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御冷ミァハの「大嘘」(3) 『ハーモニー』読解/伊藤計劃研究

  ( 前回 から続く)

 御冷ミァハには集団自殺する気などなかった。
 事件の真の動機は、霧慧ヌァザへの接近。

 踏み台にされた事実に、霧慧トァンは気づいていたのだろうか。
 13年前は気づかなかった。御冷ミァハに心酔していたからだ。
 本編開始時の霧慧トァンには、過去の真相に気づく冷静さがある。
 足りないのはただひとつ、きっかけだけだ。

 注意深く読むと、霧慧トァンは徐々に「嘘」に迫っている。
 無論、最初から追求を意図していた訳ではない。
 本編序盤の時点で、魅了は解けていないからだ。

  なんとなく、 不在のミァハにお伺いを立てたいという、自分でもよく分からない衝動に駆られて戸惑った。ねえ、キアンとふたりで食事に行っていい、というふうに。 

『ハーモニー』文庫版p92

 きっかけは無論、眼の前の零下堂キアンの自殺である。
 事件の影に御冷ミァハを見出し、霧慧トァンは独自捜査におもむく。そして集団自殺未遂事件の真相に迫るにつれ、御冷ミァハに不信をつのらせていくのだ。

「わたしは逝く」「わたしと一緒に死ぬ気ある……」などと誘いながら、なぜ迂遠な手段しか用意しなかったのだろう。
「この身体はわたし自身のもの」「リソース意識なんてゴメンだ」などと言いながら、なぜ自らの遺体をリソース=献体として父・霧慧ヌァザへ差し出そうとしたのだろう。

ミァハにとっては「同志」だったかもしれない。
けれど、今のわたしにとって零下堂キアンは友だちだった。
わたしたちのなかで、いちばん勇気があって、いちばん大人だった女の子。    

『ハーモニー』文庫版p155

 疑念は徐々に、だが確実に深まっていく。
 同時に、かつてのカリスマと己の考えは分離していく。
 そしてバグダッド編の終盤に至り、ついに衝突するのだ。

「彼女の望む未来のために六千人が自殺しなきゃならなかったっていうの」 
「そうだ」 
「それ、ぜんぜん説得力ないわ」
  と胸ぐらをつかみ、
「ミァハはどこにいるの」 

『ハーモニー』文庫版p280

 ここに至り、もはや盲信はない。かつてのカリスマは、今では問い詰める相手でしかないのだから。

   ・

 御冷ミァハへの不信。
 不信を抱くきっかけは、紛れもなく零下堂キアンの自殺だった。
 注目すべきは、零下堂キアンが自殺に追い込まれた理由だ。
 その理由こそが、巡り巡って本編終幕につながっているからだ。

 無論、本編のやり取りでは明示されていない。
 けれども御冷ミァハの目から見れば、明確に殺す動機が存在している。
 御冷ミァハが通話越し、零下堂キアンを唆すシーンを見てみよう。

 キアンも、トァンも、こっちにはこなかったよね。(中略)
 でもね、いまわたしにその勇気を見せてくれれば、それでいいような気がする。世界に対して、永遠に続くものはないんだ、って、このカラダは自分ひとりのものなんだって、すぐに証明してくれたらまた一緒に、あの日に戻れる。(中略)
 お願い。だからキアンの勇気が欲しいの。
 証明できるところを、わたしに見せて。   

『ハーモニー』文庫版p182

 ここまで読んだ方ならお分かりだろう。
「このカラダは自分ひとりのものなんだ」と示す「勇気」。その帰結を自殺に持っていくのは明らかに矛盾である。「このカラダ」の捧げ先が、社会から御冷ミァハへ変わったに過ぎない。これでは「カラダ」が、「自分ひとりのもの」との主張とは言いがたい。

 声のかけ方も不自然である。
「こっちにはこなかった」点では霧慧トァンも同じだ。
 零下堂キアンは追い込まれ、霧慧トァンには声さえ届けなかった。
 つまり何らかの、二人を分ける理由が存在したのだ。
 御冷ミァハが、零下堂キアンだけを殺す動機が。

・過去の御冷ミァハには集団自殺する気などなかった
・集団自殺事件の真の動機は霧慧ヌァザへの接近

 この事実を踏まえた上で、現代の御冷ミァハの動機に迫っていくとしよう。 (続く)

付記:「本編序盤の時点」とわざわざ書いたのは、記述の時系列がしばしば錯綜しているからだ。ここでは「カリスマに見切りをつけた後の記述も序盤に入っている」「時系列上は最後尾近くに存在している」と述べるに留める。

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