見出し画像

「くらしのアナキズム⑤」

「マックス・ヴェーバーは、国家を物理的な暴力の行使を正当に独占することに唯一成功している共同体と定義した(『職業としての政治』)。・・・警察にせよ、軍隊にせよ、「物理的な暴力の行使」をひとつの集団や組織が独占する。それが国家の本質にある。自由・平等・自治というアナキズムの目指す価値は、その独占を志向する力との絶え間ない拮抗のなかにあった。」
『くらしのアナキズム』p131 松村圭一郎 ミシマ社

国家は私事なり。福沢諭吉が言った通り。国家権力というやつ。

根本的な性質としては、「民主主義」というものとは相反する。だから、本書中にも言われているが、「民主主義国家」というのは矛盾そのものだと。

とはいえ、ある意味、結果として相反する性質が同居する。「生命」そのものではないか?生まれた瞬間から死へとまっしぐら。エントロピーとの鍔迫り合いが始まる。pHでいえば、常に酸性に傾くのを中性に、アルカリで中性に持っていく作業。実際に酸化は老化であり。国家という酸性が強いものに絶えずアルカリで自由、平等という成分を注入していかないと酸化に傾きすぎて「暴力性」が顕在化する。あるいは破綻する。

人類学の指摘するように神話では二項対立との拮抗が物語の構造として各地域で各集団で見られる。それは、暗に、「生存、生命」の肝が「拮抗」=「動的平衡」にあるという直感があるからではないか?

だとすれば、「民主主義国家」という仕組みは小集団(レヴィ・ストロースの言う冷たい社会)では「動的平衡」システムが神話や決まり事で安定的にそれこそ「持続可能な」形で出来ていた。熱い社会(絶えず「成長をする」社会)では「動的平衡」ができなかった。だから栄枯盛衰、国家が生まれては消えを繰り返し、総力戦の世界大戦になる。それを経て「民主主義国家」というものにたどり着く。億単位の集団を「動的平衡」=「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」にしようというのがデモクラシーと国家を足したものなんだろうか。

とはいえ、福澤や夏目漱石が指摘してたように「国家にもたれ掛かり、お客」のように、消費者として受け手の精神では廃れる。今はその末期なんだろうか。

民主主義国家という宿主に寄生するのが「キャピタリズム」資本主義なんだろう。資本主義はあらゆるものを商品とする。生活の術も商品にする。だからみんな外部委託になる。そして一人一人は生活の術を身につけていない無能なホモサピエンスとなる。(賢い人って意味だから、そういう意味ではただの猿か?)

ホモサピエンスに再びなるには、生活の術を一人一人が、一個づつ「我が手に引き戻しつつ」、アルカリである自由、自治を国家という酸性に噴霧していく必要がある。それがアナキズムだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?