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常に学ぶことを止めず、しなやかに社会に奉仕

小川明子(めいこ)さん 第8期(2022年10月)受講生

シリーズ第5弾は、長年福祉のお仕事に従事され、ケアマネジャーとして、多くの方々の心の支えとなってきた小川明子さんです。今年3月に早期退職されました。
現在はご自宅でパン教室も開催なさっており、既に充実したセカンドステージをお過ごしのご様子です。今回は、小川さんが、なぜ福祉のお仕事に入ったのかを中心に、パン教室開催までの経緯、これからの事等を伺いました。


■心理学を学び、厨房でのアルバイトを経てソーシャルワーカーへ

マチュアの会(以下ー):
小川さんのこれまでのキャリアから教えて頂けますでしょうか。
 
小川さん:
生まれたのは熊本県の水俣市です。水俣病で有名ですね。高校までは地元の県立高校に行き、大学は仙台の東北福祉大学に進みました。色々なスポーツ…ゴルフとか野球等で有名な学校ですね。
その時は、全く福祉とか考えていなかったのですが、野球が好きだったのと、心理学がやりたくて、社会福祉学部の中に心理学科がありそちらへ進みました。
就職も具体的には考えていなかったのですが、就職するなら九州に帰ろうと思いました。3年生である程度単位数を取ったので、4年生の時には福岡に移り住んで、ほとんど大学に行かずに、バイトしながら就職活動をしていました。
今はソフトバンクのPayPayドームですが、当時ダイエーホークスがちょうど福岡に来た時で、そのドームのレストランのアルバイトで、4年生の1年間、厨房で仕込み等をやっていました。
そうするうちに、レストラン経営も下火になってきたので、どうしようかなと思って地元に帰りました。その後、たまたま地元の病院のソーシャルワーカーを募集していたので、受けてみたら合格したという経緯で、市立のリハビリ病院で公務員として8年間、病院のソーシャルワーカーとして仕事をしてきました。前任者が選挙に出馬するために辞めたために急遽後任の募集があったのですが、運がよかったと思います。
当時は“ソーシャルワーカーって何?”みたいな感じで、ソーシャルワーカーを置いていない医療機関が多かったのですが、今ではソーシャルワーカーや地域連携室を置くこともメジャーになっていますね。
その後、病院が統合するというタイミングで20年前に上京しました。
当時はまだ介護保険がなかった時代です。そもそも胎児性水俣病の患者さんのリハビリのために自治体病院ができたという経緯があったので、理学療法士や作業療法士などとチーム医療で先駆的なリハビリをやっていたのですが、総合病院と統合することで自分のやりたいことが出来なくなると思い上京し、そのあとは病院勤務のケアマネジャーで20年やってきました。
ほぼ30年近く、病院の中で、福祉職として働いてきたことになります。
福祉職ではありますが、医療機関にいたので医療的な知識や情報ももらえる恵まれた環境であったと思います。

■早期退職の決断と次のステップへ

ー現在52歳の小川さんが早期退職されたきっかけは何かあったのでしょうか。
 
小川さん:
本当は定年までいるつもりで、人事考課でも自分のキャリアマネジメントもしてきたのですが、昨年、色々あって、このままだと身体を壊すと思い、セカンドライフを早々に考えなくてはいけない状況となりました。
みんなに辞めると言うと「仕事大変だよね」と言われますが、仕事自体は、やりがいもあって辞める決断をするのがすごく辛かったですし、対人援助の仕事をどういう形でやっていくかという所を今模索している感じです。
ケアマネとして働く環境は、体制としてはとても恵まれていて、普通、一人ケアマネとか、個人の所ですと365日全然休まらなくて、家にいても電話がかかってくるとか、連絡調整をしなくてはいけないということがあるのですが、うちは8人ケアマネがいて、基本、休みの人には連絡を取らず、残っているスタッフで対応するというスタンスなので、基本、休みの日には連絡がこないし、時間外は電話待機の人が対応するということで、その辺の体制は働きやすかったので、じゃあ、他の所で働くか?というとそれは厳しいかなと思い、他の形で、対人援助ができるといいなと思っています。まだ、具体的には詰められていませんが…

ー今後は、どんな風に考えていますか。
 
小川さん:
3月末で退職するので、失業保険をもらいながら、職業訓練校に行こうと思って、実は、先日申込みをしたところです。
「カフェ&フードサービス科」というものがあって、3か月間の講座ですが、コーヒーや紅茶の淹れ方、軽食、経営等、例えば自分で喫茶店経営したいとか、飲食店に勤めるというのを目的にしています。
申し込みの結果が分かるのが4月中旬ですが、合格すれば5月から7月の3か月通う予定です。
色々調べてみて、キャリコンなどもあったのですが、自分が一番興味があるものをやったほうがいいと思い、たまたま見学にいったところが、神奈川県では何十年もやっている飲食店組合がやっていて、以前は若年の職業訓練というクラスがあり、当時は全国から受講生が来ていましたと仰っていました。
26人定員なので、最低人数が集まれば開校されて、万が一オーバーした場合は優先枠から先にとると思いますと言われました。
若い人も居ますが、見学に来ていたひとは、私と同じ位の年齢の方もいらっしゃったし、色んな年代の人がいました。
メインは調理実習や実践ですと言われたので、ちょうどいいかなーと思いました。

■厳しい教育方針と共働きで自由な両親の元で
 
ー失業保険をもらいながら色んな年代の人と学ぶのは楽しそうですね。そこで色んな出会い等もありそうですね。
では、その中で、パン作りはどんなふうに始められたのですか。
 
小川さん:
親が共働きだったので、祖父母が面倒をみてくれていたのですが、祖父母が商店をやっていたこともあり、手伝ったり、料理なども見よう見まねでやっていたので、その時から料理等は好きで、やっていました。
私が小学校中学年位の時に、私の母が料理教室に行っていて、母の趣味仲間でパンを焼く方が、パン作りを教えに来てくれたりして、自分でパンを焼いたことがありました。
母は今でもパッチワークやトールペイントなど手先を使う手芸が好きで、パッチワーク教室をやっているのですが、その当時のグループの中にパン教室に通っているグループがあって、そこからの情報で、福岡に住んでいた大学4年生の時、福岡の教室に行き始めたのが始まりです。
当時は、平日昼間しかやっていなかったので、専業主婦とかが多かったですね。まあ、今もそうですが…
ケアマネの仕事をしている時は、シフトで平日がお休みだったので、平日休みでない時は、お休みを取って行ったりもしました。
熊本に帰って1年は就職していなかったので、その時は、福岡まで特急で月1回通っていましたが、その後は、同じ系列で個人の先生に習ったり、個人の先生がやっている土曜日に習いにいったりしていました。
上京してから5年位休んでいたのですが、その後、練馬にある東京の本校に通い始めて、今に至るという感じです。

パン生地を丸める小川さん

ーかなり長いですね。パンの仕事を最初から目指さなかった理由はなんですか。

小川さん:
飲食業をやろうかと思ったこともあるけれど、経営の事もわからないし実際難しい…それで食べていくのは難しいかなと…思っていたところ、たまたま病院で募集があって…

ー大学の時って4年生で就職活動して、卒業と同時に就職するのが標準的だと思いますが、小川さんは、標準的な形を取らなかったのですね。

小川さん:
親が厳しくて、女の子でも大学行っていないと、という家だったので、大学に行くのと親から離れたいというのもあって遠方にいったという経緯があります。昔は、県内とか少なくとも九州内でと言われていましたが、その制限はうちの親にはありませんでしたから。でも、じゃあその後何するかと言うと何かしたいというわけでもないし、就職するというのもピンとこなくて、親が共働きだったので、働くというよりは専業主婦みたいなのになりたいというのも当時はあって、就職もあまり真面目に考えておらず、何かしたくてどこかへ就職というのがなくて、流れにのってたまたま運もよかったと思うのですが…

ー共働きのご両親ってその時代はあまり多くなく、専業主婦が多い時代に、働くお母さんをご覧になっていたけれど、自分は働くイメージを持たなかったということですね。

小川さん:
母は今は80歳になりますが、当時は共働きで、結構自由に習い事で夜出かけていたし、料理教室にも行っていたし、お習字とか趣味のアートフラワーとかパッチワークとか結構自由にしていました。
父もそれに対してあまり言わなかったので、私も妹も、母親が家にいないという寂しさとか、自分は家にいたいというのもあったのですが、今になってみれば、私は母と同じような生き方をしているし、妹は反面教師で母みたいになりたくないから、自分は子育てをちゃんとしたいというのもあって、専業主婦をしています。
うちの母も運がいいというか、48歳の時に人員整理の会社都合で仕事を辞めていたので、失業保険もすぐにもらえたし、退職金の上乗せもあったし、パッチワーク教室をしたいというのもあって、今もずっとやってきている感じです。

■60歳以降もやりがいと生きがいを探して新たな世界へ

ーでは、1年半くらいまえにセカンドキャリア研修に通おうと思ったのはなぜですか。早期退職をしようと考えられていたのですか。
 
小川さん:
その時も退職しようと思い、60歳からどうしようというのもあって、
本当はその前の期で申し込もうと思ったのですが、定員一杯だったか締切が終わったかで、次の回の8期を受講しました。
その時は60歳まで務めたあとにどうしようかなというのと、仕事に対して対利用者さんとの対人援助はやりがいがあったけれど、職場で何かやりがいというかそこでのモチベーションが保てなくなっていたので、対人援助は対人援助として業務としてやるけれど、それ以外で生きがいをもてないかなと思ったのがきっかけです。
働き方改革が変なふうに一人歩きしていて、時間外を減らせとか、時間内に効率よく仕事をするために、まあ、ケアマネは自分でスケジュール管理できるので時間内に収めて…と思ったら、そこに仕事入れられるとか。。。
やってもやらなくても、時間内にいれば、評価が変わらないというか、やりがいとか、働き甲斐がなくなったので、その部分を他のところで何かできないなあと思って参加しました。
まさか、こんな退職になって、そこを考えるとは…という感じですが。
 
ー受講してみての感想や、その後のマチュアの会での活動状況はいかがですか。

小川さん:
退職間近な人が多かったので、私の中では、みんな同じようなこと考えているだなとか、うちは子どもももいないし、ローンもないので、自分のやりたいペースで、かつかつ働かなくてもいいのかなとか、起業まではいかないけれど、自分の専門職で活かしてきたこと…たとえば飲食とつなげることもあるのかなとか…
今は、ミニセミナーのグループに参加していて、再度連絡とっていく感じと、働き方改革とかが気になっていた同じ時期に、たまたま検索していたらウェルビーイングがいろいろ話題になっていて、ウェルビーイングのオンライン大学があるのですが、そこに入っています。そこは緩いので、毎月10日が講師の方が1時間くらい話しをする勉強会、と20日が交流会で情報共有したりしています。

ウェルビーイングオンライン大学、学長の前野隆司先生と

 そこにいくつか部活があり、今参加しているのは、HSP(※)です。一時期、「繊細さんの本」が流行って、日本人の5人に1人はいると言われているのですが、いろんな事を敏感に感じて生きづらさを感じるとか。HSPの人しか入れないのですが、そのワークショックのお手伝いというかアシスタントをしています。
3月17日~24日まで、ウェルビーイングウィークで、色々な研修やセミナーがZoomで無料でやっています。誰でも入れるのでHPを見ると参加できます。
3月20日が世界幸福デーだそうです。
※HSP(Highly Sensitive Person)ハイリー・センシティブ・パーソン

■マチュアの会メンバーへ向けてのメッセージ

ー広く色々さているのですね。
最後に、マチュアの会のメンバに何かメッセージはありますか。

小川さん:
今年は私はもう仕事を辞めたし、オフラインで会いたいなと思います。
また新しい企画もやり始めているので、一緒に参加できればと思います。

ー楽しみですね。
何度も運がいいという言葉が出てくるので、きっと流れに沿って、流れに任せて運を呼び寄せているような…

小川さん:
人にも恵まれていると思います。そこからのツテとか、
上京した時もコーチングをやっていたのですが、研修で会った方が同じコーチングのメンバーで東京にケアマネ事業所を立ち上げるので、探しているならどう?と言われて最初の1年の就職先がきまったし、全く東京には住んだことなかったのですが、住むところも、パフォーマンス学というのもやっているのですが、同じ授業を受けていた人がたまたま熊本出身で、東京に結婚してきた時に、その方が「夫の実家がアパート経営していて空いているからどう?」と言われ、たまたま世田谷に就職が決まった時に、世田谷のアパートもそこに入れたというのもありました。
本当に人に恵まれているという…

ー学んだことだけでも沢山ありますね。勉強家ですよね。

小川さん:
社会人になって、自分で勉強しようと思ったことは楽しかったし、色々な人と会えたし…というのはあります。

ーそうなんですね。お話ありがとうございました。


インタビューを終えて:
静かで柔らかい物腰とは反対に、強さと秘めたる熱い想いを持つ小川さん。福祉職やパン作りに留まらず、色々な領域で自分の強みややりたいことを深め、極めていく姿に憧れの念を抱きました。自分の価値観や軸をしっかりと持ち、恵まれた運やご縁に感謝しながら常に学び続ける小川さんのネクストストーリーが、これからどうなっていくのか興味津々です。
 
(2024年3月14日)  インタビューは、マチュアの会情報発信プロジェクトの有馬由佳(6期生)・柏原恭子(6期生)が実施しました。

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