"毒novel"

最近友達に愚痴を言うことが増えた。

それは勿論【愚痴を話すことが出来るくらいの間柄の人間】が出来たことは素晴らしいことだし、本当に助けになっている。

ただ逆を言えば、話さなければ
『〇〇Hzの声を出すことで共鳴して割れるワイングラス』
のように簡単に僕の心は他人によって共鳴して割れてしまうし、何よりそのグラスでウイスキーロックが飲めなくなってしまう。ロックなんて飲み方は年代物のウイスキーが置いてあるスナックでしか飲まないが、どうしても六面体以上の球体で出来た氷を回しながら飲みたい時だってある。簡単に言えば『僕の思考も回らなくなる』のだ。

そう。
これはそんなnoteであるし、グラスに注いだ自分自身の思考を回すためのnoteだ。
タイトルの【毒novel】は述べるとnovelを掛けて〜〜なんて全く頓知の利いていない単語は置いておいて、そんな毒を40%の原液で濾過しようと思う。どっちにしろ、身体には毒だから関係はない。


Twitterをフォローしてくれている方ならご存知かもしれないが、今僕はアパレル店員をしている。理由などない。貴方が「今何故その仕事をしていますか?」と聞かれた時の反応と今の僕の思考は似ている。

そんな仕事をしていると、職業柄若者と話すことが多い。
「服好きで今の流行りは〜〜」
「この色味と素材に何が合うのか〜〜」
なんていう会話もたまにある。そんな問いなど、僕が若い頃(20代は若いと感じる人間はさて置き、未成年の学生の頃を意味する)は一切持たなかった。これも時代の変化なのだ、と考えることにしている。

そして、そんな問いを投げかける人間に多い傾向が一つだけある。ここが僕のnovelの本題、起承転結の起承だ。

商品の服を整えず投げ捨てる傾向が多い。

別にそれは法律に違反している訳じゃないし、暇な時に仕事を増やしてくれるのは時間潰しになるのでありがたいことではある。なにしろお客様として来店してくれるだけでありがたい。

ただ、僕は思うのだ。
本当に服を好きなのか?と。

例えば。
本が好きだと自称する人間がいたとしよう。場面は本屋。近くの大きいオシャレな本屋を創造して欲しい。
その中で、本好きな人間は新刊を手に取り、近くの椅子に座り、数ページさわりを読む。ただ自分には合わない感覚がしたので、その場に放置して帰宅した。

多分ではあるが、この例の人間を好ましくは思わないだろう。そんな人間と服を投げ捨てる人間との共通点として挙げられるのは、こうだ。

好きなもので、他人を行動させる点。

僕たち店員は服を畳み直すだけだし、本は所定の位置にしまい込むだけである。ただ、それは自分自身の労力を他人に押し付けていることと同義なのではないか、と僕は思うのだ。

話が転々とするが、野球に真摯で敬意を持つ球児たちはグラウンドに敬意を持っている。練習後は整備をし、礼をする。何故?そう。後にプレーする人間を楽にするためだ。後片付けの手間を増やさないためだ。後のプレイヤーがトンボをかけなくても良いように整備をするのだ。

それは自分自身の習慣として、恒例として身についているものではあるかもしれない。ただそれは一種の自己犠牲であって、別にしなくても法律違反ではない。練習後はそそくさと帰っても良いのだ。

それを球児たちはしないように、本当に敬意を持つ事柄に関しては他人の手間を紛らわせないのが筋なのだと、僕は勝手に思考している。

実際、お客様が畳んだ商品は直す。しかし、素人めいた、慣れない手つきで行う片付けにも僕は好感が持てるのだ。

その感情を他人にも持たせることが出来る行動を行える事柄。それこそが本当に好きな事柄なのではないか?と僕は思っている。

だから愛とは自己犠牲なのだ。
何事も、自己犠牲しなければ愛など感じない。

こんな思想だから人生が波瀾万丈なのではないか、と僕は思ってしまうのでした。

自分は毒を摂取しても良いが、他人に毒を飲ませてはいけない。人間は致死量を超えた瞬間、新たなnovelとなるのだから。

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