見出し画像

僕たちは、時間の奴隷なのかもしれない。

人間は、2つの意味で、時間の奴隷なのかもしれない。

1つ目の意味は、過去から現在、未来という時間の流れに逆らうことは出来ないという意味で。僕たち人間は、ドラえもんのタイムマシンのように、過去から未来を自由に行き来することはできない(少なくとも、現時点では)。

※ 小難しい話をすると、物理学的には、時間はとても不思議な概念である。本来、物理学の方程式は、時間の方向性を定めないし、時間も可逆なはずなのに、現実には時間を逆に遡ることができない。エントロピー増大の法則が、時間の方向性を生み出しているといわれている。

2つ目の意味は、僕たちが、過去の出来事や、過去の感情に縛られて生きてしまっているという意味で。

最近の世の中の出来事を見ていても、なぜ、人は、お互いにいがみあったり、恨みあったり、殺しあったりするのだろうと思う。戦争や分断といった社会的な課題はもちろん、家族や仕事などの日常の場面でも、そう感じる瞬間に出くわすことも多い。僕自身、やられて嫌だったり、許せないと思ってしまうことが、たくさんある。

でもよくよく考えると、この構造は、自分で自分を縛っているともいえる。本来、過去どうだったか、どんな体験をしたかと、未来にどうありたいかは関係がないはず。僕たちはよく、「軸は何か」「ぶれないものは何か」「自分自身は何者か」と問うてしまいがちだし、その答えを過去に見出そうとするけれど、本来、そこは自由なのではないだろうか。

タイトルを「時間の奴隷」としたのは、本来自由なものに、自分たちが縛られているという意味で書いた。過去とどう付き合うかは選択ができるはずなのに、過去積み重ねてきた、体験や感情の枠内で、自分を定義してしまう。

1つ目の意味での時間は、人間には変えられないが、2つ目の意味での時間からは、人間は脱せることができるのだろうと思う。そしてその道中にあるのは、「許し」なのだろう。

過去の自分への許し。他者への許し。歴史への許し。聖書では、人類自体が罪(原罪)を持っているとされているけれど、人類存在への許しが、最後に辿り着く場所なのだろうか。

この許しは、人類が存在する限り、課題として残り続けるのかもしれない。まずは自分自身から、このテーマを持って日々を過ごしてみたい。

ここから先は

0字

芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?