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「くらしのアナキズム④」

「国家権力を生みだす根底には、権力への欲望とともに、隷従への欲望があると指摘する。一度、権力関係が生まれ、社会が支配者と被支配者に分化してしまうと、もはやあともどりできなくなる。(・・・)「生産活動が初期の目的からそれ、自らのためにのみ生産していた未開人が、交換も互酬性もなしに他者のために生産する時、全てがひっくり返る。その時、すなわち、交換の平等性の規則が社会の「民法法規」であることをやめ、生産活動が他者の必要を充足することを目ざし、交換規則に負債の恐怖がとって代わる時、我々は労働について語ることが可能となる。(・・・)現代に生きるぼくらからすれば、国家なき社会や「未開社会」とされる人びとの生活は「貧しい」ようにみえる。でもそれは、あえて蓄積につながる無用な過剰生産を拒否してきたからである。そこには「労働を必要の充足に調和させる意志」があり、過剰な労働を強制し、その余剰を一部の所有物にする暴力としての国家を拒否しつづける意志があった。それはまさに国家に抗する闘いの歴史だったのだ。」  『くらしのアナキズム』松村圭一郎 P95〜97 ミシマ社

対称性の自発的破れ・・あらゆる文化遺産というのは搾取と暴力装置の遺物でもあるのか?私たちは「世界遺産」だとかレガシーだとか言ってありがたがるが、国家による「余剰の搾取」、過剰な労働(神殿だとか、起きて半畳寝て一畳で住むのに馬鹿でかい墓を造らせたり)によって作られた造作物であるのかもしれない。そして、国家生成と三大宗教の出現が重なるのも「国家という不条理なシステムをどう受け入れるか?」という「麻酔」として登場したのかもしれないとも思った。

結局、行き着く先は同じなのだ。高度な文明というやつを持っていようが、未開とわれる社会で生きようが、行き着く先は「死」でありこの世からの「消滅」なのだ。どちらが良い、優っている、劣っているという単純な二項対立ではない。
資本主義にどっぷり浸かっている私たちは国家と資本主義という2つの足枷であり、文鎮を持っている。ものが飛ばないように重りで止めるというメリットと、思いつくままに歩き回ることを抑制する足枷を持つ。ただ、有史であるように「国家」は誕生しては消えを繰り返す。200年前後で。産業革命×資本主義で資源を使い尽くす。それでもって地球規模の人口は増加中。少子化になるのは当たり前だろう。増えるのがむしろ危機でしょう。

話が逸れすぎて、何が言いたいのかわからない。

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