島津家の歴史を紐解くシリーズ。第2回目は第十一代、島津忠昌(しまづただまさ)編

前回は島津家初代、島津忠久(ただひさ)についてご紹介しました。

そして、そこから間の島津諸先輩方には申し訳ないのですが、、、、

飛ばします!!!

大分飛んで、第十一代、島津忠昌(ただまさ)に触れたいと思います。


画像1

(Wikipediaから拝借)

なんで忠昌(ただまさ)を取り上げようと思ったかと申しますと、彼、実は自ら命を絶った島津家当主だったんですよね。彼が死に際に残した辞世の句はこれでした。

願わくば 花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ

『願わくば、春の満開の桜の下で死にたいものだ。それも2月の満月の頃に』

ちなみに、2月の満月の頃というのは、2月15日ごろで、お釈迦様(シッダールタ氏)が入滅された日でもあるという隠しメッセージも。

ちなみに、これは忠昌(ただまさ)が詠んだ句ではなく、平安後期〜鎌倉初期に活躍した西行(さいぎょう)という僧侶&武士&歌人だったスーパー雅(みやび)な人の歌です。忠昌(ただまさ)自身が詠んだ歌ではないですが、この西行の歌を辞世の句とするそのチョイスに、戦国の世を生きた武将とは思えぬ、繊細な感性の持ち主だったと思わずにはいられないのです。

さて、忠昌(ただまさ)が生まれたのは1463年。時は室町時代後期で、世は戦国時代が始まった頃。騙し、騙されは当たり前。兄弟はおろか、自分の親や子供だって信用できない時代です。

それはこの島津家においても同じことでした。島津家は初代の忠久(ただひさ)から始まり、基本的には嫡男(ちゃくなん)である長男がお家を継いでいくんですが、普通、兄弟がいますよね。そうすると、弟たちは分家(ぶんけ)を興していきます。そう、なんと島津家には38もの分家があります。

そうすると、何が起きるかというと、

島津家を束ねる総大将は「俺だ俺だ俺だーーーーーー!!!」

の争いが起きる訳です。

そして、突然の父の死により家督を継ぐことになった第十一代、忠昌(ただまさ)、その時彼はまだ12歳でした。

その若さゆえ、本家の家督を狙うものが続々と登場し、島津家は内乱状態に突入します。

あっちを倒したと思ったら、こっちが反乱をおこし、あっちと手を組んで、こっちを倒せば、今度は向こうが裏切ってくる。

内にも外にも憂慮するべきことが続き、ひと時も心休まらないことに嫌気が差し、1508年に「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」という先程の歌を辞世の句にして、忠昌は自害してしまった。享年46歳でした。

そんな忠昌(ただまさ)ですが、彼はやはり軍(いくさ)の将ではなく、文学の人ではなかったかと思います。

忠昌(ただまさ)は、1478年に禅僧であった桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)を薩摩に招き、薩摩に朱子学(儒教の学問体系の一つ)を普及させます。

桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)先輩

桂庵玄樹

(Wikipediaより拝借)

玄樹先輩は、優秀な禅僧で、当時仏教の最先端だった中国に留学しています。留学を終えて京都に戻ってきたものの、その頃の京都は応仁の乱真っ最中でとても仏教や儒教や言ってられる場合じゃありません。戦火を逃れて、多くの文化人がこの頃地方に流れていったようです。

そこに目をつけた忠昌(ただまさ)は玄樹先輩を薩摩に招いたのでした。

玄樹先輩の教えは、「薩南学派」と呼ばれる儒学の一派として大成したのです。

個人的には、これがベースになって、後の薩摩藩の教育精神の核となる「いろは歌」に繋がってくるんじゃないかと思うんです。そう思うと、彼がのちの島津家と薩摩に与えた影響は、計り知れないものだったのでは。

忠昌(ただまさ)は、彼なりのやり方で、島津家に大きな爪痕を残せたのではないかと思うのです。

そう思うと、なんだかあまり日の目を浴びていない(かもしれない)忠昌ですが、個人的には推しな当主なのであります。

というわけで、今回は島津忠昌(ただまさ)についてお送りしました〜!

次回は誰かな?お楽しみに!

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