"暗闇で彷徨"
先程、大学のゼミのグループLINEから通知があった。
内容は取るに足らないことで、ホームカミングやらホームアローンやら、そんなよく分からない名前のイベントについての話だ。
"大学の卒業生と在学生と教員が学科ごとに集まって、今の現状を話し合い知見を深める場"
という内容のイベントに来ませんか!?
なんていう誘いのLINEだった。
個人的な感想になるが、そういった『知見を深めるイベント』なんていうのは大して勉強にならないと思っている。ただ内容を聞いただけでは一切身になる訳はないし、その『深めた知見』を実践しなければ話にならないのにも関わらず、懇談会だけで終わるのは、僕にとって理解がし難いものであるのだ。
例えば酒が飲めたり、ニュークラブで働いている女の子が接待してくれるのであれば別だ。しかし、そんな時間帯に『知見』を深める訳もない。僕にとってそのイベントで知り得たことは意味を為さないので、何かあるとすればせいぜい2ℓのお茶を1本飲んで在庫処理をする程度であろう。焼酎があればもう少し飲める。
そんなことを考えていると、僕は何故か悲壮感を感じたのだ。唐突だ。文章的にも、感情的にも、交通事故に巻き込まれるかのごとく、耐ショックの姿勢を取ることが出来ないくらいのスピード感。いや、そもそも人間の感情はそういったスピード感で現れるのだ。意識した瞬間に違和感を感じるだけなのである。
悲壮感の話に戻ろう。
僕は今、大学で学んだ理学療法の知識を仕事でほぼ活かしていない。ほぼ、という表現は『イラストを描く際に人体の構造を理解出来る』くらいのメリットしかない、というものによる。つまり、ゼロに近い。ϵ*2=0のϵの数値のようなものである。
そんな僕にとって、未だ第一線で自分が諦めた(諦めざるを得なかった、と言った方が正しかったりする)ことを続けている同期が輝いて見えるのだ。
僕にはなし得なかったことを出来ているから?
勉強したことを活かしているから?
将来的に安定しているから?
違う。
何か違う。
もっと感覚的なことなのだ。
今良い表現が出てこないのだが、少し思考させて欲しい。うーむ。ええと。
あぁ。
なるほど。分かった。
光は輝いて見えるからだ。これは普遍的な事実である。例えば光っているものに対して「何故光っているのか?」という疑問は物理学や天文学の話になったりするし、光っているものに対して「これは光ではない!」と指摘したところで、盲目を疑われるのがオチである。
つまり今大学の同期は光っているのだ。
何かを照らしているのだ。
僕はどうだ?
僕は何かを照らしているのか?
これも感覚的な話になる。光っていないのだ。光っていないものに対して「光っている!」と言ったところで再度盲目を疑われてしまうから、自分は光っていない、と認識せざるを得ないのである。
それが悲壮感の原因だ。
そういえば、暗い場所に常にいると鬱になりやすい、なんて研究結果を見たことがあった。
ああ。
暗い。
暗いね。
迷子になりそうだ。
だから道標に、このnoteにタグを付けてみようかな。
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