見出し画像

映画「アネット」-親ガチャミスっても無問題-

色彩の暴力

昔、漫画家の楳図かずおの家をそう言って訴えた近隣住民がいた。
勿論、棄却されたけど。
彼のトレードマークの赤と白のストライプが人の目を引くことは確かだよね。
人の目を引く色が暴力だって言えるならこの映画も暴力が満載だ。
勿論、いい意味だけど。
だから今回は色彩と、監督が「父となってからの映画」と言った事について考えてみた。

原色戦隊vs中二病ブラック

この映画は皆やたらと原色の服を着たがる。ヘンリーはダサい緑のバスローブ。
アンは黄色セーターや赤の水着。夢に出てきたヘンリーを訴える6人の女性も映える色を着ている。

服だけじゃなくて肌の色もなんかヌラヌラしてる。特にセックスシーンは生々しい。
この映画の色の強調は、黒に対する抵抗なんだと思う。
「黒」と言えば、思春期の男子が着たがる色ナンバーワン。何故なら「夜」とか「死」を連想させ、かっこよく感じるから。
この映画での黒も夜と死を連想させる。アンも死んだあとずっと黒かったよね。
僕が印象に残ってるのは、ヘンリーがバイクに乗って夜の闇の中を走るシーン。ヘンリーの体からなんだかオーラでも出してるかのように薄く発光して、闇を押しのけるように疾走する。このヘンリーから死への抵抗を感じたのは僕の妄想なのかな?

あと、セックスのシーン。
リドリー・スコットの「最後の決闘裁判」に続いて今作もアダムドライバーの引き締まったケツを拝める。
でもこの二作のアダムが演じるセックスの内容は全く違う。今作では夫婦の営みや性愛。つまり子作り、命を作り出すセックスだ。死とは真逆の位置にある生。
生への願望はまた別の効果をもたらしてる。

ピノキオとアネット

この映画はギョッとするシーンが多い。冒頭のシーンも、アンの死の直前でワルツを踊るのも異質さを感じる。
でも一番はアネットが人形だった事だよね。でも映画の世界では人として扱われている。子供は大人の操り人形って認識。人形=子供が了解されてる世界。
アネットは歌える事でヘンリーから搾取される。そして歌える事自体もアンのヘンリーに対する呪いとして付与される。
ヘンリーは最後のシーンで「アンだけは違う」とアネットに言っていたけど、アネットは取り合わない。
ヘンリーもアンも結局はアネットをダシにしてたわけだけど、その理由は舞台の主役争いでもあり、生への執着でもある。
ヘンリーは最後に何度も「時間がない」という。それは、面会時間の事と同時に人生の残り時間でもある。

どんなに望もうとも主役は題名にある通り「アネット」で彼らじゃない。
アネットは両親を見捨てて去っていく。人間の姿になって。
アネットはピノキオとの類似点が多いけど、親との関係性は真逆だ。
ゼペットおじいさんを助けることで人間になるピノキオと、両親から離れることで人間になるアネット。
悲しい終わり方に見えるけど、アネットを主人公と考えれば、これはハッピーエンドだ。
悲しく感じるのは僕らがヘンリーやアンの立場で見てるせい。
子供は親に感謝して巣立っていく」って常識。親は子供にとって良いものって常識を覆す終わり方。
これは監督自身が13歳で改名した事と関係があるんだろう。
面白いのはこれを自分にも適用してる事だと思う。
映画の冒頭には仲良さげに監督と娘が映ってるけど、その冒頭のラストは「それでは始めます」のセリフに「始めるな!」と返して終わる。
始まれば終わってしまう。いつかは娘が自分を見捨てて去って行ってしまうから。


Tips

現実と虚構
アンの演劇でステージから森に迷い込むシーン。現実から虚構への移行がスムーズなんだけど、どっちが虚構なんだろう。行き来しやすさは何を演出してたんだろうか?

対立構造
演劇とお笑い、車とバイク、死ぬ側と殺す側、黒と原色。
この対立構造なんだろ?



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?