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あの叙述トリックは失敗だったのか?(完) 師弟関係/『虐殺器官』読解

   ( 第二回から続く

 不意に覚えた、世界の終わりを言祝ぐ感情。
 衝動は当時、誰にも伝わる事がなかった。
 ある意味、当たり前の話ではある。
 吐露されぬ思いはただ、個人の空想に過ぎないのだから。

 世界が終わると思った。ぼくのからだといっしょに。すこしうれしかった。このうたが、そういう気持ちにさせてくれた。
 自分は最低だ。
 そして、まだこれを聴いている。

    Radiohead『Amnesiac』(2001)レビュー、2005年9月21日

 この衝動は無論、世界を救う英雄のものではあり得ない。
 一方でそれは、まぎれもなく自ら抱いたものだ。
 何ものにも代替され得ない、自分一人だけの感情。
 そう自覚したとき、何かが繋がったのではないか。
 自分は決して英雄ではない、むしろ悪役の側なのだと。
 そんな自覚から、さらなる一歩を踏み込むに至る。
 英雄を主役とする二次創作、そこからの離脱に。

 初期短編『海と孤島』から漫画『The Terminal Beach』『CUBE AUTHOR』『ネイキッド』を経て、『メタルギア』二次創作での語り手は主に英雄の側になっていた。それがデビュー作たる『虐殺器官』では遂に、語り手は明確な悪役へと変貌している。
 およそヒーローとは言いがたいキャラクターを、物語の語り手に据えること。作家としての道はここにあったのだ――たとえそれが、作品の完成度と引き換えであったとしても。

 主役の交代による作品の変化。
 この事は、デビュー前の作品と比べると分かりやすい。
 作家には実は、セルフリメイクと言っていい作品たちが存在している。2006年冬の二次創作漫画『チルドレン オブ ウォー』、そしてデビュー後2007年9月の短編小説『The Indifference Engine』だ。

 オリジナルかどうかの違いを除けば、両者の背景はほとんど同じである。P・W・シンガー『子ども兵の戦争』を下敷きに、元・子ども兵の目線から紛争国家の実情が語られる。
 一見ほとんど同じ、だが主役の境遇が違う。
 片や一度は救い出された男。
 片や救いの手からこぼれた男。
 その結末も必然、異なったものだ。
 それぞれの終わりを、ここで引いてみよう。

雷電「――スネーク おれは本当にこっち側の人間なのか?」
雷電「かつておれは間違いなく「エフィだった」」
雷電「子供の頃から大勢の人間を殺してきた」
雷電「男も女も関係なしに それがおれの「居場所」だった」
 (雷電の右頬に平手打ちをするスネーク)
スネーク「お前にはローズがいる」
スネーク「それ以外に理由が必要なのか? 甘ったれるな」
 (銃声を聞きつけて来た子供兵たち)
雷電「――エフィの部下たちだ」
スネーク「雷電 彼らを説得できないか」
雷電「――無駄だ 彼らは投稿しないよ」
雷電「子供の頃からそう教えられてきたし」
雷電「それを正してあげるべき社会は彼らを追い出した」
雷電「だからスネーク ここを生きて脱出したかったら 彼らを撃つしかない」
雷電「信じてくれスネーク 現実の話さ」
スネーク「――雷電」
雷電「だってむかし ぼくは――ほかならぬその子供だったんだから」

   伊藤計劃『チルドレン オブ ウォー』末尾

『チルドレン オブ ウォー』での主役・雷電は、子供兵だったことを「むかし」とし、過去との決別を告げる。しかしその決別は、あくまでも個人のものだ。生きて脱出したとして、その先はどうか? 他の子供兵たちの話は、何ひとつ解決してなどいない。
 遺棄されていた小型核を手に、子ども兵を束ねるキャラクター、エフィは問いかけている。子ども兵時代の友人・雷電へと、愛称で。

エフィ「ここにいるみんなは街で、村で、石つぶてを投げられて追い出された仲間たちさ」
エフィ「誰かの親を 誰かの娘を 殺したり犯したりしたぼくらを誰も許しちゃくれない」
エフィ「それが大人たちに銃をつきつけられてやった事でもね」
エフィ「こいつを首都に撃ち込んで ぼくらは居場所を切り開く」
エフィ「「平和」とやらにはぼくらの居場所はない」
エフィ「だからジャックも戻ってきたんだろ?」

伊藤計劃『チルドレン オブ ウォー』

 子ども兵たちの居場所。その拠り所のなさは、『The Indifference Engine』でも扱われている。
 許されなかった者たちの連帯。
 そんな形で真摯に、けれども穏やかでない形で。

 ぼくらは行進する。
 ぼくらは行進する。
 彼方の道のまたたきに向かう。
 生活の匂い、文明の匂い、平和の匂い。
 涙が出るほどいとおしく、ぼくらが求めて止まないものだけど。
 それも今は昔のはなし。ぼくらは楽しくそれらを壊す。
 のろまもせっかちも皆いっしょ。
 のっぽも、ちびも、てんでばらばらな足並みのままにそこに向かう。
 必要なのはAKだけ。そんなものはそこらじゅうに転がっている。拾って自分を証明すればいい。きみがきみであることを。
 さあ、そいつを脇に抱えたら、ぼくらの列に加わってくれ。
 ぼくらの見たかった景色はすぐそこだ。一緒に来るなら、期待してくれてかまわない。

   伊藤計劃『The Indifference Engine』末尾

 二次創作とオリジナル、漫画と小説の違いはいったん置いておこう。
 短編として、両者は高いレベルで完成している――しかし。
 どちらにオリジナリティがあるか。どちらが鮮やかに印象を残すか。
 どちらが真摯に、作品として成立しているか。
 そう問われれば。
 一片の終末を描いた、デビュー後の短編になるはずだ。

 書きたい題材とは何か。自らに向いた題材とは。
 両者の一致する者は自然、作り手に向かう。
 では、そうでない者は?
 両者の一致していない者が、それでも作り手を目指すなら?
 複雑に折り合いながら、向いている題材を見つけるしかない。
 そんな機微に気づける者は、思われているよりずっと少ない。

 書きたいこと、向いていること。それらをつかみ、意識していく。
 苦闘し呻吟し、旅路の果てに一ファンは作家となった。
 きらめきこそあれど、決して初めから作家だった訳ではない。

 そして。
 デビュー前後のこの変遷に、恐らくはただ一人、気づいた者がいた。
 気づき、考え、そしてたどり着いた者が。
 それは誰か? ふたたび、資料を引こう。

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