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裸足で歩く。

昨日、12km 17,000歩歩いた。

僕は、葉山という海と山に囲まれた場所に住んでいる。多くの人は車を持っているけれど、僕は車も自転車も持っていない。息子の幼稚園への送り迎えも、バスと徒歩だ。

なぜかというと、歩きたいから。今日も逗子で予定があったのだけど、時間があったので、歩いて移動した。片道3〜4kmあったが、歩いた。行きは靴を履いて、帰りは途中から裸足で。

最近、裸足で歩く時間を増やしている。海岸の裸足は、気持ちがいい。裸足で砂浜を歩き、海に足を入れていると、身体のみならず、気持ちまで磨かれている気持ちになる。山道も気持ちがいい。一歩一歩、大地のひんやりした感覚を感じ、大地を踏みしめている感覚を味わいながら、歩く。

一方、裸足で歩くのは、しんどい。ちっちゃい石を踏むと痛い。特に山歩きの下りはかなり痛い。一歩進む度に、いろんな小石が足にめり込む。この地球には重力があったんだ、そんな当たり前のことに気がつく。

靴を脱ぐだけで、身体と地球との接点が、何十倍にもなった気がする。実際、靴というのっぺりした平面的接触から、たくさんの石の刺激を足裏全体で感じる多点的接触になるから、部位として何十倍も刺激を受けているように思う。

ただ、裸足で歩く。それだけで、今まで住んでいた場所が全然違って見える。この世界をいかに見ていなかったに気がつく。

息子と歩く。息子はとにかく虫を見つける。僕には、単なる道や、雑草の塊にしか見えないところで、どんどん虫を見つける。息子はそこに生き物がいると思っているから生き物がいる。僕は生き物がいないと思っているから生き物がいない。

息子の見ている世界は、いかに生き物で溢れていて、僕の世界はそうでないのかと気がつく。

何を言いたいのかというと、世界を変えるのも大事、でも同時に世界をどう見えるのか自体が変わるのも大事ではないかということ。そうすれば課題の捉え方自体が変わっていく。

僕は社会を変える人に憧れがある。僕はそこに自分のいのちをかけることができない。だから僕は違う道を歩みたい。人が、この世界を、宇宙を、より微細に、繊細に、感じることができるように。芸術と場を通して。まずは自分自身から。

そんなことを考えた、今日の裸足の散歩の時間だった。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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