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経歴(3)

こんばんは。多田です。今回は大学時代について書いていこうと思います。

大学時代に関しては分かっている人もいるとは思いますし、変に書くと長くなってしまうのである程度の期間で短くまとめていこうと思います。前回からかなり日数が空いてしまいましたが、経歴についてはこれで最後になります。

1年春〜2年7月

正直この期間は全くと言っていい程良いところはなかったです。元々入学前の冬季の期間不調で練習すらまともにできなかった上、入学後も慣れない環境下で体力とメンタルが想像以上に削られていたと思います。

自分としても高校と大学とでは練習量が全く違うということは重々理解はしていましたが、ここまで走れなくなるとは思いもしませんでした。

記録会に出ては16分かかり、怒られるといったことの繰り返し。練習もこなせない。このどうしようもない不調が2年になっても続きました。この期間は今までの競技生活で1番地獄を見た期間だと今でも思います。

その中でも特に地獄だったのが2次合宿でした。

その合宿は「サバイバル」と呼ばれていました。新潟県山古志村(現・長岡市)で行った合宿だったのですが、宿舎は廃校の校舎(部長の親の所有物だったとか)で食事は1日2食で全て自炊、水道は使えなかったのでトイレや皿洗いは300m先にあった湧き水で賄うといったお粗末ぶり。これを5泊6日と競技する上では劣悪な環境でした。

もちろんこんな合宿を経て強くなるどころか自分の場合は食事もまともに摂れない程にボロボロになっていました。普段回転寿司に行った時は20皿前後は食べるのですが、その時は7、8皿で気持ち悪いとか言っていたレベルで相当弱っていたと思います。

もちろん選抜合宿に行けることは嬉しいことではありましたが、これに関しては「選ばれなかったらよかった」と思いました。正直これがなければ多少たりともその後の結果もある程度はマシだったかもしれません。

唯一救いだったのは怪我がなかったということですが、何のきっかけも掴めずに1年以上棒に振ってしまったと思います。

2年7月〜3年8月中旬

個人的には大学時代で1番走れていた時期だと思います。
7月に入ったあたりで貧血になってしまいましたが、この期間練習量を自分で決められたのは大きかったと思います。

8月に入り、貧血の症状もなくなってきたあたりから少しずつ自分の走りの感覚を取り戻せていけました。練習が継続的にこなせるようになったこともそうですが、何よりも自分の思った通りに身体が反応してくれている感じがとても嬉しかったです。

予選会はあと一歩のところでメンバーに入れませんでしたが、個人的にはやっと戦力として認めてくれるところまで走れるようになったのかなと思います。その後も10000やハーフで自己ベスト(32’18、69’56)を出すことができ、その後も調子の浮き沈みは多少ありましたが、3年の8月まではある程度良い状態で走れていました。

↓1枚目:神奈川ハーフ(69’56)
2枚目:3次合宿

3年8月下旬〜4年7月中旬

1年弱を通してある程度走れていましたが、8月の1次合宿を終えてから疲労が抜けない等の異変を感じました。この時期黒姫妙高駅伝という箱根常連校も出場するような駅伝があり、自分もアンカーで走ることが決まっていたのでかなり焦りを感じていました。

合宿から1週間もなかったこともあり、状態の悪いまま走った結果、下から3、4番目の区間順位でした。その後も合宿等で無理をしてしまい、9月に入ったところで手足口病にかかってしまいました。

自分以外にも手足口病にかかった人はいましたが、おそらく自分が1番酷かったと思います。何よりも辛かったのは回復した後で、ジョグもまともに走れないといったところまで体力が落ちていました。コーチや他の選手のサポートもあって12月の日体で自己ベストで走れるところまで戻せましたが、正直3ヶ月近く日数を要してしまったのはかなり痛かったです。

そこからはある程度調子を崩さず練習もこなせていましたが、2月に40k走をやったあたりから疲労が抜けなくなってしまい、練習の消化率も悪くなってしまいました。そこに出る予定だったハーフマラソンの中止もあり、モチベーションが上がりきらない日が続きました。

理由としてはレースが軒並み中止になったこともありましたが、この頃から公務員試験のことで頭が一杯になっていたこともあったと思います。試験と陸上、両方とも最後までやり切らないといけない。分かってはいたことではあったけど、本当に大変でした。

4年になったあたりからは試験勉強のほうが比重は大きかったと思います。練習は基本的に朝で残りの時間は勉強に費すといった感じでした。5月くらいまで自粛期間が続いたこともあり、ある意味気持ちとしても気楽にやれていましたし、疲労もいい感じに抜けていたので結果的に良かったと思います。

ただ試験の方はなかなか結果が出ず、焦りはかなりありました。6月に入ってからも試験のことで一杯で練習どころではない状態になっていました。それもあって極度の不調に陥り、1番下のチームでもこなせないところまでいってしまいました。

↓黒姫妙高駅伝での写真

4年7月下旬〜卒業まで

状態の悪い自分を見て何かを察したのか、監督から早期引退の話を持ちかけられました。元々監督には公務員試験を受けていることは話していましたが、自分としても早期引退の話を監督の方から出してくるとは思いませんでした。

これまでも公務員試験を受けた先輩を自分は数名見てきましたが、結果は振るわなかった人が大半でした。二兎を追う者は一兎をも得ず、という訳ではありませんが、両方中途半端で卒業するのは自分は嫌でしたし、陸上は今後も個人で続けていくつもりで考えていたのもあって、迷わず早期引退して試験勉強に集中することを決断しました。

もちろん同期から反発はありました。ただここで試験と陸上が中途半端になったところで何のメリットもないと考えていたので、自分の中でも上手く意思を貫けたと思います。

結果として無事合格でき、努力が報われて良かったと思います。

これから先について

社会人となって約2ヶ月半が経ちました。仕事の方はまだまだですが、多くのことを学ぶことができています。また、競技も良いランナー仲間と出会え、非常に充実しています。

これから先としては学生時代達成できなかった3分台や14分台を目指し、このnoteを通じて多くの人と交流できたらと思います。

かなり駆け足で書きましたが、ご精読ありがとうございました。
これからも拙い文章ではありますが、多くのことを発信できたらと思います。

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