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写真とは『ミステリー小説』!……なのかもしれない。

 あれ?
写真って、『言語』だったか? 
 最初にそう思った。

 EOS学園の『構図を知れば写真が変わる︕構図研究講座』。講師の、⽥邊和宜先生(ブログ)が話し始めてものの5分もたってなかったように思う。

 実は、カメラの構図というものについては、それほど興味があったわけではない(コラ)。勿論、自分の撮る写真に『何か』を足したいなとは前々から思っていた。しかし、なにしろ、私がメインで撮るのはモデルをめざす我が子。ガンバルのは本人で、私がひとり何やらアーティスティックなどめざしちゃうと、本末が転ぶ。でも、それを含んでも、やっぱり上手になりたい。いや、情けないけれど、そも何が「良い」写真なんだかわからない。

 まず、「とんでもなくダメ」じゃないかぎり、写真に優劣ははっきりつけがたい気がする。高名なカメラマンの作品だって響く響かないに個人差があるように(正直、ベッヒャー夫妻の溶鉱炉写真が延々続くと、『うーん、分かるんだけどね』って口がへの字になるし(当方の芸術性不足なだけ)(笑))。

 このことについては前々から一家言ある。例えがこれでいいのかとは悩みつつも例をあげれば、高校時代の国語の文章問題。小中学校はともかく、高校で読む純文なんかは、もはや読む人が感じるように感じたら良いようなもんで、問題にされるような書き方をしてるのであれば、それは書き手に責があるんじゃないのか? きっと文豪たちだって、自分の書いたものの趣旨が読み取ってもらえず30点とか40点とかの高校生がアチコチにいたら……うわぁこりゃどういう種類の拷問かとあの世で煩悶されていやしないか。


 まぁ、写真にしても、文章にしても、そんな風に考えているものだから、溺れる者が藁ばかり掴んで一向に浮かばない(そりゃ藁だからなぁ)。けれど、今回、これ、この事については、なんだかちょっと浮いた。そんなつもりで参加したのじゃかった構図の講座で、脳内論争に一筋の光がさした感じがした。

 『構図を組み上げる時にまず最初に必要なもの。それは、被写体と自分との『間』。近づくか遠ざかるか、アップで撮るか引きで撮るか』。そしてそんなシンプルな動きからすでに、写真は雄弁に選び始めている……見る者に伝えるべき『言葉』を。
 写真が喋るんかい、と突っ込まれそう。でも、『言語形態』が違うからそれとはすぐに気付けないけれど、伝えようとしているという点では『言葉』という形容がもっともふさわしいように思われる。
 空間が上にあいているか、下にあいているか、それだけで未来を表現したいのか、過去を振り返っている一枚なのかが表現されている。与えた空間には意味がある。シャッターを押した人がこの写真で何を伝えたかったのか、何を言いたかったのか、それを語るための文法が、すなわち「構図」なんだと……そんな話を聞いてしまうと、理解したいと思って見るようになる。どうしてこの角度にこの背景をこの配置で入れる形で撮ったのか。もはやドキドキが止まらない。記号学や象形学に近い。さながら、『ダヴィンチ・コード』。そして私は、ラングドン教授!


 どのくらいの大きさで、どの位置に、何と映しているか。そういう細かい情報が、すべて、実は一瞬のうちにカメラを握る人の頭の中で組み上げられて、一枚に落とし込まれる。
 口から発する言葉とまったく違う文法で描かれたそれは、人間の直感に近いところに直結している。「その時その場所にあるものによる表現」という(「時」「場所」「自分の立ち位置」)プラスでもマイナスでもある制約を無くす事はできない(基本的に写真で戦争の悲惨さを伝えたいと思ったら、普通は戦地に赴くかそれに付随するものを被写体に選ばないといけない。ま、レタッチとか合成修正が可能となった現在の写真はこの制約も粉砕しかけている気がするけど)。でも、これはそも前提としておかしくて、たいていは目の前の景色に心が動いたから、その動いた心の在り様を共有化するために写真を撮るんだろう。


 単に整って見える魔法の配置を構図というのでなく。明確なメッセージをコチラに投げかける暗号のヒントのようなもの。撮り手と見る人はそういう意味では、謎賭けのようなやりとりを常にしている。だから……写真はただ『言葉』なのでなく、見る側に大きく謎をふっかけて謎解きを迫る、いわゆる『ミステリー小説』と読み解くべきかもしれません。
 いや、私はそんな高尚な事は考えてないなと思ってみても、思い返せばやっぱり「ここで撮ったらカッコイイ」「この服をこの景色でこの雰囲気で」とは考えている。そして、それが相手に伝わったとき、「良い写真」と言われる訳だ。

 今回の講座で、写真と絵の見方がガラリと変わりました。とはいえ、実践できるかどうかは勿論別問題で、そういう点では何事にも速攻に聞く特効薬というのはないのですが…………でも、気付きがある前と後では、雲泥の差があるのは間違いないよな、とも思っています。

 さて、こういう発見を戴くに至った田邊先生の教室、是非、カメラを楽しみたい方にはおススメしたい。先生が『僕は写真も絵についても語るんですよ』と言われた意味も、講座の終わりごろにはとてもよく判るし、自分も積極的にそうしたいと思うようになってしまいました。
 「富士山の写真を撮る時には必ず富岳100景を先に見るよ」と言われた先生がパソコンの画像をパッと出され裏表ズラーッと画面上に展開されたそれが……永谷園のオマケのカードのように見えて絶句したのは、これはまた、別の話(笑)。


 こんな私がこれまで撮りためた写真の一部を今回、CANONのPHOTOPRESSOのギャラリーに「おまつりえほん」という名前で1冊、アップしております。見るのは無料。私のしかけましたミステリーも、是非、お暇がありましたら、この年末年始、御批評いただけましたら幸いです(笑)

 おまつりえほん VOL.01 / おまつりえほん VOL.a 



 

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