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『天檻』「海にしよう」彼女たちはその呪詛からようやく解き放たれる

これは、考察と呼ぶにはあまりにも単純で、解説と呼ぶにはあまりにも稚拙で、感想と呼ぶにはあまりにも咀嚼しきれていない文章。
正直、樋口円香以外のシナリオを追っていなかっため、考察や解釈というより、妄想に近しい部分が多々ある気がするので、ご了承下さい。

「海にしよう」という呪詛

これは、ノクチルの4人が子供の頃、浅倉透が放った呪詛。ノクチル最初のイベント「天塵」の冒頭だ。これはもちろん「海」というものにノクチル全員が捕らわれているというわけではなく、「浅倉透が『行きたい』と願った場所へ、みんなで向かう」という4人の関係性が、呪いとして、ずっとあり続けた結果が、ノクチルという幼なじみのアイドルユニットなのだ。
だからこそ、ノクチル関連のイベントやコミュには度々「海」というモチーフが出てくる。浅倉透が示したノクチルの「向かうべき場所」として。

「海へ出るつもりじゃなかったし」

だからこそ、今回の「天檻」は、そこからの解放を表しているように思えた。この言葉が何度もリフレインされた。

67円の歌――樋口円香の道

3回分200円、1回67円

「浅倉透」というものに一番呪われているのは樋口円香だと思っていた。あるいは、すでに呪われていたものから、解かれたのか。浅倉透という人間に固執し、「浅倉透にできて、樋口円香にできないことはない」と言わしめるほど、隣りにいるべき人間だと樋口円香は自負していた。

だがもうきっと、樋口円香は呪われていない。だからこそ、「浅倉透に。でなければ、幼なじみのアイドルユニットに」期待されているステージを自分一人でぶち壊してしまうような提案を嬉々として飲めたのだろう。

浅倉透だとか、幼なじみのアイドルユニットだとかに捕らわれず、自分を表現者として、『それを聞くひとりひとりの歌になれ』と望むような一人のアイドルとして、ステージを全部もらっていくというのは「いいかもね」になりうるのだ。

『天塵』との対比

そして今回、市川雛菜と福丸小糸が踊り、樋口円香が歌を歌ったということは、とても大きな意味を持っていて、やはり樋口円香は『歌』なのだろう。

透先輩は行っちゃうよ――市川雛菜の道

市川雛菜は、あるいは最初からずっと呪われていなかったのかもしれない。もしくは、呪われることを望んでいたのかもしれない。市川雛菜にとって浅倉透というものが指標であり、だからこそ、誰がどこの道へ行こうが、ノクチルがどこに向かおうが、浅倉透がどこへ行こうが、それが市川雛菜にとっての望みだったのか。今までの道も、これからの道も、市川雛菜にとっては予期し、望んでいた道。だから、浅倉透という人間に惹かれていた。4人の中で最も残酷で、最も明快に前を見ていた。

また、遊べるよね――福丸小糸の道

福丸小糸は、あるいは呪われたままなのか、それとも呪いを受け入れて前へ進むことを決めたのか。強く「幼なじみのアイドルユニットに」捕らわれ続けているが、それは同じ意味として、強く「幼なじみのアイドルユニット」を望む姿でもある。福丸小糸はずっと必死にしがみつこうとしていた。この4人が一緒であれることを。まだみんなで一緒にアイドルをしていくことを望む。この4人の時間を、まだ思い出にしたくないと望む。それはもう誰かに強いられているような、しなければならないという強い呪いのようなものではなく、福丸小糸自身の強い願望。
「海にしよう」という呪詛から、最も解放されたのは福丸小糸だったのかもしれない。福丸小糸が固執した、4人が一緒で居られるところは、浅倉透が指差した「海にしよう」という道だった。だが福丸小糸が望む道はもう、浅倉透が指差した場所ではない。4人で向かう場所だ。だからこそ、この決定的な一歩として大きく描かれるのが、このイベントでの締めくくりの一言。浅倉透ではなく、福丸小糸が道を指差しても良いという、4人の新しい関係性の完成。

じゃ、50年後に――浅倉透の道

「海にしよう」という呪詛を最も強く感じていたのは、あるいはそれを放った浅倉透自身だったのか。自分がこの4人の舵を取っていることに、何かしらを感じていたのか。

「浅倉透を見たい」「浅倉透が感じているものに、浅倉透に見えている世界を知りたい」という問いに対して、浅倉透が出した答えは、ノクチルというワインの栓を開けることだった。4人の先頭に立ちながら、浅倉透に見えている世界は、4人の世界だった。それぞれの道を進もうとしているように見えて、最も4人を感じているのは浅倉透自身だったのかもしれない。

セリフは小糸の驚きだったが、浅倉透の実際の声は「樋口だよ」

そしてもう、浅倉透が道を示すことはなくなった。4人で道を探して、どこかに逃げ出すことを、浅倉透は強く願った。もう「海」なんかじゃなくてもいいように。あるいはそれが陸だったとしても。

解呪の言葉

ノクチルが海だとするならば、川が勝手にこっちに流れてくる分には、それだけただ流し込めばいい。もはや、海へ向かう意味もない。それとも

まさか。海まで来てしまった以上、戻れやしない。重要なのは、やはりここで浅倉透は道を示さなかったことだ。「どこへ向かうの」という問いに、むしろ、4人に問うたのだ。どこへ進もうか。
これこそが、「海にしよう」という呪詛から、全員が解かれた瞬間なのだと思う。

海へ向かった彼女たちは、クジラのおなかの中で、「自由」になった。これから、ようやくやっと、4人の物語は歩き始めるのだろう。

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