この世界は公正か?

映画やドラマなどを見ていて、極端にどちらが幸せもしくは不幸せになるのはあまり納得できない。このようなご都合主義では、タイミングや運は操れるものなのだ。まあそもそも創作物だから当然なのだが。

現実でご都合主義的な展開はほとんど起こりえない。したがって、ご都合主義的な展開をすることはリアリティから遠ざける行為であり、使用される場合は意図的な場合がほとんどである。つまり、そこにはリアリティよりも描きたいものがあるのだ。

ご都合主義の亜種として、ヒーローが善人として描かれすぎていたり、もしくは悪役が悪いものとして扱われる、というのも該当するのではないかと思う。「よく考えたらやっていること自体そんな変わらなくない?」「悪を成敗する過程で犠牲だしすぎじゃない?」とか気になってしまう場合もある。

極端に描かれると、そこに世界の歪さを感じてしまう。というのは、実際の世界をある程度公正・公平なものだと思っているから。ただこれは「実際にそうだと思っている」わけではなくて、「そう思った方が有益である」という側面が大きいと思う。そうでないと極端に言えば、頑張ることも、ルールを守ることさえもしなくなるのではないか、と思う。

それをメタ認知できていない場合、それは認知バイアスであり、公正世界仮説とも呼ばれる。

「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。

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たいていの認知バイアス精神を保つ防衛手段として機能していることがほとんどである。公正世界仮説の場合は、世の中の理不尽さを軽減することで精神的な安定を得ることができ、努力すれば報われるというポジティブな幻想を抱くこともできる。そもそも行動を起こさないと結果に結びつかないことを考えると、便宜上価値があるように思う。

ただ一方で、注意すべきこともある。それは極端な自己責任論や僻みに繋がりやすい、ということ
公正世界仮説は完全に認知の誤謬であり、すべての人が同じ字事象や環境で生活しているわけではない。貧富や才能の差は確実に存在しており、覆せないものも多い。加えて、「基本的な帰属の誤り」と言われるバイアス(他人のミスは自己責任、自分のミスは外部要因)により僻みは具体的な誹謗中傷に繋がりやすい。やっていることはただの誹謗中傷であっても、彼らからすればいわば「世直し」であり、世の中に公平さを取り戻しているとても尊い行為、に思えているのだろう。

快刀乱麻を断つような解決策はないものの、常に相手の立場を気に掛けることによってある程度真実を取り戻せることに繋がる。

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