創造的に生きるための、発達の段階仮説
人の発達を考えた時、多くの人が辿るようにみえるプロセスがある。
一つ目が、感情の発露だ。人生で何らかの体験が積み重なり、感情をそのまま感じることが困難になっていく。痛みや悲しみといった負の感情は特にそうだ。男性はそれをそのまま出すと弱みとして社会的に受け取られるし、女性も精神的に不安定な人と見做されやすい。
不安定さ、弱さ、これらが社会的な価値づけと紐付いた結果、感情は抑圧されていく。しかし当然、感情は抑圧してもなくなるわけではない。抑圧の限界を超えると、その蓋は暴発する。時にそれは病や身体症状として出るし、また外部の人との不都合な人間関係として表出する。
コロナ後、このレイヤーを支えるサービスがとても増えている印象がある。爆発的に増えている多くのコーチングサービスの根幹の一つもここにある。マインドフルネスやNVCなどももっと深いレイヤーを扱っているが、その入り口としての感情の発露が重要なことは変わらない。
二つ目が、表現への欲求だ。一つ目の感情への発露や、快不快といった感覚に鋭敏になると、止めようもないほどの違和感を感じ出してしまう。感じないように生き、積み重ねてきた現実に対して、違和感は爆発する。そうすると多くの場合、表現をしたくなる。言葉としては、人のためではなく、世界観を表現したい、また純粋性を大事にしたいといった、内的な感覚を突き詰める方向に向かう。
そして、実際に多くの内的変容を迎えた人たちが、絵を描き出したり、歌を歌い出す。僕がアーティストになると決めた2018年時点では、後天的にアーティストや作品を作る人なんて見たこともなかったが、明らかにそういう人が増えている。とても素晴らしいことだと思う。
三つ目が、創造への欲求だ。感情がある程度発露すると、自身の情熱のようなものに触れざるを得なくなる。生命の源と呼ばざるをえないような、何かである。他者の評価から得るものではなく、自身の内側から、理由もなく湧きで続ける泉のようなものだ。
表現への欲求の部分で、人のことを考えずにとにかく一度表現しきり、受け取られることを体験する。この表現の本質は、相手に受け取られないとしてもそれを表現し切ることにある。それまでは相手に理解され受容されることしか表現できなかった人が、自身の本質そのものを表現できるようになる。
これは本質的な変化になる。それまでは、頑張って、頑張って、自身の情熱をきりとり、社会や人に理解される形で編集し、その一部だけを出せていたものが、その人の生それ自体を表出できるようになるのだ。この切り取りと編集に、人は疲弊しやすい。だから、みな、疲れてしまうし、やりたいことをやっていても、何をやりたいのかわからない、となってしまう。
理解されなくても、否定されても、それでも私にとって大切なものは大切だから、と表現し切れるか。実はこれは、自己愛への問題でもある。そしてこれらを表現し切ると何が起こるかというと、逆説的だが、すべてのことに世界観を注入し切る必要のなさも感じるようになる。
一つ目と二つ目は、自己を追求する行為だ。ほとんどの人はこちらの営みが育まれていない。現代は、人のために生きることと、自己を追求することのバランスが異常に悪い。
しかし、自己を追及し、表現する営みが健全に育まれると、自分として表現したいこと、他者のために表現したいこと、その淡いにあるものを、淡々と観察できるようになっていく。結果、内的な世界観の表出も含みながらも、改めて人や社会のためになる創造行為に意識は向くようになる。意識が外から内へ、また外へと、振り子のように変化していく。自分のためでもあり、人のためにもなってしまうこと。この情熱が、創造への欲求となる。
この三つの欲求(モード)は、多くの場合、この順番を辿るのではないかというのが僕の仮説だ。だからこそ僕は、創造的に生きるために、まずいろんな人が個展やアーティストとしての活動をすることを推奨している。それは、その先に、人のためや自分のためを超えた、純粋に創造したいものや、創造すべきものと出会えるからでもある。
表現自体が目的でもあると同時に、その人の人生を通して創り出すべきものと出会うための手段とも言えるのだ。これは本当に幸せな生き方だと思う。世界観に共鳴する人と出会い、そして未来を創造していく。出会う人の質が変わり、現実が変わり、生まれるものの質も変わる。
感情の発露、表現への欲求、これを経た人には、どこかのタイミングで、生まれてしまう瞬間がやってくる。そう僕は信じているのかもしれない。
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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