優しさの基準


#やさしさにふれて

 今回初投稿です!皆さんの意見なんかも聞けたら嬉しいです!自分が前に原稿用紙に書いたものをベースに書くので論文みたいな書き方になっています。


私は優しさにいくつか疑問がある。今回が初投稿だが、今回はそれについて書こう。

まず一つ質問させて欲しい。「優しい人」の基準は一体どこだろう。     一口に「優しい」といっても色々な「優しい」がある。           例えば、困ってる人を助けれる優しさ、常に気遣いができる優しさ、無償で愛してくれる優しさ、などたくさんあるだろう。                例にあげた三つ全てを持ち、そしてそれを向けてくれる代表例はおそらく親だろう。                                  もちろん、それに当てはまらない親もいる。                だが、大体の子は親から優しさを学び、親のことを「優しい」と思う。    そして、自身の周囲の人間からも似た感覚を覚え、その人たちの事も「優しい」と思うようになる。                           そしてその基準は人によって異なる。                   事実、それは私自身が経験した。                     私は今年の五月に父親を肝不全によって亡くした。             私にとっては大した問題ではなかった。                  正直、このコロナ期間に面倒ごとが増えたとさえ感じていた。        なぜそう感じたのか考えた。                       父は私にとって、なんの興味もわかない、言い表せば「ただの顔見知り」レベルの人物だったからだ。                          そんな人間を「優しい」などと思うことは一度もなかった。         だが、彼の持っていた「優しさ」を知り、それに触れた人たちは皆泣いていた。私を除いた親族の全員が火葬が終わるまでの間泣いていた。         私はと言えば、ただただその場に突っ立っていた。             では何故、彼女たちは彼を「優しい」と思い、私は思わなかったのか。    それは優しさを感じる基準が違ったからである。              恐らく、私と君たちの優しさを感じる基準も違うだろう。          優しさの基準は人の数だけ存在するものだと私は考えている。

では、これからは、先ほど述べた、「優しさの基準は人の数だけある」という考えの説明に入ろう。       

先ほど例に挙げていた、私の実体験からも言えるが、人が人を判断する点は異なる。                                  言葉では言い表せない、その人が人生の中で作り上げた、他人の価値や性格的相性を図る、メモリのようなものがあると考えている。            そしてそのメモリはさまざまな感情を表現する。              例えば、その人の視点から見た「正義」や「真実」、「好感度」なんかだ。  よく、ライトノベルやアニメの二次創作で、「好感度を数値化する」なんて作品があるが、これも、基準のメモリの考えを無意識に人が持っていることを表す。そしてこのメモリは、人それぞれアップダウンの基準がある。        

それでは、この「メモリ」によって起こる現象や問題について書こう。    極端な例で言えば戦争や内戦だ。                     お互いの主張が彼らにとっての「正義」と信じて疑わず、その価値観に共感するメンバーで徒党を組み、「正義」に背く「悪」を倒すために、争い、戦い、殺し合う。                                 自信を「正義」だと考え、相手を「悪」として戦う。            喧嘩を仲裁して、両者の意見を聞いたとき、食い違うことがよくあると思う。 どちらも一切誇張したりしなくても必ず食い違う。             一方には一方の「正義」があり、もう一方にはもう一方の「正義」がある。  どちらも自身の主張が全てなのである。

ここらで今回の投稿を終えるが、最後に、私の考える「メモリ」の意味について書いて終わろうと思う。                        「メモリ」は、人が作り出した防衛本能だと私は思っている。        基準値を超える人間と良好な関係を築き、下回る人間は常に警戒する。    人が、他人や事実、物質の力を信じるために作り出した物だと、私は思っている。

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