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心の砂漠化を癒やすもの

気づくと、心の一部が乾いてしまうことがある。心のすべてが乾いているという意味ではない。地球のようなもので、美しい山や森もあるけれど、砂漠になってしまった場所もあるのだ。

問題は、この心の砂漠化が進行していないか、ということだ。心の砂漠化は、知らず知らずのうちに進行する。わかりやすい砂漠になる前に、土壌の水分が減少し、木々がやせ細り、水の循環が悪化していく。砂漠にまでなってしまうと、水が入ってきても蓄積できない。砂漠に水を取り戻すためには、長い時間と地道な行動が必要となる。

難しいのは、多くの場合、この「心の砂漠化」は、ブラインドスポット(盲点)で起きることにある。つまり、それ自体を見ないようにするし、実際に見えない部分で進行する。悲しみ、怒り、絶望、触れたくない奥底の感情が、この部分を見えなくする。結果、砂漠化は気づかれることすらなく、静かに、しかし確実に進行していく。

不思議だと思うことがある。これまで、砂漠化と土壌と水のメタファーで語ってきたが、この癒やしが現実に起きるとき、多くの場合、人間の身体には涙が流れる。涙が心を癒やすのか、癒やされた結果涙が出るのか知らないが、「心の砂漠化」においても、水(涙)とは関係があるらしい。

話を戻す。この見えないところで進んでしまう、「心の砂漠化」を止め、癒やしてくれるものは何であろうか。

僕は、心の砂漠化を癒やすものは、最終的には、「愛」と呼ばれるものかもしれない、と思い始めている。愛情を通し、見たくない過去、つらい経験、そういったものに触れることもある。また愛を与えられるだけで、知らず知らずのうちに、身体が癒やされることもある。

実際の砂漠化が進んだ土地でも、豊かな自然を取り戻したい、そう願う人々の一つひとつの行動が、土地を癒やす。これも「愛」の形なのだろう。

愛し、愛される。この循環が、心の砂漠化を止めるのかもしれない。僕にとって、芸術体験はそういうものであってほしいし、仕事をすること、人と関わること、また生きること自体がそういうものでありたいと願う。

でも、実際はそんな簡単にできない。僕自身、うまくいかないことばかりだ。言葉だけになってしまっている部分も多い。その中でも僕は、「愛したい。それを受け取って欲しい。」というニーズが深くにあることが最近わかってきた。

僕は、愛される、ではなく、愛したいのだ。だから何かを作ってしまうし、何かを届けようとしてしまう。ときにそれは無視されるし、何も起きないが、それを受け取ってもらったとき、僕の心の砂漠に水が行き渡り、結果、癒やしが起きる。

逆に言うと、心の砂漠化とは、愛の枯渇、ということもできるのかもしれない。そんなことを考えた、朝だった。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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