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桜の心臓

桜の木の下で、何をしよう? そう思った。私は桜の幹にそっと手を当ててみた。桜の鼓動を感じた。桜に心臓なんてあるのだろうか? そんなものは? 植物学的にはそんなものないのかもしれない。しかし、私の心にはあるのだ。桜の心臓。春の夜に見る、あなたの夢を、聴かせて。

私は恋人の名前を呼ぶ。すると恋人はコーヒーを淹れてくれた。それは私たちの間にある一つの作法のようなものだった。恋人の名前は美樹と言った。美樹は言う。
「コーヒー美味しい?」
私は言う。
「美味しい」
すると美樹は満足そうに頷いて、読書をしに行った。美樹の周囲には膨大な量の本が積まれていた。ジャンルは様々だった。医学から数学、言語学の本までこの世界のありとあらゆる分野の本が彼女の周りには詰まっていそうだった。
私は問う。
「美樹はどうしてそんなにたくさんの本を読むの?」
美樹は答える。
「……面白いから?」
「何がどんなふうに面白いの?」
「……すべてが面白い」
「……」
「……」
そこで会話は終了した。
私は、美樹が読書に夢中で構ってくれないので、一人不貞腐れ、小説を書くことにした。パソコンを立ち上げる。こないだ買ったばかりの新しいパソコンで性能はいいのだけど、まだ操作に慣れなかった。私はけっこう機械というものの操作が苦手だった。美樹とは違って。
 一行、二行、三行と小説を書きだすごとに、自分という存在が解放されていくのを感じた。この世界に対して私の心は確実に開かれていく。それは小説を書くということのポジティブな効用の一つだろう。少なくとも、それはあまり内向的な素養ではなくて、極めて外向的に、対象への愛へと差し向けられている。それは、どこまでもどこまでも行けるのだ。もうちょっと先へ、もうちょっと奥へ、そういうふうに。

言葉の配分。それは難しい。だから、私はたびたび美樹にそのことを相談する。美樹は読書から離れてくれないこともあったが、――私よりも読書の方が大事なのだろう――、概ねでは私の小説執筆の力になってくれた。彼女の存在はとてもありがたいものだった。私にとって。
そして、彼女は私が先ほど書いていた原稿を読んだ後に、言う。
「同性愛ってどう思う?」
私は美樹の問いの意味を少し考えた。そして、答える。
「いいと思う」
美樹は考え事をしている様子で顎をさすった。そして、言う。
「どんなふうにいいの?」
「うーん」私は迷いながらも答える。「そんなに目くじらを立てるようなものでもない……的な意味で?」
「そうなの?」
「……多分」
美樹は自信なさげな私の返答に、「フーン」と一言言って、また読書に戻った。私は自分が何かまずい応答をしたかどうかについて内省してみたけど、上手く彼女の応答の意味を探し当てることはできなかった。
私は一つため息をついて、また小説の執筆に戻った。
すると、美樹が戻ってきて、一冊の本を私に見せてくれた。
その本はドストエフスキーの『罪と罰』だった。
美樹は「あなたってソーニャみたい」と一言私に言った。
「ソーニャ?」
と私は美樹に問い返した。どういうことかはよく分からなかったが、美樹は私にソーニャを感じているようだった。しかし、私はどう考えてもソーニャではなかった。だから、美樹の感性が不思議になった。いつものことだけど。
「私とソーニャでは天地ほどの差がある気が……」
と私は言う。
「そんなことないよ」
と美樹は言う。彼女は続ける。「ソーニャはとてもやさしいでしょ? あなたもそうでしょ」
私は自分が優しいかどうかについて考えてみた。特に答えは出なかった。美樹がそう言うのなら、その通りであるような気もしたし、世間の一般常識に照らせば、別にそんなに優しくもない存在であるような気もした。結論としては、よく分からなかった。ただ、美樹の指摘を否定するのも、なんだか気が引けた。それがなぜなのかもわからなかったけれど。
「私がソーニャみたいだとして、それによってどんな効能があるの?」
 と私は美樹に尋ねてみた。
 美樹は答える。
「ソーニャみたいな人は、ソーニャみたいに書けばいいんだよ」
私は美樹のその言葉についてよくよく考えてみることにした。

私はソーニャのソーニャ性について考えてみた。結果、何一つとして分からなかった。思うに、多分、ソーニャを特徴づける現象なんてこの世には存在しないのだ。そのように結論するしかなかった。ソーニャのソーニャ性とは、その性質の無さによるのではないか? そのように自分に問うてみる。しかし、何一つ答えは出ない。そして、これは私にとってはとてもいい徴候なのだ。如何なる答えも出ない地点では、自由に想像力を発揮することができる。その意味では、美樹の指摘はまさに慧眼だった。私の思考の「ツボ」を適切に押してくれている。私は美樹に感謝した。彼女に後でシュークリームを買っていこうと思った。ささやかな感謝の印として。

美樹は私が近所のケーキ屋さんから買ってきたシュークリームをほおばりながら言った。
「マジうまい!」
おそらく、シュークリームがうまい! ということだろう。美樹は私よりもシュークリームの方が好きなようだった。私はそれでも別にいいけど、今夜の献立の美樹の味噌ラーメンに大量の唐辛子をこっそり混入させてやろうと内心に誓った。
「美樹はシュークリーム大好きだけど、何か由来とかあるの?」と私は尋ねてみた。
美樹は不思議そうにまばたきした後に「ないよ。端に好きなだけ」と一言言った。
「へー」と私は言った。
すると美樹はにやにやしながら言った。
「好きなものに理由なんてないよ。私があなたのこと好きなのも、そうだよ」と。
私は恥ずかしくなったので、小説の執筆に戻ることにした。今夜の献立の味噌ラーメンは美樹の好きなバターを多めに溶かしてあげることにしようと思った。

――唐辛子は……少なめでいいな!

私はそのように内心に誓った。



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