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世界観で繋がる場の可能性。

昨日、創造的余白をコンセプトにした場が終わりを告げた。僕が心惹かれる感性を持っている、8名のクリエイターに声をかけ始めた完全招待制の場だ。

毎月個別セッションと対話の場を行いながらの、半年間。場の根底にあるのは、「私は、人生を通して、何を創り出したいのだろうか。」という問い。昨日は最終回として、この問いに対しひとりひとりがプレゼンテーションを行った。

とにかく素晴らしかった。何が素晴らしかったのだろうかと振り返ると、その場で聞いた一つの声を思い出す。

「ここまで一気に、たくさんの世界観に触れたことはないかもしれない。」

そのとおりだと思った。コミュニティの流れを振り返ると、地縁・血縁で繋がるコミュニティから始まり、そこからインターネットやSNSの登場で関心やテーマで繋がるコミュニティが生まれた。今はそこに加え、存在目的やミッションで繋がるコミュニティも増えている。

僕は、それぞれ好きだ。

ただ、これは経験したことある人も多いのではと思うが、最終的に具体的な何かひとつのものを創り出す時に、存在目的やミッションを深く共有していても、何かうまくいかなかった経験はないだろうか。僕にはある。

例えば、「平和」を目的にしても、そもそも何を平和と捉えるのか千差万別。平和を求めて戦争が起きるのがこの世界だ。また、創作物に関しても、同じ「愛」をテーマにした映画でも、無限に映画の表現方法は存在する。

つまり創造行為においては、存在目的以上に、世界をどのような眼差しから捉え表現するのか、という意味で、世界観が大きく関わっているのではないだろうか。

この世界観は、とても共有が難しい。世界観は最終的に、「何をいいと思うか」「何を面白いと思うか」「何を美しいと思うか」の判断に繋がる。ここがズレていると、一緒に何かを作ることはとても難しくなる。そして、この判断の奥に隠れている、個人個人が世界をどう捉えているのか、その階層から、人と人が出会えたら何が起こるのだろう。

そんなことの可能性を垣間見た場だった。独自の眼差しを持ち、世界に触れている人たちが、世界観から出会う。できるだけ多様な価値観、職業の人が。今回でいうと、医者、科学者、ビジネスパーソン、デザイナー、映像カメラマンなど様々だった。

できるだけ多様に。でも世界観は深く共鳴してしまう人たちが集う。そんな場をこれからも継続して作っていきたい。そして僕の文脈で言えば、これらの世界観で共鳴しあう人々と、これから色々な作品づくりや仕事など、協働して創作に挑むことになるのかもしれない。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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