雑記 「つれづれ」について

初めて『徒然草』を読んだ時、私は兼好という作者があまりに卑近で、触れられないとおもった。距離がある人ほど、笑顔を振りまいている。

20世紀を代表する批評家小林秀雄は、「徒然草」というエッセイの中で、兼好法師という空前絶後の批評家を見つめている。


兼好は、徒然なる儘に、徒然草を書いたのであって、徒然わぶるまゝにかいたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、目が冴え返へつて、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さを、「怪しうこそ物狂ほしけれ」と言つたのである。
(新訂小林秀雄全集第八巻 無常といふ事、モオツアルトより)

兼好は「つれづれ」を無視しない。「つれづれなるまま」なのである。

「つれづれ」の語源を辿るなら、学術的にいわねばならぬことは山のようにあるが、「しようにもすることのない、所在なさ」と多くの人は教えられてきただろうし、その意味で理解して特に問題はないと思われる。

私にとって「つれづれ」は消費するものに他ならない。
「つれづれわぶる」者である

では、なぜ「つれづれわぶる」のか。

『自分とは何か』という問いから、逃げるためである。
私は「つれづれなるまま」の狂気に正面から向き合うには、少々怠惰なようだ。


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