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「やっぱり教師を辞めて、よかった…」と感じた瞬間。手段のための手段づくりが好きな日本の教育現場

初めましての人は初めまして。松梅です。突然ですがあなたは、この記事内容をご存知ですか?

文部科学省は、公立小中学校に若手教員の指導にあたるポストを新設する方針を固めた。校長ら管理職を補佐する主幹教諭と一般の教諭の間に位置付け、給与も増額する。文科省の中央教育審議会でも議論されており、近く中教審が示す素案にも盛り込まれる見通し。ポストが新設されれば、2008年度に制度化された主幹教諭以来となる。

公立小中教員に若手指導ポスト新設へ、給与も増額…「主幹教諭」と「教諭」の間に ー読売新聞オンライン

要約すると
若手の先生を指導するために、新しく先生(ポジション)を用意する。
というものです。

まだ素案の段階なので実際に用意されるかどうかは執筆時点(2024年4月17日)では未定ですが、この発表を聞いて私は

「あぁ、やっぱり教師を辞めてよかったわ。」

って感じちゃいました。
すんません。


若手指導ポストについて元高校教師としての所感

初めての方もいらっしゃるかもしれませんので誤解なきよう先にお伝えしますが、私は元高校教師です。

講師時代も含めれば15年ほどは高校の現場で働いていました。
良くも悪くも高校の現場しか経験がないため、小中学校の問題は、研修やニュースで見聞きしている程度です。

それでも「若手の先生を指導するための先生を用意する」なんていう案が出てくるような日本の教育現場…というかそこを管轄するが、やっぱりズレてるなって感じてしまいます。

否定ばかりでは生産性がないので、個人的に思いつくまままとめてみました。

若手指導ポストを置くことで考えられるメリット

メリットはなんといっても、若手教員の働き方が変わることでしょう。
相談のしやすさが上がるといってもいいですが、やはり「若手担当教員」というのがいてくれるのは、かなり心強いと思います。

以前私の別記事でも提案しましたが、教師は(なぜか)初任者や未経験者に対する扱い・・が独特でです。

個人的にはこの問題が、「教師不足」や「教師の指導力低下」などにもつながっていると考えていますし、ボトルネックであるとさえ感じています。

若手教員の指導は、本来

  • 校長

  • 教頭

  • 主幹教員

  • 学年主任

  • 先輩教員

など、さまざまな教師が多岐にわたって(直接・間接問わず)おこなってきました。

そういった意味で、新たに「若手教員用の教員」とというポジションを作ることで窓口が一本化され、若手教員にとってはメリットがあるかもしれません。

若手指導ポストを置くことで考えられるデメリット

一方でデメリットは盛りだくさんです。中でも酷いなと感じるのが、「人手不足の助長」と「求められていないポジションとなりうること」の2つ

ただでさえ新年度に担任が不在となってしまうほどの教師不足・教師嫌いの昨今の実情を鑑みると、「若手担当教員」を用意しなくてはならないと言う喫緊度や優先順位は低くなります。

教頭や学年主任、先輩教師などが善意で行なっていたものを、あえてポジションを明確にしてやろうっていうわけですから。
早い話が、専任で用意せずに兼任・・できてしまうポジションかと推察できます。

そのポジションに必要な要件としては、(記事によると)これ。

経験8年以上の30歳以上の教諭から任命し、給与も増額している。

公立小中教員に若手指導ポスト新設へ、給与も増額…「主幹教諭」と「教諭」の間に ー読売新聞オンライン

給与の話を入れてくるあたり、「ただでは給料を上げたくないから無理やりポジションを作った」とも考えられなくもないですが、これは邪推なので割愛します。

中堅〜ベテランに相当する人たちを

  • 担任

  • 分掌長(教務部長や生徒指導部長など)

  • 部活動顧問(直接指導する要因というよりは責任をとる立場として)

これらの役割ではなく、若手担当教員として割り当てる。

当然ですが、学校運営に直結する役割から埋めていくはずですので、若手担当教員=指導員として割り当てられる人は

  • 能力の低い人(生徒や保護者の対応をさせるとまずい人)

  • 部活指導をしたくない人(残業などをしたくない人・できない人)

  • 優秀な人に兼務

このいずれかになろうかと思います。

教師のやりがいはご存知の通り、生徒の成長に携われることでしょう。
誰が好き好んで、教師側の成長・・・・・・に率先して関わっていきたいと考えるでしょうか?

ましてや30代〜40代という一番脂ののった・・・・・時期です。
もちろん教師は組織の一員でありチームで動きますので、同僚や後輩が育つことに協力を惜しまないでしょう。
しかしその業務を第一目標にして教師の仕事をしていきたいと考える人は、いないと断言しても良いです。

部活指導をしたくない人に若手担当になってもらうのも同様です。
「部活指導を免除する代わりに、若手教員を指導してくれ。」
こんな常套句が、近い将来聞こえてくるはずです。

  • 「先生を教えるために先生になったんじゃないんだけどな。」

  • 「部活かどっちか選べって言われたから仕方ないな。」

こんなモチベーションの人たちが指導員となってしまったら、誰も幸せになりません。

若手教師からすると、教えてほしい人からは教えてもらえず。
かといって教えてほしい人から教えてもらうとなると、その人の業務や負担を圧迫させてしまう。

このポジションの設立は、制度を開始する前から欠陥だらけのように感じてしまいます。

なぜこんなことになってしまうのか?

私個人としては、日本の教育現場には「悪しき考え」が蔓延っているからだと考えます。
手段のための手段を用意する、という考えです。

手段のための手段を用意したがる日本の教育

辞める前からずーっと感じていましたが、日本の教育現場は手段のための手段を用意したがります
これが本当にツラい。

「手段のための手段は、本質を見失いますよ?」と言い続けても、なかなか理解してもらえなくて、私は結局転職しました。
おかげさまで、毎日ハッピーに生きられる人生です。ありがとうございます。

「手段のための手段」ばかりを考えている人たちに囲まれると何がツラいか。ズバリこれです。

「やることが一方的に積み上がっていくばかりで、成果を振り返らない。(振り返れない)」
「その結果、やった気になっただけで成果が伴わない。」

これって結構深刻だと思うんですよ。

手段のための手段をあれこれ考えるのは、百害あって一利なし

話は少し戻りますが、「手段」や「手法」について私の考え(前提)を整理します。

手段は、目的を達成するために存在します。
さらに手段にしろ目的にしろ、人の意見や考えは「主観」と「客観」に分けることができます。
まとめるとこんな感じ。

意見や考えを分けるとこうなる

この2つの軸は、人に教える立場の「教師」であってもよくごっちゃにしてしまいます。

学校現場で例を出してみましょう。

生徒指導をおこなっている、とある教師。
感情(主観)先行で、ルールや規則など(手段)について、熱く語ってしまう。その結果、なんとなくわかった気になった生徒たちが量産され、一部の生徒たちは置いてきぼりに…。

こんなシチュエーションです。
これがまさに「主観で手段を語りまくって、全部をごっちゃごちゃにしている」例かと思います。

上の図で言えば、「左上の位置」であるべき内容(話し合い)が、その人の「こだわり」とか「経験則」とかによって「右下の位置」で話しちゃうイメージです。

「思いがあれば、生徒に伝わるんじゃ!」

このように考えているベテランであればあるほど、主観と客観の境目が曖昧になり、「自身(主観)の手段」こそがベストであると盲目的に信じているようです。

うまくいっていた過去がありますからね。一理あります。
それを信じてしまうのは無理もありません。

かくゆう私も、思いや熱がこもっていない言葉はどうしても心に響きにくいと感じていますから、それ自体に異を唱える事はありません。でも、手段はあくまで目的を達成させるために存在しています。
目的が明確になってこそ、手段が重要になってきます。

さらに言えば、その目的は「客観的にみて達成されるべき目的」である必要があろうかと思います。(すなわち左上の位置)

それなのにも関わらず、手段を徹底させよう・・・・・・と手段のための手段をあれこれと画策すると、かなりの高確率で客観性を失い、さらには目的までも見失います。
先ほどの図で言うと、右下に深く潜っていくイメージといえばわかりやすいでしょうか。

これが教育現場では結構あるのです。
最たる例は「校則遵守」。
校則は本来目的が別にあって、その目的を達成するための「手段」のはず。それなのにいつしか

「校則を守ることこそが、立派な社会人になるための第一歩だ!」

このような意味付け・付加価値がなされ、その価値基準をもとに学校が運営され始めます。
まさに、手段を達成するための手段。
そこに目的はおろか、客観性のカケラも存在していません。

若手指導ポストを置くのは、手段のための手段にしかなれない理由

若手指導のためにポストを新設する目的は、「若手教員の育成やフォロー」が目的でしょう。それ自体は素晴らしいことのように聞こえます。

ただし勘違いしてはいけません。
その目的と考えているものは、別の大きい目的のための手段でしかありません。

この場合で言うと「若手教員の働きやすさの改善」という目的です。

若手教員の働きやすさの改善を図る目的で、その目的を達成するために数多ある手段の一つとして「指導教員」を用意すると言うもの。
ではなぜ、働きやすさを改善すべきなのか?
「教師離れ」や「なり手不足」を解消する目的でしょう。

結局、指導教員を用意するのは、教師離れを食い止めるための「手段のための手段」でしかありません。
その証拠に、若手教員のための教員を配置して達成される目的は、どうやって図るのでしょうか?
満足度で図るのでしょうか?利用頻度で図るのでしょうか?
そして残酷なことに、そのいずれも「教師になった後」での話なので、教師離れやなり手不足の根本的な解決手段としてはかなり弱いです。

さぁ、大好きな「手段のための手段」を講じる時間がやってきましたよ。
やってる感が出るから、みんな大好きですよね。
あーでもない、こーでもないって言いながら。
策士、策に溺れる感がある感じです。

動き出したところで

  • いまいち成果が感じられない

  • 誰もなりたがらない

  • 結局利用していない

こんな感想が現場から溢れ出しそうです。
でも、効果の検証もろくにされません。
そもそも手段のための手段なので検証ができないですからね。やったらやりっぱなしの、教育現場のお家芸みたいなものです。

最終的に、再任用や天下り先としての「受け皿」として機能していくことになろうかと思います。


と、まぁ皮肉や毒っ気をたっぷりと書いたところで、この話は終わろうと思います。

私は転職してしまったので痛くも痒くもないのですが、我が子はそんな先生たちのお世話になっていくわけだし、こんな私にも後輩はそれなりにいました。

我が子はもちろん、後輩の彼ら彼女らが働きやすい教育現場であってほしいな、という願いを最後に込めておきたいと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました!
また次の記事でお会いしましょう。

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