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22歳,女性,フリーター

整形外科でリハビリ補助の仕事をしていて、おじいちゃんおばあちゃんとずっと喋っているんですけど、仕事中に、おじいちゃんたちに囲まれながら「理想の死に方」について考えてて。

今すぐ死ぬとしたらどうするかな、って思って。まず、外に出る。体が疼いて、「やばい!出なきゃ!いかなきゃ!」みたいな気持ちになりそうだなって。太陽の下で死にたいっていうことなのか、授業中に窓の外を見るみたい「現実逃避」のような感覚で外に出たいということなのかわかんないんですけど。今自分がやってること、生きている場所から地続きの死ではなくて、もっと外側にあるものみたいなイメージで「死」っていうものを考えているんだと思います。

常に、「ここじゃないところ」というか、ある場所に固定されそうになったら旅がしたくなるみたいな感覚があります。地元は福島ですけど、東京がすごい好きっていうのも、どこに行っても「よそ者」っていうか、そこに馴染みがないし、居心地が悪いってことが自分にとって居心地がいいみたいな、そういう感覚です。死にたいってことではないんですけど。

太陽浴びたら浴びたで、また次なんかしなきゃって思うだろうなと思うんですけど。次...たぶん歩きたい。次は歩きたい。歩いてる途中で死ぬ。(笑)これ、結構理想です。路上でっていうの。迷惑だと思うんですけど、路上で死ぬのがいいかもしれないって思いました。しかも、全然知らないまちとか、外国の路上とか。多分、寂しくないと思うんです。(周りは)顔も日本人じゃないし。知ってる人とか、好きな人とか場所があったら、死にたくないと思っちゃうんですよ。寂しすぎて。私のことを誰も知らないところで、倒れて死ぬか、自分の死期を悟れるなら、自ら土に向かっていきたい。静かな森とか、人が誰もいない森。目立たないところで。死体の処理って大変だから。

姥捨山...楢山節考という本を読んだんですけど。息子がお母さんを背負って山に捨てに行く話です。実は、私のひいお婆ちゃんが、85歳くらいで池に飛び込んで自殺したんです。お父さんが言うには、自分が必要ない人間だって思ったから。家族の中での役割とか居場所とか、できることがなくなっちゃって、「自分はもう役に立たない」と思ったからそういう道を選んだんじゃないかって。私は、小さかったからよくわからなかったですけど、楢山節考を読んで、年を取って社会的に生産性があんまりない人が、自分でそう思って、身を捨てるっていう発想だったのかなって最近思いました。

山に入るなら、何か残したいです。自分の歌とか。歌声とか、書いたものとか残したいっていうのはあります。創作活動は普段やってないんですけど、楽器を書いたり、文章を時々書いたりします。なんで歌なんだろう。イメージでいうと女の人の歌。明るい感じの。

でも、私、考えがすぐ変わるので、また聞かれたら、全然違うことを思うと思うんですけどね。ブレないことは絶対ない。私は絶対ぶれると思うので。考えが。明日何考えているかがわかんないです本当に。

おととい考え事をしていたら、次の日の朝お腹がすごい痛くなって、酸素とかが全部頭に行っちゃったのかなって思うんですけど、何も考えられなくなっちゃって。(笑)人って、体調が悪いだけで、感じることとか考えることって全部変わっちゃうんだなって思いました。

おばあちゃんがガンになって、入院とかして、どんどん変わっていくのをずっと見ていて、今は喋ることとか、動くこととかできない状態になっているので、そうなると「違う人」って思ってしまって。よくないことかもしれないんですけど。そういう風に処理しないといられないというか。あの時のおばあちゃんはもういないんだなって思うと、悲しいんですけど、違う人って思っちゃっています。

人生で、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり、もしかしたら脚がなくなったり、腕がなくなったりっていうことがある中で、何が抜け落ちたら、その人じゃなくなるのかっていうことを思ったりして。今は状態が安定しているけど、前回会いに行った時は食事ができていたけど、今回あったら食事はもうチューブでしていたとか。この間は手が動いたけど、もう動かなくなったみたいな、削られていく状況はすごいしんどくて、会いにいくことをためらっちゃったりして。

ずっと、ばあちゃんなんですけど、ばあちゃんじゃないなって途中から思っちゃって。私も考えていること毎日変わるし、人は変わるんだなと思ってます。

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