見出し画像

つくる時間。うけとる時間。うまれる時間。

企業と協働した、アートとテクノロジーを組み合わせた、新しい光探索プロジェクトが一山越えた。結論から言うと、想像のはるか先まで辿り着いた。100点満点で、500点出た、という感覚だ。

事前に誰も想像できなかった景色が、具体的な光の体験として顕れた。それを終えて、いま僕は虚無の中にいる。まったく使い物にならない。究極のポンコツ状態。何かを探しに歩いても、なぜ歩きだしたのか忘れている。歩いても、動いても、電車に乗っていても、ずっと眠い。緊張の糸が切れたのか、身体が完全オフの状態になってしまった。

とにかく、あまりにも色々な現実が連鎖的に起こった。起きたこと、気づいたこと、生まれたこと、これらが膨大すぎて、完全に脳の処理能力を超えた。思考の先の現実と出会えた瞬間ともいえる。

動的なつくる時間の先に生まれた、うまれた瞬間。いまは、その先の、うけとる時間に身を浸している。混沌かつ創造的な現実を、うけとることで精一杯だ。この、つくる時間、うまれる瞬間、うけとる時間は、探索や創造行為にとって不可欠な時間だろうと思う。

創造的な人生を意図する中で欠けてしまいがちなのは、この行き来であり、それぞれの異なる時間に身を深く浸すことかもしれない。例えば、感じることが得意な人たちがいる。世界中から受け取ることがたくさんあり、インスピレーションがたくさん湧く。ただ、実際にはいくら受け取っても、作る意志をもち、手を動かし、足を動かさないと創造物は生まれない。E = MC^2 であり、エネルギーは質量に転化するが、そのためには膨大なエネルギーが必要となる。

また逆に、つくる時間、ばかりを持つ人も多い。それ自体がなんの意味を持つのか、そもそもまったく違う選択肢もあるかもしれない。うけとる姿勢を持ち始めると、自分の想像とはまったく異なる解釈や意味が生まれる余白ができる。それに気づくきっかけが失われてしまう。

僕は基本的に、うけとる時間が多いし、うけとることが得意だ。ただぼくの元々の課題は、このうけとった何かを抽象的な思考や言葉でしか扱えなかったこと。それが、つくる時間を持つようになったことで、うけとるととつくるの好循環が動き出した。

興味深いのは、つくることで、実はうけとれる量も増える関係性にあったこと。つまり、つくる時間とうけとる時間の間の、自身の無意識の偏りを認知しながら、苦手な方の時間を意識的に取ること。そして、この全体の創造の循環を増やすこと、それが生まれてしまう瞬間、にたどり着くためには必要なことなのかもしれない。

ここから先は

0字

芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?