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【自己紹介】僕の歴史について

会社が休みだったので、久しぶりにグダグダとnoteを更新します。

僕は最近POOLOという200人近く所属している「旅」のコミュニティで、人生が変わるぐらいの様々な刺激を受けていて、正直、仕事が二の次になるぐらい日々充実しています。

6月からPOOLOが始動して、当初は「面白そうだなー」という軽い気持ちで入ったのですが、今は明確な目標も出来てきて、有難いことに自分が中心となって興しているイベントも8~10月の期間はすごく増えてきているので、今後はPOOLO見聞録にも活動の記録を残させていただく予定です。

僕は普段旅行会社でオーガナイザー向けの営業マンをやっていますが、仕事においてもプライベートにおいても、対話で心がけているのは「自分のことを話す」ことです。(本当は話聞くほうがめっちゃ好きです。)

そんなことを思えるようになった“今”の僕は「人」に変えられて構成された人間ですが、「人」に一切の興味がなかった頃の僕の話を少しさせてください。

今のベラベラ喋りまくる僕を見てもらった上でこの話をすると100人中99人ぐらいに驚かれるのですが、僕は12歳から25歳まで「人」が嫌いでした。

というより、“ほぼ”興味がなかった、と言ったほうが正解になるのでしょうか。


◎僕のヒストリーについて

●12歳~17歳

中高一貫の進学校である私立暁星学園に通うも、周りが天才揃いのバケモノばっかりで、自分が学力的にたいしたことない人間であると偏屈な考えに陥り、文字通り落ちこぼれる。
野球部にも入ってて二塁手のレギュラーだったけど、コミュニケーションが下手過ぎて二遊間を組んでいた頃の相方である哲学的な思想の遊撃手、S君だけが6年間で唯一の友達だった。今思い出してみれば、価値観の相違で色々な同級生と喧嘩していた気がする。

読書を年間300冊ぐらいする典型的な陰キャで、授業中も常に読んでいたものだから、英語の授業中に外人教師のピエールに読んでた本を取り上げられたときは机を蹴っ飛ばしてめちゃくちゃブチギレた。普通にやべーヤツ。
ちなみに、東野圭吾、伊坂幸太郎、重松清、阿部夏丸、遠藤周作、荻原浩あたりはほぼ全作品読んでいたと思う。

常に周りの流行に反発していたので、オレンジレンジやRADWIMPS、GReeeeNが周囲で流行っている中、僕はiPodで70年代邦楽(オフコース、チューリップ、ザ・フォーク・クルセダーズあたり)を聴いていた。

高校からは完全に勉強も辞めてグレたので、ネットゲーム(当時流行っていたハンゲーム、メイプルストーリー、スカッとゴルフパンヤ、モバゲーなど)と深夜アニメにどっぷりハマった。確かチャットツールを濫用してネカマとかもやってた。うん、頭おかしい。

●18歳~19歳

当時は体が強くなく、過換気症候群といういわゆる「パニック障害」を暫く患っていたので、日常生活をまともに送れていなかったこともあり、そもそも大学進学というものは考えていなかった。
あとは普通に両親に反発していたので、自立して何かをしたいという思いで15歳の冬に石川県金沢市へ一人で旅をした(当時は北陸新幹線がないので、在来線で片道5時間近くかけて行った)のだが、それきっかけで「旅」に目覚めた。

とりあえず「旅」を出るにしても稼ぎがないと何の意味もないので、自分でライターの副業を始めたり、地元のさいたま市岩槻区でホームセンターのアルバイトもやってみた。

実はこのアルバイトが第1の転機だったのだが、自分の人生において初めて“親友”と呼べる同い年の同僚が3人出来た。なぜ“親友”になれたのかはよく覚えていないが、多分初めて「人に気を遣わない」「何でも自分のことをさらけ出せる」ということを覚えたからだと思う。
結果的にここのアルバイトの同僚である女の子と2018年の春に付き合ったりもした(1ヶ月で別れたけど)のだが、男子校に6年間通っていたのがモロに出て、異性とはまず喋れなかった。

この“親友”3人には今でもすごく感謝しているのだが(よく愛想を尽かされなかったなと本当に思う)、当時の自分が神経質すぎてすぐイライラする人間で、他の同僚とは死ぬほど大喧嘩したこともあったし、とにかく自分のそんな性格もあって人と関わることに対して何のメリットも感じることはなかった。だからライターの副業は一人でやってる分すごく楽だったし、「旅」も基本的に人に気を遣わずに済むよう一人で出ていた。

当時はSNSもやってなかったから、「旅」の発信とかにも興味なかったし、多分ただ自分に酔うためだけに「旅」をしていたんだと思う。でも、この2年間で旅を含め、野球、音楽、アニメ、麻雀など、今の自分に繋がる趣味はありったけ自分に取り入れていたので、すごくいい期間だったなーと思ってる。

●20歳

さいたまスーパーアリーナで成人式が行われるも、地元に前述の親友1人以外の友達が誰もいない(あとの2人は春日部在住)ことに改めて気づき、私服で適当に出席してから急いで飯田橋へ出かけて暁星高校の成人ミサ(カトリックの学校だったので基本的にお祝い事はミサ)に出席するも、当時のクラスメイトたちから「誰だっけ?」と普通に言われまくり、いたたまれない気持ちになる。

唯一の友達であった遊撃手のS君は不参加だったのか見当たらず、ミサで「いつくしみ深き」などの讃美歌を歌い終わってからこっそりその場から逃げ出し、そのあと誘われていた小学校(東京都日野市)の同窓会に向かうことにした。

しかしそこでも幹事のI君から「やっぱ中学の同窓会の予定入ったから今回はなしで」とドタキャン宣告を中央線で最寄りの豊田駅の手前、立川駅あたりで受け、他の同級生にも電話が繋がらなくなる。

とりあえず幹事のI君を殺す計画でも立てようかと思ったが、それ以上にあまりにも自分が「人」に恵まれていないことに気づかされ、色々な人の連絡先をブロックしながら、最低の気持ちのまま地元のさいたま市へ戻った。

異性恐怖症が治ったのはこの成人式のあとの出来事(遠距離恋愛)だったのだが、これは話すと長くなるので、興味があったら個別で聞いてください。

●21歳~22歳

「旅」の話は深くする必要もないかと思うが、18~21歳で日本列島をひたすら回っていたので、この時点で45都道府県周っていた。(残っていた鳥取県と島根県は社会人になってから渡った)

特に上では書いていないが自分は18~21歳の期間に様々なことを一人でやってきたので、ある程度(料理、釣り、パソコンなど)のことが特技として出来る人間になっていた。一人旅、一人カラオケ、一人焼肉、一人回転寿司。この辺は色々試してきたので、何の抵抗もなくなった。
B'zの「ALONE」を1日で100回聴くぐらいにはバグっていたので、とりあえず余生も一人で何でも出来そうな雰囲気はあった。

しかし、あまりにも勉強から離れていたので、また勉強をしたい、手に職つけたいという思いで、自分が好きな「旅」を極める為に東京観光専門学校という同じく飯田橋にある専門学校に通い始めた。

ここでは「自分を変えよう」と広く浅く様々な人と付き合っていたので、在学中は自分の立ち位置を確立するという意味ではまあまあ安定していた気がする。総合旅行業務取扱管理者という国家資格を取る為に入学したようなものだったが、それにしてはプラスの要素が多かった。
オープンキャンパスにスタッフとして入り、自分の知識や経験を有効活用して新入学を志す生徒を何人も入学させたし、素晴らしい先生方(何人かは今でも付き合いがある)にも恵まれた。

でも、卒業してから自分が主催した同窓会に、参加表明していた内の半分ぐらいがドタキャンをしたことで、「やっぱ浅く付き合ってた人間なんてこんなもんか」と色々悟った。そこからは付き合う友人は限りなく絞って、今では40人から3人ぐらいになった。

オープンキャンパスや後輩の授業などに僕をジョインをさせていた学年主任の教員からは卒業後に「お前なんてただの駒でしかなかったんだよ」とSNSで侮辱をされ、色々と人間関係について諦めがついた。


●23歳~24歳

旅行会社に営業社員として入社して、オーガナイザー向けに団体旅行を提案する部署についた。上記のような出来事も多々あり、人間関係についてはもう深く考えないようにしようと思っていたので、入社後も顧客とは一定の壁を作りつつ、個人の日本制覇をしたあとは海外に出て、一人旅を続けた。

営業も添乗員も「人」と関わる仕事なのに、我ながらそつなくこなせはしていた。営業の仕事は「人の話を聞くこと」と「信頼関係を築くこと」だったが、自信がないなりに、独学で人との対話の仕方を勉強しながら自分の知識を駆使して“付加価値”をつける作業をひたすら繰り返した。

2年目ではとんでもない成績を叩き出して、会社からはこっそり表彰された。

でも、過去の経験をずっと引きずっていて、どこか「人」に対して不信な気持ちは常にあるというか、やっぱりこれはこの13年間で自分という稚拙な人間が勝手に作り出していたトラウマだったんだろうなと思う。

「人」に裏切られ続け、「自分」に自信がついてきたからこそ、人間不信が止まらなかったんだと思う。

●25歳

2019年3月。
僕はこの3年間、仕事上で信頼関係を築いてきたと思っていた顧客から信じられない侮辱を受け、いよいよ精神的に病んだ。(自分が忙しすぎて間違えてしまった部分もあったのだが、それにしても「人」が「人」に言う台詞とはとても思えないことをSNSに羅列された)

寝れない、嘔吐が止まらないの連続だったので、さすがに病院に行こうと思い、18歳のときに「パニック障害」を患っていたときに診てもらっていた越谷市の精神科の医師にかかり、「抑うつ(鬱病)」と診断された。

結果的にこの経験が僕を大きく変えたわけだが、この時は実は全てを放り投げてどっかに逃げ出そうとも考えていた。

「何でこんなヤツらの為に今まで一所懸命3年間もやってきたんだろう…」と思ったし、学生時代、会社員時代の楽しかったことや充実していたこと、悲しかったこと、辛かったことの思い出がフラッシュバックして、「僕という人間は一体何だったのだろうか」「こんなに人間関係で躓き続ける人生に意味があるのだろうか」と3日間ぐらい考えまくった。

そんな悩ましき僕を変えてくれたのは当時の会社の上長だった。
僕は精神科の医師からもらった「2週間休職せよ」の診断書を上長に見せたわけだが、彼は「会社においで」「話そう」と言った。

その時の精神状態はとても自己制御出来るものではなかったし、「人」を信じられる状態でもなかったから、当然のことながら不信感しかなかったわけだが、彼のその次の言葉が僕の人生を大きく変えた。

松澤くんはいつも抱え込みすぎ。会社に“働きに来る”のではなく、“人と話しに来る”感覚でおいで。面談の時間もとるよ

僕は頭が真っ白の状態で、普段からとてもよくお世話になっていた上長のその言葉だけを信じ、次の日から早速会社に向かった。

多分思考も死んでたと思うし、記憶も定かではないのでハッキリとは覚えていないのだが、当然のことながら仕事には手がつかなかった気がする。

有難いことに、本当に上長がその日のうちに忙しい中4時間近く僕と面談をしてくれて、僕という人間がどういう人間なのか今後どうするべきなのかを色々と教えてくれた。

僕はそのときにしっかり気づいた。
周りにいい人たちは実はいっぱいいたのに、それに気づかず、特定の人ばかりに神経を使ってひたすら嫌いになって、嫌いになって。

僕は知らず知らずのうちに、「人」と話すことに対して恐怖を感じるようになっていたのだ。閉鎖的に、殻にこもって、しかもそれが別に苦でもないという深刻な状況に陥っていることに全く気付かず…。12歳から25歳まで空白の時間を過ごしていた。

また、自分が何かをしでかすのではないか。
また、相手が裏切ってくるのではないか。

心の奥底では、常にこんなことばかり考えていた。

だからこそ、営業の仕事で壁を作って表面上のみの付き合いをすることに対しては一切の抵抗もなかった。「本当の自分」を出すことが嫌いで仕方がなかったんだろう。

その上長の言葉を受けた後、今まで話したこともなかった同僚や先輩と自らすすんで話し始めた。その作業は非常に緊張するものではあったが、意外と心がスッキリしたもんだから今までにない感覚ですごく驚いた。

3年間同じ職場にいた人から「松澤くんってそんなに喋る子だったんだね」と言われてみて、「自分って意外と晒け出せる人間だったんだ」「もっと勇気を出していいんだ」と初めて気づいた。


同年4月。

Twitterで、株式会社TABIPPOが主催しているPOOLOというコミュニティをたまたま目にし、勇気を出して参加を押した。

「旅」の話がしたい、というのも動機の一つではあったが、会社という組織以外にも足を踏み入れ、こういったコミュニティで「自分をさらけ出す」ということを人生初めてやってみたいと考えたからだ。

やはりすごい人ばかりが集まっているのは何となく分かっていたから、そこに自分みたいな“陰”の14年間を送ってきた人間が参加していいものかどうかは悩ましいものではあったが、間違いなく、僕はこのコミュニティに入ったことによって自分が変わったことを実感した。

――人と話すのは、楽しい。

最初に上の方で話していたが、明確な目標もしっかり出来た。

①「人」と「人」を繋げる架け橋になりたい
②「自己成長」と「他己成長」の両立
③「広く深く」の付き合いをしたい

「人」に対してここまで悩んできた人間が、このたった半年の出来事だけで「人」と話したいどころか「人」を成長させたいと思うようになった。

これは、「人」あって「自分」だと気づけたからこその思考

会社の上長にも感謝だし、20歳のときに自分を見捨てないで今でも付き合ってくれてる親友3人にも感謝だし、専門時代から今まで繋がってくれてる友人にも感謝だし、僕みたいな人間についてきてくれてるPOOLOのメンバーにも感謝。

長くなってきたので、この辺でさすがに終わりたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


最後に。

TwitterやFacebookでも告知しましたが、10/14(月祝)に千葉県睦沢町の方でPOOLOで地域交流イベントを主宰させていただくことになりました。

詳しくは、下記Facebookまで詳細を見に来ていただけると嬉しいです。


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