「評論家」の意義とは
映画をみる
昨日久しぶりに映画を見た。「マイインターン」という映画で、鑑賞後はとても前向きで温かい気持ちになって、見てよかったと思った。そして、なんとかして「この感覚を残しておきたい」と思い、レビューを書き始めた。
元々、見た映画の記録として映画メモを書くようにしている。はじめは点数をつけたり、あらすじなども書いていたが、やめてしまった。理由は、あらすじを書くのは面倒であること、そして「批評する資格があるのか」と思って点数もつけることをやめた。
レビューを書き始めたが、筆が止まる。
「これを書いて何か意味があるんだっけ?」
思考が止まり、筆が止まる。この問いに答えを出さない限りは、前に進めないと思い、このnoteを書くことにする。
結論から述べるが、自分の解釈は次のようなものだ。
「評論家」の役割とは
僕が思うに評論家の役割は、「映画の新たな視点を提供し、素人がより映画を楽しめるように、そして作り手がより良い作品を作れるようにする」というものだ。
映画を例に話を進めるが、映画において関係者は3つにする。映画の作り手、大衆(映画素人)、映画評論家の三者だ。
三者の「映画の知識」に関してベン図を書くと、以下のようになる。
作り手は「映画の知識に加えて、作り手にしかない経験、視点がある」。
評論家は「大衆よりも映画に詳しい人」、そして大衆は、大部分がこのエリアに該当するが、「映画に関する知識がない人」である。
「大衆」と「評論家」の線引きは難しいが、「報酬をもらっているかどうか」というのが分かりやすいだろう。報酬をもらっているということは、基本的に「誰かにとって価値がある」ということ。
映画を見る人はほとんどは大衆
映画はエンタメ商売であるがゆえに重要な点がある。それは、「映画を見る人の大半が大衆」であるということだ。
一旦、作り手:評論家:大衆を1:3:96としよう。この数字に根拠はないが、感覚的にこんなものかなと思っている。
つまり、「映画は大衆に理解されなければならない」ということ。もちろん客層をしぼったニッチな映画はあるが、それらに関してもこの原則は変わらない。しかし、この原則を放棄する自由もある。
この原則において考えると、評論家の役割が見えてくるのではないか。
「第三者的に映画を語れる人」
評論家とは、「第三者的に映画を語れる人」である。これは、客観的に評価できることを意味する。
その映画の作り手は、自分の可愛い作品ゆえにバイアスが発生する。また、作り手のプライドゆえに「すべてを言語化して伝える」ことにも抵抗があるだろう。そして、大衆はその無知ゆえに語ることが難しい。
だからこそ、「客観的に評価すること」に価値が生まれる。
大衆は、評論家から「映画の知見」を得ることで、より映画の深みに触れて、一味違った体験ができるようになる。
作り手は、評論家から「客観的な視点、新たな視点」をもらい、自分の知見を広げて、つぎの創作の糧とする。
創作+評論で創作が進歩する
作品を深い視点で評価する人がいるからこそ、作品は発展する。良し悪しを言語化することで、それはストックとなるからだ。
大雑把な感性だけでは、改善に繋がらない。ミシュラン3つ星とスガキヤを食べて、両方を「おいしい」という大きな箱に分類していると、ミシュランの存在意義がなくなる。
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参考になった記事
いくつか参考になった記事があるので、紹介しておく。
しかし時として、評論家がリスクを取ることがある。新しいものを見いだし、それを守る時だ。新しい才能、新しい創作に世界は冷たい。新しいものには味方が必要だ。
それ以外のプロ評論家の役割としては、読者や観客に「より大きな文脈」を示すことが挙げられます。作品というのは積み重なった文脈の上に成立していて、どの層で解釈するかにより色々な見方が出来ます。
批評家の良さは、作り手が濁すところを言葉に置き換えるところだ。何が新しいか、どの辺がどう面白いかを言葉にする。
すごい批評家のすごさは、作家自身にも「そうかも」と思わせるところにある。つまり、優れた批評家は、作家自身が言語化していないこと、無意識にやっていることまで言語化する。
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