見出し画像

ポストモダニズム入門

多様な木々のようなものがある。多数の物。色々の個性。しかしそれらはどれも何か不足している。本当に大切なものとは何だろうか?  それについて私はいつも考えている。何にしても大切なことは何かを愛することかもしれない。「はい」という言葉は古臭く、どこかキナ臭くもある。しかしそれもすべて神様の贈り物かもしれず、少しの工夫は圧倒的な効率を生み出すことがある。それはとても奇妙で、とても奇跡的なことでもある。

文章の音声入力の奥義について考える。それはどこにあるだろうか? あれは彼方にあるか? この時にあるのか? それは分からない。しかし文章の誤字も含めて、すべては恩寵であるのだし、なぜ恩寵なのかというのも、それはそれで不思議なことでもあるけれど、機械的な人間の連接、その機能的連結、これらの愛の動作、そもそも相手が好意的だろうかとか相手の好意それ自体を持つということ及びその所有的な現象の多様性について。

例えばオフィスという概念がある。そして「オフィスソフト」というものがある。そうしたものが持つもの。そこから「発明」される存在としての一つの記事。あるいは偉大な人が社会的に叩かれることについて……。これは何を示しているのだろう? それはわからない。しかし本当に大切なことはもっと気になるもので、どこにも「ない」ものによる。 そういう一般的でないものこそが本当に大切なのだということを故郷の景色はいつも示唆しているように思う。 宝物はいつも隠れている。これは公共的な故郷という概念はパトリオティズムの一つであり、 なぜなのかはわからないが、わからないことが多いということそのものが、わからないことそのものさえもすべて含めて、偉大なことであり、「そういうふうに」小説を書きたい。なぜなら、それこそ恩寵であるのだし、スピードこそがある種の脱構築していく逃れゆく鼠のような機能的連接に他ならないから。色々な機能がある。便利なものもあれば、愚にもつかないものもある。それこそ「外」である。それにしても何がどうなのかという状況判断、それは難しいことだ。何事にも生成変化できるものがある。それは放っておいても何にもならない。水をやらなければ花が咲かないのであり、ある論調、音の調子、n個の性、色彩、色彩の恩寵、例えばラフマニノフによるそれらの基準についていつも考え、 なぜなのか? これはなぜなのか? そう考えつつも、あまり気にしないというのも手だ。不器用な人ほど何事も気にしすぎるものだが、しかし一種の「企業」であるということは機能的な意味での「脱力」を意味し、脱力とは何かがスムーズであることであり、力は何かの物質を動かす。しかしその一方で副作用をも持つ。「強張り」である。身体の強張り……。それは「力む」などと呼ばれる。力むことはとにもかくにもロシア語の「シンデレラ」とでも言うような概念である。

私は元気である、という構文。そして、「なぜなら」と応える文。 例えば、すべての原因に愛を求めるような優しさ……。それは美しい。 愛と物質のエマルジョンである。 それは私的であり、公的ではない。 「これは猫である」という文に、「水のようなものが欲しい」と応答して述べる時、そこに文脈上の破綻を読み取ることもできる。一方で、私は私のものである、そのようでありたい、という文。あなたは格上である、というような権威的な判断。これは何のパロディだろうか? あなたは「この」時間であり、それに他ならない。だから人類の必要性というある種の大義の下に旅へと出発する権能を与えられている(これは制度的なものだが)。これは鉛筆であるという文とこれは「素敵な」鉛筆であると述べるのとでは機能が異なる。他には、ガスの破裂が致命的な火災を引き起こすことがあるように、もちろん一種の書物さえもが歌を歌うということは常にありえる。ある種の印がそこには与えられている。その何者でもないという印は高度に否定神学的ではあるが、聖書的でさえあり、なおかつ――少なくとも「私」にとっては――友愛的である。音声入力の持つ甘さはその機能の欠如なのではない。それは機能であり、それでも使いようがある。

ある死者が言う。それは何か? その知らないもの、「それ」の知性について答えよ、と。「あれ」について。 下の方に伸びる山の尾根についてのことである。 それは高度にネットワーク的である。「それ」はほとんど常に美しい。 蝙蝠が野球をする、という文章がナンセンスなのはその恒常性においてのことだ。 その交差点について。 あらゆるものにあらゆる利点があり、研究、結婚、京都などの権威的な表象はすべて、「仏教」の一種である。 これが文章の確定的な記述の不思議でもある。文章を確定すること、不思議で、なぜなら「それだ」というのはともかく何もないということを示しているのだから。その悲劇性についてよく考え、それでもなお私たちは進まなければならない。私はそう思う。寝る時に、(成熟とは自由連想に基づく、と言う時に)荒れる空を待っている個体が存在するのは辛いものである。すべての交流点。色々な文脈が、 文脈の機能はすべて「屈折している」と語っている。屈折の要点というのには光の屈折があり、光の「季節」はどのように生じているのか? というふうにフィクショナルに問う時にもメタファは潤沢に動作している。それを調べることもまた道理であり、「季節」も適った「良い言葉」である。季節は「良い」? それに応えるには良いものとは何か? どこにその良いものがあるのか? それは時にプラトンの思想をある形式で表示せしめる。 プラトン……それはある清楚的な少女性について語っている。ソシュールの思想の言語的連接性もここにつながる。ここで述べているところではジル・ドゥルーズについては特に重要である。「フランスの哲学者」。そのように述べる時に、私たちは何を「収集」しているのだろうか? そのように……。ソクラテスがあらゆることを言う時、あるいは私が「ソクラテス的弁証法」と言う時に、よくわかるものがある。それが極めて悲しいものなのだが、あらゆるものがそこには含まれており、メモについてでさえも、筆記について何らかの現象を示唆できるのである。「例」についても「音楽」についても。 そのように考え、 何が悪く、何が良いのか? 何が改善され、何が改善されないのか? それは不思議であり、 改善の進歩ある「偏り」を持っている。その偏りは何か? ちょっとのつもりで「偏愛」とも呼ばれるほどに偏ってしまう何か繊細な現象であり、何が偏りであり、何が並行であるのか? あるいは平行線の哲理、パラレルであること。 そういう屈折も音楽中の並行的なものの一種であり、垂直的に形成され、一種の「円」を構成する時に――弁財天のご利益のように――それが拡大され、一句の「詩」を構成するに至る。昨日は今日であり、今日は昨日である……などと言う時に、なるほど、それらの恩寵的「入力」を発達させることは確かにそれについての熟慮ともう少しのスピードの増進、「もっと上達するだろう」というある種の余韻をもたらす。

文章をつらつらと書くこと。その洞察について。特に何も述べるべきことはない。だからこそ「書ける」。書くことが無限にある。しかし、それは必要性によるものではない。あるヘブライ語的な状況に戻る。兜による頭脳の防御がイスラエルをめぐる悲劇的な現象を帰結してしまうことがある。これは逆転的でありながら、どこまでも悲しいことだが、そこにはヘブライ語の形成に寄与する聖書的な働き、その文脈の機能もある。世界に最初に生まれた幼虫が羽化する時には前例はないものである。

そして音楽理論。文脈的な「駅」の道筋を読むこと。鳥の囀り。雀の声。あらゆるものがある。それは極めて尊い。すべてのものが欲しいと「それ」を感じる時に、きっとある博愛の発想を書き留めることについてよく考え、そこには何も「ない」のだとしても、音楽を奏でることには常に意味があるだろう。そのように見える。しかし、嫉妬も人生の環境の「設定」の状態も、仮装することで、何が要因であるのか? というような疑念を華麗にかわしていく。湯水と冷水を管理することで、 ある少しの温度の支配を司ることもできる。それを鳥の囀りに感じ、それを管理するので、何かのロシア語にも、鳥の羽の一つひとつにも意味がある。 その形状の一つにも意味がないものがなく、そのように燃え盛り、色々なものがある。 それにしても「それ」は何か? 「卵」とは何か? これは生まれる前の何かで、卵が先か鶏が先かというのは面白い問題であるが、 それが何でもないものであるのなら、あらゆる値を許容する「非制限的な」何らかの関数であり、あれはヘリウムかもしれない……とか、そういう思想なのかもしれない……とか、色々の入力の発達には何が必要で――おそらくはデータが必要で――発音の機構を解析する際にも、そういう現象もある。しかし、何にしても進歩が重要であり、それで? あれは? と種々の生物の性別を分類するようにして、その隠されたものについて考え、 枕草子のように暑さ、寒さを読者に鮮明に感得させ、「なるほど、しかしな……」と、ある会話について、会話とは何か? とメタフォリカルに陣取るようなそれに、ソクラテス的弁証法はどこまで届くだろうか? フィンランドのオープンダイアローグがどこまで届くだろうか? この現象は規制について考えさせる。 自由連想法。それを可能にする手立て。それとしての口述筆記……。しかし、データが削除される、あるいはその両方について。 そうしているうちに「すべてのもの」が見え、 すべて煌めいてくる。喉の痛みや会話のしゃべりすぎ。ある特定の長さの文章を書くと、どういうわけかそれについても考えもするということについて。しかし、それはどこにも行かない、何もないのだ。少しずつ精査することに意味があり、それでもなお制作することに意味があるとすれば何か? そこにロシア語的な何かがあり、それとも何か別のものと、例えば英語か、それともスペイン語か音楽か彫刻、何かわからない、しかし、それをストップさせ、そして先にかえって繋がっていく、 ジル・ドゥルーズの述べるような爆発的連接。

数珠について。 麻雀とは何か? 麻雀は何かの練習であり、それは占いに似ている。しかし、すべての占いはあなたの「固有の」ロシア語でもない。 ドイツ語、ドイツ語の連接。それらに似ているフランス語と何か、とどのつまりロシア語的なものに対するそれぞれのシーン。 それらは大いに公的な貯蓄を登記させる。勝機というものは常に変動しつつ、情勢は致命的に変わっていくものである。これに応ずることを「対応」と言う。その時に合計にして文明の発展速度が種々の職業とこれらの決定打となるような勝機の「天井」に該当し、国家によるすべてを掲げ、天皇に祈り、その命に従う……などということになる。これが「対流」というものだ。ある種のホモロジー的な帰結の分かりが悪いという時、基本的な連接的な現象とそれらの現象間の連なりは、すべての痛みを射貫き、あらゆるものを生かすことを考える。ゴミであることとゴミを生かすことと、それは卓越である。絵を描くこともそれに似ている。そこに愛がある。その連接性について入力の「形式」がありうるだろう。それは形式の補正であり、母性愛的なものに基づいた歌において、真に重要なものは何か? と問う時に、他者に呼びかけることができる。仮に特権的なシステムを要請することを意味しつつ、一つの他者の音声、あるいはフォトンを構成することをも勘案するのなら、それらは確かに常に構成的である。例えば、シベリアに抑留される……という文において、私はその「物理的な」帰結を望まない……という文を対応させる時に、では「心理的には」望むのか? などと問うことに似ている。不毛である。しかし、ある種の「少女的な」逃走線の構成がそこにさえも活路を見出す。しばしばそれは何かのダンスのようでもあり、また、多大なコストを投げ出すことにも似ている。私たちはそれを要求し、時の波に乗るのである。

何事も時の流れとともに改善しているように見え、こちらの心構えが現象を改善した可能性もありつつも、それは「この仕事」であり、いずれにせよロシア語とは何か? それについても考え、 あるいは文法の原点についても考える。春の述べるところは本当に真実である。それともチョムスキーの理論的連接はどうか?

「食べる」ことこそが真実であるとそのようにも考える。現象の賞味期限が切れるのならば、その生成変化は何かの生成文法と何かの「精製」の原理、及び生成文法かつ生成変化であるような連接を生み出し、それらは「貯金的な」機能についての言語がなぜ「学問」であると言えるのか? そのように問いへの応答を要請する。しかし、それは難しい。多様な論文を見なければならないし、零と水源に戻らないことには拙い複製さえもできない。そういうことも考えて、 しかし何かがある! と進むのである。ある音律になるほどと納得する時に、発音の調整を重ねつつ、島の哲理を想像する時に、そこに島的な発音が生じ、それらの音律は模倣的に人間の頭脳を撫でていく。明るい機能的連接は、ある種の痛みをも連れてくる。構成的なハラスメントの要件が、様式に似ており、その特質や主体の性格をも飲み込んでいく。それが人類的な「進化」の帰結でもある。

ロシア語の持つ一種の伝承性は難しい。その連結についても色々なことを思うが、それよりも文書を「現に」作成することも入力することも可能だろうか? というふうに問う。それも相手への「対応」の一つなのであり、 完全でなければ、かえって価値がある。それも不思議なことである。単数性に代えて、多数的な接続詞を多発させること。 そして自分なりに納得し、人間関係に色々な「あなた」がいるようにし、それは実に興味深いこととして受容し、何がどうなっているのかというより難しい問題に向き合い、どこにどの程度のスペクトラムを見るのかもその人によるのだと認識しては、その連続体の影にそれらの興味深い連結を見て取り、ある人がAと言う時に、別のある人はBと言うことを弁え、これらの連結、それら自身の多様性の限界に挑戦することは何を意味するのか? 疲れてもなお進むこと。あらゆるものがあらゆるものに連結している「近代」とは何か? そういう問題もある。自身のユーモアがあるというのはどういうことだろう? 神に贈られるもの? それは気の毒なことだろうか? 金属的な鋭利さを持って、春に向かうこと。何かが剥奪され、その固有の性質に基づく時に、神社というのはどのようなものだろう? とか、そこにはたくさんの木があるとか、 逸脱とか、財政学の帰結だとかそういう諸々の横断的な連接を自在に試みることは常に発展的である。そして逸脱は直ちには犯罪に連結しないだろうか? とか、骨子を大切にとか、 そうした事柄の表面を撫でていく風に耳を澄ましたりとか。 あるいは何かを「借りる」ということはどのようなことを意味しているのか? 何かが仮初であるということ。 鳥の首が方向転換を試みて傾く時に、風の物理的な対流はどのように変わるだろうか? 英語の文法と日本語の文法を再び見て、 なぜこれほどまでに違うのか? と問うのも、それについてはよく思うとか、大切な人に会うということとか、何か別のものと別のものとの連接ということに何かのトリップを見て、それは「調節」に偏っており、高度に節制的であるなどと言う時に……。

物語の持つ何かの旅の性質。沈黙的な小説があり、文豪の小説は結局のところ何を意味しているのか? と、そんなことを今考える。 ドイツ語でフランスの奇妙な連結を表現したり、それはなぜこれほどまでに似ているのか? 好奇心のもたらす現に行われている歴史上の適当な例に運命的な巡り合わせや熟練した技術を見つつ、そしてそれらの「鍵」を獲得すること。 それらはそれぞれに何が違うのか? 目。メルロ=ポンティ的な目の精神を求め、その精神構造に「要点」を求める時に、それらは破綻する。要点という「味」を表示して空間を占める現象も、 それらを遅らせることも。反応の遅延。 強固な利便性。分析するということで評価を分離し、練習によって金属的な美しい切断面を生産する。

贈与。郵便的な機能を――マルクスの注目すべき奇妙な連結的な欠如に――そういう規制を見て取る。 英語で疲れを表現することと日本語でそれを表現する時との対比。そこに宿るものについてよく考える。 日本語に「それ」があるということもある。 入力の限界には疲れている直接的な面白い気づきがある。それは常に発音状の気づきだ。 高次的で、筆記的で、喉に少し引っかかるような、歯痒い発音。何が大切か、何が不要か? 猫の目のように自在に。クリームのように甘く、滑らかに。そういう「力」。発想に基づくそれらの「プレゼント」の発送の連結に耳を澄まし、ピアノを自由に弾くこと、文章を書くこと。それらのアーカイブ性について。発送のアイコン。見る度に進化するもの。無限の成功。そこに宿るもの。今は何曜日だろうか? とか、色々なものがあるとか、しかし考えられることはどれも大切なことなのだ。考えること、それは正しいのか? 何かの裏に剥離的な諸現象を想定しては自分自身を傷つける悪癖に、そのようなものを感じる。しかし、健康にどれほどの意味があるだろうか? と何かを話すことにどんな意味が宿る? どんな意味が宿る? そんなことも思う。その潤滑的な日本語に変換しては同じことを想像し――これは英語にしてもそうだが――それらはプロスペクト理論から距離を取って言語的に飛躍する時に価値を多く持つ。それはプロコフィエフの音楽のようでもある。そのピアノ曲について。どのような機能的連接があの曲を生み出しているのか、そのような問題意識がある。とにかく便利な道具によって「それ」の現象的な還元を為し終え、全体の変化、文章の内容の変更、しかし何よりも「速い」ということ、それらを考える。何を行為しても、何かを止揚しても、そしてそれらが高度であればあるほどに高額であるという時に、それはなぜなのか? と勇気を持って問うこと。これが格差の解消のためには重要である。信仰の問題。見えないものを考慮することを告発すれば、見えないものを組み入れた時点でコピー不能となる。発音のコツ。英語の勉強や辞書の使用。色々な機能的で、停滞的な何かの繰り返し、反復。それの強さ。そんなことを幅広く拡張し、流布し、ブレーキが摩擦で燃える時にも、火事を越え、それぞれのメガネを適宜に持ち出してはそれぞれの視力を補正し、そして彼方から秘宝を呼び込むのだ。多様な現象に願いをかけ、どんなものも愛し、入力するというのが「本音」を文章に入れるということである。 何かの雑音? それを排除することの正確性や正確性に訪れる排除のノイズそのものも統計学的な心理構造でもある。中心極限定理だけがすべてではない。それらは自律的には誤っており、喉の奥の感じに引っ掛かる。何かのテクストを朗読する時に、思うことを出力しては地図を描く。自分なりの地図である。それは内的に検証を経て、巫覡の祈りにつながっていく。ヴィゴッキーやウィトゲンシュタインらの言語理論は祈りに似ている。ロシア語とドイツ語はこの概念的な対比の内部で連接し、検証できるのだ。一杯のささやかなコーヒーの中にさえ、そうした価値は宿っている。 すべてはそうしたものたちのために……。

煌びやかな清潔さに大声で語りかける。そこに次の聖堂がある。それは人類の「恥」の始まりである。ロシア的な詩情も、そこからはなかなか自由になれない。それは愛につながっている。そしてその束縛こそが自由で、何も新しいものもなく、悪いものも生じない。これはある悪と友という二つの観念の様式である。「今」は何にも関わってはいない。ただ、私は準備をして、私自身に立ち向かう。明らかな時の課題を経て、試練に到達し、かわいいあなたの猫と共に眠る。あなたは美しい猫だとか、浪費されたコストに耳を澄ませてみたりだとか、そういう哲学的なエピローグを見る。それは次第に生じるものではなくて、権威的な選好に依存している。新しい詩情? それはどこにあるのだろう? それはどこにもないのだ……という否定神学の声。飛び回る鳥も、何もないと叫び、時に応じて何かの成功を為すことを自ら拒否していく。仲間から漂っている匂いを嗅いで、時代を懸命に問う。美しい歩みに少し苛立ち、すべてはそこにあると囁く。一流の遺産の山に、地震に、示されて、また苛立っている。そして、美しい数理理論に「そこにある!」と存在を歌う。その最後の墓標は何と豊かな示唆を持つことだろう? と感動し、美しい文章を書く。数的な二重性と空間的二重性を混同し、なおかつ反抗している。プログラミング言語の持つストリート性にアクティブな様相を見て取るや否や、そこに還り、何らかのミームを起動している。それは蓄積のためであり、解放のためではない。極めて物質的な現象である。突然に、 死後の世界、それも忍耐的なある種の映画の自然性について想像する。首都の空気も直接的な基盤も、構成も、すべて些細である。生まれ、死ぬこと。倫理的な方途に賭けること。それらの少女的な逃走は不思議と戦争を逃れる。ある品行の良い人々の贈与はそこに至る。長い期間の美しい絵画制作は権利を生じさせる。伝統的な音楽家たちの流儀もそうである。壁に飾られた絵画、それも重要だが、一つの伝統が現に存在し、それが普通のことであり、人類の終わりに放擲されるまでの間、継続的に保持されているということは極めて帝国的な事実である。これは死の規則に反しており、つまり永遠というものを示唆している。表象の象徴的な補完が、システムに基づく哲学を構成できるように、目標物に基づくシステム的な哲学もまた一つの様式を生産しうるし、死神のごとく「若さ」を刈り取っていくということも考えられる。 これが継続の様式について考えられることである。

言語の伝説的構造。 あまりにも何にも関わらずに、それなのに意味を持つこと、その中にあるもの、意味の崩れたもの、その発想、発想の経路、多様な旅程がある。これは切り詰めることであり、源氏物語や種々の小説にせよ、その分類的な所属にせよ、機械的な手続きにせよ、その中にある洗練、その突然の理由が生じている原因、その謎……。不思議であり、音楽の記述がそれも可能であるという時にこそ、 「この」小説を読むということとどう違うのか? と問う。文章を書くことと小説と英語とロシア語と、そして何かを言った「私」はあなたを愛している。しかし、あなたは私を憎んでいる……そのような二律背反について思うことを空想の持つ爆発的な欲望の発露に賭け、「不思議なものがある」というふうにだけ発送の経路を侵食するために、何か外部的な刺激が必要であるのと、内部刺激がそれへの対応であるほどに発送は豊かになるということと、しかし、秋の陽光の中の欠如であることとに伝達するのである。その過程的な経路。それが常に重要だ。すべてを語るということ。それはすべてを語ることを意味しているが、それを除くことは可能だろうか? あるいは人間の発音を「越えつつ」可能だろうか? その「季節の」気候はその「間」、今にも所有している、その原価よりも安い棒状の経路に向けて、私が好きな文字で表現していく。あなたを驚かし、「必ずしもそうではない」と逃がさず、甘いものが苦手な人もいるとか嫌いな人もいるとか言い合って笑う。何事も好きな人もいれば、嫌いな人もいるものだ。その際に、どこからか引き出されている生物学的な理由と社会的な理由、あるいはもっと環境的な理由、それらを入れ込んで、不思議なことは山ほどあるのか? とか、発音のグラフ的な形態は、その切り貼りに依存しているのか? とか、 文法を削り、そのまま発想にしてしまうとか、それらを豊かにすること、そのイメージを「そのまま」訂正すること、それを聴き取ること、機械との共同作業やある種の統合を成立させ続けること。……と、常に「その他」として書くこと、それらのことが考えられる。しかしそれらが実質的に賭けており、しかも分別可能であるような現象。 峻別し、可能性はどこにある? その現象はどこの停滞を破っていた? とか問うこと、それは仏についての研究に似ている。研究は花の強度より、花の厳しさ、花の優しさ、それらの「道具」に宿っているのか? それは代表的か? 仏典とは何か? 復古とは何か? 骨とは? あらゆるものが発想になる。論文的に時空間を凍結し、本を好み、一つのトリアージを試みる時に、あなたは「現実」に直面するだろう。そこにあらゆるビジョンが宿る。私が知る限り、この惑星における「最後の」投資はそこにつながっている。それは冬の契約とでも言うべきものであり、生々しい約束でありながら、凍えることが確約されている。 時間の解像度を深く保つことが重要である。そこに物語やアイデアが宿る。それを「心に」書きつけるべきである。ある種のクラシック音楽みたいに。窓の外には多くの発見があるように、惑星の外にも多くの冒険が満ちている。言語的なハイブリッドとその変換の自在性、そして統計的な魔術に賭け、もう一度と籤を引く。しかし、その「もう一度」は原理的に既に存在する「一度しかない」ものなのである。 極めて概括的な場所がそこに宿っている。

私はあなたを愛し、家に帰り、そしてあなたはその顛末を問う……というような時のことを考える。三匹の猫が、鮮やかに信じ、湖に揺蕩う。そんな幻想的な風景を見る。そこで事件が起こる。突然のことである。美しいその予兆は、愚かにも冷徹な鍵に触れている。この偶然は甘く、器を壊していく。地下を揺蕩い、ハデスに誓い、命の領域に手を伸ばす。日々、心臓は鼓動を所有している。奇怪なものを究極の水準にまで洗練させ、外国語の難しさを他の外国語の難しさへと変換していく。そういう文章の難しさがある。不思議なモデル。いつも鳥の羽ばたくようにするために、 色々な言語を使いこなすことには多様な馴染みがある。しかし、それは機械技術と共に進化することで、なぜか善きものを生み出しているように見える。それが本当に善きものであるのか? 必ずそうであるのか? ……というのは本当に謎なのであり、そうだとしても進まざるをえないというところに癌がある。

医学の特異性。それはどこにあるのか? 追い立てられ、「ない」こと、「思う」こと、そして「速い」こと、逆にむしろ「遅い」ことで、相撲のような虚像を描く。それをその速さであるところのものに委ね、鋼を地面から錬成し、大量の文章のアーカイブ、発想の山、そしてその共同する機械の記述するものや発音の曲がり、不吉な恋やその心の甲殻の中にあるもの、身の回りの機械の挙動、機能への疑問に、「それにしてもどうなっているのか?」と素直に問うこと。耳の曲がりに、屈折した言葉、外国語、言語的屈折と光的屈折とはどう違うのか? とか、アルビノと他の生物的色相はどう違うのか? とか、何が発想になるのか、何が発想にはならないのか、そしてそれらはどのように固定されているのか、どのように変化するのか、どのように欠如するのか、どのように満足するのか……。 色々な方法あるが、しかし、それはそれとして固有にそれぞれに確定している。その比較や訂正が世界に絶えず何かを生み出している。それらを生み出す秘訣とは何か? 「それ」は何か? そうした問いのハイブリッドモデルはハイブリッドでなければ成立しない。「混ざる」ということ。金色の哲学的カオスであり、あるいはそのカオスの滅亡。良い色彩というドグマ、 連想の強度的連接、ルビンの盃、そういう数珠繋ぎ……。ある調味料の配合の割合による特定の味覚の形成という技術の偉大さはここに宿っている。カスタネットのようなシンプルな打楽器の帰結、耄碌する人とあえてコネクトし、あなたのものを生み出すために、新たな「固有の」ダイヤモンドを見出すために、あらゆる「役所」を用いること、その圧縮とは結局のところ「ここ」なのだろう。 何をも書いているようで、内容のないようにしつつ何も書いていないのだろう。その試行の帰結してる結果も、その自由連想法的な帰結も、それらが何を意味しているのかも、それを知ることも、誰にでもできないのだろうか? 平等主義の願いはここに宿る。どうにもできないだろう。しかし、理想への「近接」はできるかもしれない。 分野別の機制の速度を総合して、その近接と唐突に接続することである。近づくこと。「そして」、と言葉を継ぐみたいに……。到達すること。 硬く冷たい甲殻の奥にあるものをそれぞれに想像し、私たちはそれを歌に込める。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?