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いじめへの対処について

私たちは多くの場合において何らかの「報酬」を求めて生きています。それはお金であったりとか、権力であったりとか、性欲を満たすことであったりとか色々です。一方、そうした外から与えられる類の報酬によらずに行動するような指針も理論上想定することができます。外から何かを与えられることで発するのではなく、自分の内側の動機から発して行動するようなあり方に今回は話の焦点を当ててみたいと思います。そして、外からの報酬による動機づけを「外発的動機づけ」と呼び、内から湧き上がる形での動機づけを「内発的動機づけ」というふうに呼ぶことがあります。

外から与えられる報酬のための手段としてではなく、ある活動をすること自体を自己目的的に求める欲求を「内発的動機づけ」と呼びます。知的好奇心はその代表的なものです。(市川伸一, 『学ぶ意欲の心理学』, PHP新書, 2001, p.34より引用)

おそらく察しのいい方はもう既に気づかれているのではないかと思うのですが、外発的動機づけと内発的動機づけの境界を厳密に設定しようとするとこれは難しい問題になってきます。例えば、内発的動機づけの代表格である知的好奇心にしても、そこに実は何らかの外的報酬への期待がある場合もあるかもしれません。一方で、仮にそうだとしても少なくともそうした知的好奇心は目下のところ役に立たないようには見えるという場合もあるでしょう。つまり、何らの有用性の観念にもよらず、完全に内発的に行動するというパターンも理論上ありえます(おそらくこうした「無駄」な行動こそが最も豊かな機能なのだとは思います)。しかし、このように考えてくると何が内発的であり、何が外発的であるのかは複雑な問題になり過ぎて、現実的には決定不能になります。ある意味、その人にとって真に何が有用であるのかはその人だけが知っているような側面もあるように思います。したがって正確に考えていこうとすると、内発的動機づけと外発的動機づけは分離不能の状態に陥り、一体化します(ユングの分析心理学で言うところの「エロス」の機能はこうした一体化の作用であるとも考えられるかもしれません)。とにかく言えるのは、細かく考えていくと全てが一なるものに収斂していく傾向がある、ということだと思います。このことから思慮が働き過ぎると統合失調症的な連合弛緩や言葉のサラダなどの状態が喚起されるリスクが高まると言える余地があります。

さて、だとすれば内発的動機づけと外発的動機づけの間の区別は完全に決定することはできず、要は「程度問題」となってきます。外的な報酬を当てにしないような傾向性を観察できるほどに、それは内発的な傾向にあるというふうに推定するのがせいぜいでしょう。ある意味、内発性というのは、何物にも依存しない思想的な傾向の体現であるともいえるかもしれません。つまり、その人の行動が内発的動機づけに基いているほどに、その人は自立的な人間であるということができる余地があります。

例えば、お金がなければ行動できないという場合、その人の行動はお金に依存しています。この場合、その人はお金に支配されていることになり、自立的な人間とは言えなくなります。このように外発的動機づけに依存するほどに不自由になり、内発的動機づけによるほどに自由になるような傾向を推察することができます。

つまり自由主義の立場を今回採用するとすれば、外発的動機づけよりも内発的動機づけの方が個人の自立と自由を強化する指針としては優れていると考えられますから、結果的に内発性の尊重の方に思想が傾くことになります。

では、こうした人を依存的にして支配してしまうようなリスクを持つ外発的動機づけの何が問題になるのかについて考えてみましょう。まず、支配者と被支配者というような対等でない立場は基本として不健全なものであるということは何となく察していただけるのではないかと思います。

暗号表現によって、「場の空気の権力化」が起こる際の大きな特徴として、話し手と聞き手の間に共通の言語空間が失われる、あるいは話し手と聞き手の間の対等の関係がなくなるということが挙げられる。(冷泉彰彦, 『「関係の空気」「場の空気」』,講談社現代新書 , 2006, pp.162-163 より引用)

まず、暗号表現というのは一部の人のみに通じて他の人には通じづらい表現のことです。これは諜報戦などにおいては非常に重要な技術かもしれませんが、乱用されるとそれはそれでリスクがあります。

例えば、暗号表現は一部の人にしか理解が困難なので情報の行き渡り方が不平等になります。するとその情報を知っている人と知らない人の間に権力関係が生じてくるリスクが高まります。さらにこの時、本来、複雑な文脈の上に成り立っている情報が暗号表現を理解できない人たちの間に流通することで「単純化」していきます。言うまでもなくそれは本来は高度な文脈の前提を互いに共有している時にだけ機能する情報ですから、そうした単純化は誤った情報の伝達を産みます。そしてこうした理解についてのエラーの産出がどこかしこで繰り返されて言葉の正確な情報伝達能力が阻害されれば、言葉は窒息して機能不全に陥ることになるでしょう。この場合、相互的で対等な関係としてのコミュニケーションは故障してしまうと考えられます。相互的で対等なコミュニケーションが損失してしまえば、後に残るのは一方的で権力的な「命令」だけであるとも考えられてきます。そこでは権力こそが全てであり、対等な「対話」の居場所はないことになるでしょう。このように話し手と聞き手の間の共通の言語空間が損なわれることは時に致命的なリスクを持っていると言えます。こうした権力闘争が激化する空間がなぜリスクであるのかと言うと、そうした権力闘争の果てに権力が一極集中することで三権分立的な政治的リスクヘッジの機能が破綻して「全体主義」に突入するリスクが非常に高いからです。

全体主義の核心は、個に対する全体の、人間存在の深部にまで至る圧倒的優位である。(内藤朝雄, 『いじめの構造』, 講談社現代新書, 2012, p.242 より引用)

全体主義が具現化してしまえば、徹底的に全ての個人は圧迫を被るものと考えられます。そしてこうした「圧迫」こそが「いじめ」の構造であるとも言える余地があります。

もしも全ての人が対等に対話して交渉する余地を持っているのなら、それは熾烈な権力闘争に対する緩衝材となるものと考えられます。しかし、そうした緩衝材が破綻して歯止めが効かなくなった権力闘争が盛んになってしまえば、そこには権力関係しか存在することができなくなります。この場合には、所謂「弱肉強食」的な価値観がこの世を席捲するものと思われます。つまり、「権力のあるものは権力のないものに好き放題命令する」……そういう世界です。こうした構造はまさにいじめの場合のそれに近いと言えます。

つまり、いじめのような暴力的な行動というのは次のような機序により生まれるのだと言えるかもしれません。


1:外発的動機づけの席捲によって支配と依存が生じる。

2:対等な関係が人々の間から失われて権力闘争が過激化する。

3:権力闘争の果てに権力が一極集中を起こして全体主義となる。


そして全体主義の発現の結果、個人への圧迫としての「いじめ」の現象が生じるのだろうと私は考えています。

ではどうすればこうしたいじめの発生を防ぐことができるのか? 私はひとまず次の三つの処方箋を提案します。


1:内発的動機づけの強化。

2:対等な関係によるコミュニケーションの強化。

3:個人主義の強化。


まず、支配と依存は外発的動機づけをその端緒としていることから、これを内発的動機づけに転換できれば権力関係の発生をある程度食い止められる可能性があると考えられます。次に、上意下達的な権力関係をけん制して対等な関係を重視することで予め権力を分散させることが有効であると推定できます。最後に、個人を圧迫する全体主義に対して徹底的に個人主義を対置して常に抗戦することで全体主義の発生と暴走をある程度抑制できる可能性に賭けます。

以上が、「いじめ」への対処について私が考えていることの概ねになります。立場の弱い人などはどうしてもいじめの対象などになりやすと思いますし、いじめには様々なものがあり、中にはとても陰湿で法的に裁き切ることが難しいようなケースもあると思います。

また、いじめというのは被害者への心的負荷が極めて大きく、心身の不調につながるリスクもあると思います。深刻な場合では、それこそ精神障害を発症してしまうこともあるかもしれません。したがってそうした莫大なストレス因の発生を予め防止し、けん制することは精神衛生の観点からも大切だと思います。小さなものにせよ大きなものにせよいじめ的な行為が減少すれば、それだけいじめの被害者を減らすこともできるものと考えられますし、それは良いことなのではないかとも私は思います。

今回の結論は、いじめを防ぐためには内発的で対等な関係を営むことができる個人主義的な人達の存在がとても大切であるということになると思います。

今いじめられている、あるいは過去にいじめられたトラウマに苦しんでいる全ての人達が幸せになれますように。祈ります。

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