでしょう。
でも、すこしでも「これはマズい」とか「これは関心できる」とか、気持ちが動くのであればそれをちゃんと自分の中に落としこんで形にしておくこと(言語化も同じですね)。


溢れかえる情報に触れることの便利さと危うさを理解し、適切に取捨選択する。自分から積極的に行動する。適切に考え、(必要に応じて)適切にその考えを表明する。意思も自信も持っていいけれど、柔軟であることと他者を尊重することは忘れない。

結局は、基本が大事なんですよね。「基本」ってビッグワードかもしれないけれど、それでもこれは、そんな抽象的な言葉のうちに収めていいお話の気がします。というか、そうであってほしい。



...3,000字費やして当たりまえのことを再確認するだけの結末となりましたが、同じようなことで悩んだ方がいらっしゃるでしょうか、どうかなぁ。
こういうことで悩むのって定期。成長していない証拠だとも思いますが、気になればその都度姿勢を正して、修正していきたいと思っています。
以上、今回は「自分の考えを持つ」ということについて書いてみました。
お付き合いありがとうございました。







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