分からなさとあり続ける力

昔は、すべての事象に結論を出せると思いこんでいた。

大学時代、一緒に話をしていた女の子が急に泣き出したことがあった。何をこれからやっていきたいのか?みたいな話をしていた時に、激づめをされているように感じたのだという。当時の僕は、論理以外の世界が存在することが分かっていなかった。言い換えると、理解できる世界しか存在せず、その外に、膨大に理解できない世界が広がっていることを分かっていなかった。

あれから15年が経った。僕ははたして、成長できているのだろうか。成長とは何か、と問われた時に、ここでは、「わからなさとあり続ける力」と定義する。

例えば、禅問答か何かで、「あるようでない。なるようである。」という何を言っているかわからない文章と出会ったことがあるが、論理という一次元で見るとそうだが、この文章が正しい次元もあるのである。

一見すると、対立・矛盾するように見える構造も、実はそれはある特定の次元(側面)から見た景色に過ぎず、違う次元から見るとまったくもって違う景色が見えることがある。

一般に、わからない、というとき、それはその事象が理解不能という意味ではなく、今の自分の思考体型から見た時に、「理解できない」ということを言っているに過ぎないことが多いように思う。だから、わからなさといつづけるとは、対象そのものを見ながら同時に、その対象を見ている自分の「世界の見方(=世界観)」を同時に観ることに意味がある。

そしてあるとき、「あっ」と閃く瞬間がある。これは、構造矛盾に見えていた世界の中で、そうではない新しい道筋の光みたいなものが見えた瞬間とも言える。

これが、僕の欲する、世界を理解するという行為であり、少し表現を変えると、構造を見出す行為なのだろうと思う。

しかし、である。やはり自分自身が、強い二元論に侵されてしまっているし、その構造の中、答えを出さず、留保し、ただあり続ける、ということはまだまだ出来ていないと実感する。すぐに答えを出そうとしたり、結論を出そうとしてしまう自分の癖に、それが表れている。

その時、自分の器の小ささを感じる。もっともっと、わからないものをわからないままにしておけるようになりたい。静けさの中に静寂を求めるのではなく、混沌の中に静寂を見出すことの出来る自分になりたい、

生きるとは、なんと偉大なことかと思う。このようなプロセスを通し、世界を見ていた景色そのものが変わってしまう。そしてそこには必ず視野の盲点が存在するので、結果的に、その先には新しい可能性が膨大に広がってしまう。

そういえば、大学時代に、何をしたいのか、と問われて、「わからないこと。むずかしいこと。あたらしいこと。が好きです。」と答えたことを思い出した。

そう、わからなさとの出会いとは、一見するとその難しさを通して、あたらしい何かかとの出会いを楽しむ行為でもあるのかもしれない。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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