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粗雑に散らかった自由な文章の良さ

文章を書く時には、無理に書こうとしないようにするというのもおすすめのやり方です。書こう、書こう、と焦ってくると余計に書けなくなったりします。もちろん、文章の構成を練ったりとか、その他の設計的な技能の発揮とか、そういう類の行為に時間を使うのもまた有効なことだと思います。ただ、その場合にもやはり「無理をしない」というのは最重要な気もします。無理をすると、大体、心身が故障します。それはなるべく避けたいリスクです。

時折、カスタネットの音を思い浮かべます。そこにヴァイオリンの音とかピアノの音とかを重ねて想像を深めます。すると様々な文章が湧き上がってくるのを感じます。音楽と文章の関係も考えてみると面白そうですね。

文章はどんな種類のものでも自在に書けるようになると、かえって書くことがなくなることがあります。書くことがなくなったことで、自由自在に書けるようになったのだ……とも言えます。その後にそれでもなお書き続けるためには特殊な技能を要するように思います。必要性を喪失してもなお、書き続けるための特別のドライブのようなものが必要かもしれません。

文章の構築の手技には様々なものがあります。医学的なもの、数学的なもの、文学的なもの、生物学的なもの、言語学的なもの、心理学的なもの……その他にも様々です。その様々なすべての学問に精通するというのはとても困難なことです。そこで、人は自分の「専門」を持つようになります。そのようにして労力を専門分野に集中させることで、知識を深めようとするわけです。

専門家の反対にはジェネラリストがいます。彼らは専門家的に専門分野を深めるというよりも、総体を重んじます。それはある意味、「総体」という専門分野の専門家としての行為であるとも言えるかもしれません。つまり、ジェネラリストはあらゆる物事の総体についての「専門家」です。

例えば、共産主義とリベラリズムの区別などは面白い問題です。共産主義は結果の平等を最大化しやすく、リベラリズムは機会の平等を最大化しやすいでしょう。ここで重要なのは「平等」にも種類があるということです。機会の平等を保障するのか、結果の平等を保障するのか、それらの間には大きな差異があります。それらを部分的に同一化して示したり、具体的な多くの要素による影響から隔離して抽象的に論じたりすることは可能でしょう。しかし、それらの間にある「差異」は現実的には大きなものでもあります。私個人は機会の平等と結果の平等のバランスを取るべき、という立場を持っています。機会の平等も結果の平等もその存立のために互いの対立項を必要とし、それがなければ、いずれも瞬く間に崩壊します。

ある人が主張していることが否定されているのを見ると、かえって肯定したくなったり、肯定されているのを見ると、かえって否定したくなったりしている人を見たことはないでしょうか? ちょうどそのように多くの人は反動的な性質を持っています。つまり、特に自発的な主張や思想があるわけではなく、単に相手に反対したい、というような逆張りを主軸とした立場がこれであり、こうした反動的な立場を取る人の心情を指して「ルサンチマン」と呼ぶこともあります。簡単に言うと、自分自身の心から出た主義主張や思想によるのではなく、相手に反対すること自体が目的となってしまっているような反動的な状態のことです。ルサンチマンに囚われている人は、自分軸を喪失し、他人に反対することだけを強迫的に繰り返します。逆に、相手がルサンチマンに囚われているということが分かれば、こちらの意見に反対されても問題のないようにあらかじめ調整を施しておくことで、政治的には有利にことを進めることも可能でしょう。

箴言形式のような分散的な文章の形態はいいなと思います。今回の文章はこれを意識していました。あまり文脈の貫徹に囚われずに、自由に気ままに文章を書いています。そうしたのんびりとした文章も時に有用でしょう。

ルサンチマンに囚われずに、自由に生きていきたいものですね。無論、ルサンチマンにも機能はあるのですが。この世界に役に立たないものなんて何もないのです。

みなさんに神様の加護がありますように。祈ります。

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