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観覧車グラビティ 第10話 

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イチとゼロ

「あ、目覚めた? 意外と早かったね」
 胸元がざっくりと空いたキャミソールに、薄手の黒いロングカーディガンが目に入った。視線を上げていくと、濃いアイラインとボリューミーな睫毛まつげが特徴的な目の女と視線が合う。甘くて、鼻に重く残る香水の匂いがきつい。私は思わず顔を歪めた。
 目の前にいる女があのときの広報の女性だとは、なかなか気が付かなかった。
 まだ頭がぼうっとする。
 お酒を一口飲んでからの記憶が全くない。
「おはよう、日奈田」
 声のする方に顔を向けると、そこには彼がいた。しかし、私が知っている大塔くんの雰囲気とはなんだか違う。無造作ヘヤーといえば聞こえはいいが、髪型ひとつでこうも変わるのか? 今は彼から危険な匂いしかしてこない。

「確認しておきたいんだけど、日奈田ってどこまで知っているの?」彼が抑揚なく訊ねてくる。
「……」
「あ、ごめんごめん。テープ貼ったまんまだったわ」
 彼は「おい」と目配せをする。ため息混じりにめんどくさそうに、広報の女性が私の口元に貼られたテープを躊躇いなく一気に剥がした。細かな針が無数に刺さった時のような痛みが、口の周りを取り囲む。唇が倍に膨れ上がったような痛みだった。
「……なんで?」
「何が?」
「なんで、こんなこと」
 頬を伝ったのが自分の涙だと気づいたのは、唇に触れてからだった。
「それ聞いて、どうすんのよ」広報の女性が小馬鹿にしたような口調で、吐き捨てるように言った。
「もう一回聞くね。日奈田って、どこまで知ってるの? 6年前のこと」
「……6年前のこと? 月野先生の?」
「そうそう」切れ長の目にカッと力が入り、威圧するように見開いた。口元は、笑っているようにも楽しんでいるようにも見える。
「いや、私は何も」嘘じゃない。事故として報道された以上のことは何も知らない。お葬式のときも今も「なんで死ななくてはならなかったのか?」が頭から離れない。詳細を知りたいのは私も同じだ。違和感程度でいいのなら、さっきの飲み会あとに生まれた。「なぜあなたは、事故後の様子を聞かなかったの?」と。
「ふーん……じゃぁ質問を変えるよ。先生って誰?」
「え?」
「このメッセージアプリに登録してある『先生』ってアカウント、なんでこの先生って人に、俺との飲み会の報告をしているわけ?」
「それは……」最悪……私のスマホを勝手に。
 でも別に、先生を庇う必要は……ない……はずだ。
「……円山先生」
「円山先生? 誰それ? 高校の時の先生?」
 知ってる? と彼は広報の女性に目配せをする。広報の女性は両掌を上に向けて「さぁ」のポーズをしている。私はそれを横目で見る。
「その円山って先生と、日奈田はどんな関係なの? 恋人かなんか?」
「違う」私は咄嗟に頭を振り、目を見て否定した。
「うーん、これはホントそうだな」
「ってか、別にどっちでもよくない?」と広報の女性が彼に話しかける。めんどくさそうにしている様子が、彼女の顔を見なくても伝わってくるようだった。
「まぁ、そう言わないでくれよ。僕の同級生なんだ。しっかりと話し合いをしたいじゃないか」そういうと彼は穏やかな顔になって、広報の女性の元に歩み寄った。懐かない猫を愛でるような表情になったところで、私のスマホが、しゅぽん、しゅぽんと鳴った。
「お、噂をすればだね」
「なんて? その先生は」
 可もなく不可もない、と言ったところの内容だったのだろう。2回音が鳴ったきりで沈黙を続けている私のスマホと同じように、そのスマホを見つめる二人もまた、黙って注視していた。
「貸して」広報の女性が私のスマホを彼から取り上げ、両手で素早く何かを入力している。私のスマホに来たメッセージ、なんであんたが勝手に返信してるのよ。
「ね、直接聞いたほうが、早いでしょ?」
「答えてくれればだけどね」
「焦らされるの、嫌なの」

 しばらく静寂が続いた。すると、大した時間が経ったわけでもないのに、痺れを切らしたように大袈裟にため息をついて、スマホを操作し、電話まで始めた。

「先生って、名前何? 何先生?」
「あんたの名前を聞いてるんだよ」
「あんた、なんか今回の事件の事、色々と調べてるんだろ?」

 先生の驚いた表情が目にうかぶ。私と思って電話に出たら、これだもんな。同時に、チャンスだ、と閃いた。今、大声で助けを呼べば助かるかもしれない。その時だった。

「マジでうざいな、お前。一発で分かれって。ここに、このスマホの女おるし……日奈田だっけ。別にこっちはお前が言わないなら……」

 そう言いながら、広報の女性がこっちを見てしまった。
 タイミング同じく、彼も察したように、さっき剥がしたばかりのテープを床から拾って再び私の口元に貼り付けてきた。あちらからこちらにやってくる動作が滑らかで、その身のこなしを一瞬でも見入ってしまった自分が情けない。

 テープを貼り終えた彼は自分の人差し指を一本立てて、テープ越しの私の口元にそっとそえた。今度はウインクまでしてきた。
 以前の飲み会と似たようなシチュエーションなのに、こうも萌えないものなのか。助けを呼べない絶望と、息のしづらさから私の目にはみるみる涙が溜まっていく。
 目を閉じて涙が溢れる。
 少しでも多くの酸素を取り込もうと、胸が張り裂けるような程の勢いで、全神経を鼻先に集中させ、熱くなった息を肺に取り込む。

 テープを貼り終えた彼は、彼女と電話をかわり話し始める。程なくして電話を切ったかと思えば、私のスマホに何かを打ち込んでいる。打ち終えた後で彼は、私のスマホをぞんざいにテーブルの上へ放り投げ、そのままテーブルに置いてあったお酒を飲み始めた。

 私は涙が止まらない。悔しい。辛い。怖い。肩が小刻みに震えて、その揺れがイスに伝わってしまう。幸か不幸か床は畳のため、振動は吸収されて大きな音にはならなかった。
 何がいけなかったのか。誰のせいなのか。
 何かのせい、誰かのせいにしないと、私は自分の心を保っていられなかった。

 ◇

 どれほどの時間が経っただろうか。ここに来てからそんなに時間が経っていない気もするし、家で時計を見て「彼女に連絡すれば良かったのに」などと考えていたあの時間が、もう何ヶ月も前のようにも感じていた。

 コンコン、とノックの音が転がった。「僕です。円山です」そう声が聞こえると、小休止をしていたようにまた涙が溢れてきた。広報の女性が扉を開けると、そこには傘を持って立っていた先生がいた。
 頼りなさそうなおじさんが、こんなにも大きな存在に感じられたのは、生まれて初めてかもしれない。手に持っていた傘が鉄パイプならもっと安心していたかもしれないが、むしろ傘なのが、余計に先生らしくていいなと思った。

 扉を開けた広報の女性は、何かに気がつくような表情になった。しかしそんな表情も一瞬で「ほんとに、きたよ」と、驚きと滑稽さを滲ませながら言葉を吐き捨て、自分の手柄だと自慢するかのように彼を見た。
 彼女に向かって「わかったよ」と吐き出しながら彼は、先生の顔をまじまじと見つめ、イスに座るよう促した。
 部屋に入ってきた先生は私を一瞥し、「ごめんな、大丈夫か? もう大丈夫だから」と声をかけてくれた。
 この状況のどこがどう大丈夫なのか、何も好転していないのに……
 でも、味方が来てくれるというのは、こんなにも心強いものなのか。初めて知った。

「話をしに来た」そう話す先生は、激しい通り雨が過ぎ去った後のような、独特の落ち着きを纏っていた。「色々と聞きたいことがあってね」
「同じですね、先生。俺らもですよ」彼は自分のスマホをポケットから取り出し、テーブルの上に置いた。

「でもその前に、暴れられたらうざいんで、念のため拘束させてもらいますね」
 そういうと彼は広報の女性と手分けして、結束バンドで両手、両足を固定した。椅子に座らされ、手足の自由が奪われたというのに、先生はあまり恐怖を感じていない様子だった。

「まず、俺らからいいっすか?」主導権はこちらにあるんで、とでも言わんばかりに、彼はテーブルの上に腰をかけ、先生の顔に自分の顔を近づけた。
「お前、どこまで知ってんの?」
「どこまでとは」
「6年前の事件」
「月野先生の事件だね。いや、何も。転落した……事故死だった、としか聞かされていないから、それ以上のことは何も知らないんだ」
「ふーん」
 それにしては確信的に、女を使ってまで俺に確認してきたじゃないか、と彼は先生を煽るようにして訊いた。

「君にぜひ話が聞きたくてね、大塔くん。僕だけでは君に辿り着けなかったから、彼女に協力をお願いしたんだ。確か同級生だったよな? こんなことになってしまって、彼女には本当に申し訳ないと思っている」
「お前って、先生なんだろ?」
「昔の話だよ」
「俺、覚えていないんだよね。日奈田と俺が同級生って知ってるなら、高校の先生なんだろ? お前、名前ってなんていうの?」
「円山」
「……やっぱり知らないな。なんの先生だ? 知ってるか?」
 彼は広報の女性に目配せをする。
 先ほど私から名前を聞いたときよりはやや反応があるように感じたが、相変わらず関心がなさそうだった。早く帰りたいと思っているのか、本当に先生のことを知らないのか、判別がつかない。

「君の名前は? 見たことはあるんだ」
 先生が広報の女性の方を見て訊ねる。
「は? 覚えてないのかよ。酷い教師だな」
「すまないね、名前を覚えるのが苦手でね」
「……加藤」
「あ、違う。下の名前」
「陽奈」
「あ、そうだ、そうだ」
「ホントに覚えてんのかよ」ちっ、と舌打ちが聞こえた。

「なんの先生?」彼が加藤に確認した。
「確か、理科だったと思う」
「へぇ」
「ま、昔の話だから。それに理科というか物理か化学を教えていたと思うけどね」先生が会話に割って入る。
「どっちでもいいよ、そこは。昔の話って……今は辞めたの?」
「そうだね、今は別の仕事をしているよ」

 ところでさ、と断りを入れて「僕からもいいかな?」と先生が訊ねる。
 彼は手のひらを先生に向けて促した。
「なんで月野先生を殺したの?」
 場の空気が一気に変わった。薄氷を履むような緊張感。
「殺した? 俺が?」
「違うのかい? てっきり殺したのかと思ったよ」
「なんでそう思う?」
「理系の癖なのかもしれないけれど、論理的に考えると、その仮説がもっともしっくりときたんだ」
「仮説?」
「そう、6年前の月野先生の事故死と、今回の市長殺害事件。共通点といえばそんなに多くはないが、二人とも『同じ学校で働いていた』というのは、結構大きな要素だと思う」
 彼は黙ったまま、反応もなく先生の話を聞いている。
「市長がまだ高校で校長をしていた頃、月野先生と揉めているところを何度か見たことがあったよ。はっきりとは覚えていないけれど、彼女は正義感が強かったからね。中途半端なこととか、筋が通らないことが嫌いだったんだろうと思う。あの校長は自分主義というか、危ない橋は自らは渡ろうとはせずに、いかに自分の名誉のため周りを使い倒すか、そのことだけを考えるような人だったんだ。その考えが、月野先生は嫌だったんじゃないかな? それで納得できない月野先生は、よく元校長につかかっていた」

 月野先生なら確かにやりそうだ。彼女は、理不尽なことにははっきりとノーを言える人だった。
 おかしな学校のルールや慣習などにも、私たち生徒の立場に立って、納得がいかないものは一緒に憤ってくれた。学校だけではない。それが保護者だろうと、いつも生徒たちの成長を最優先に考えてくれている印象があった。

「そしてその当時の校長と、君の会社の社長、すなわち君のお父さんとの繋がりは、何か深いものがあったんじゃないか? と思っている」そう言うと先生は、縛られた両足で一度床を強く叩いた。
「そこで、僕は調べたんだ。するとね、当時の校長、君の会社から色々と施しを受けていたようなんだ」
 彼はまだ何も喋らない。本題からずれているのだろうか、それとも先生から発表される情報の精度を見極めようとしているのだろうか。

 君が在籍していた頃だからもう10年以上前になるね、と前置きをして、先生は話を続ける。
「最初はお中元みたいな感じだったんじゃないかな? いつも息子がお世話になっています、って感じで。もちろん、普通はそんなもの受け取れない。公務員って、そういうの受け取ってはダメなんだ。でも、そのうち校長の方にも、受け取ってもいい合理性が出てきた」
 合理性? 
「就職先の斡旋だよ。ほら、うちの学校って、学力は高くなかっただろ? だから、学力の特に低い生徒たちのうち、経済的に厳しい家庭なんかは、高校を卒業してから就職を希望するんだけどさ。普通科高校だから、身につけた技術もない。もちろん学力もない。しかも当時は、大きな自然災害があってから1年やそこらしか経っていなかったから、本当に、就職先の開拓に困っていたんだよ」
 彼は姿勢を変えて椅子に座り直し、机の上に置いてあったグラスに口をつける。お酒を一口含み、人差し指でグラスをトントンと叩いた。
「そんな時に、君のお父さんか役員の誰かが『ウチで毎年、生徒さん何人か面倒見ますよ』と申し出てきてくれた。きっと断る理由はなかったはずだ。先生を労うためのお中元だとしたら、受け取ったら違法だ。しかし就職先の企業による『学校訪問の手土産』となれば、それを受け取る校長側にも合理性が出てくるからね」

「早く、本題喋ってくれない? 結局、何が言いたいの?」加藤はイライラのピークに達しているようだった。「どこまで知ってんの? こっちも暇じゃ無いんだよね」
 先生が加藤の方を一瞥すると、「もうすぐ終わるから」と、授業を早く終わってほしい女子生徒をなだめるかの如く、優しく制した。

「それじゃ、本題。校長……亡くなった市長だね。あの市長、市長になってからも、色々と君の会社に融通していたと思うんだ。Win-Winというやつだろうね」
「で?」ようやく彼が口をひらく。
「月野先生は元から校長の考えや言動が好きじゃなかった。教育現場の管理職なんて、そもそも尊敬できる人はそんなにいない。有事の際に責任は取らないし、知らぬ存ぜぬで押し通すことも多い。定年まで、いかに波風を立てずに、安寧な日々を過ごすかどうかだけに心血を注ぐ人たちも多いからね」
 そこまでいうか? と不安になるが、横で加藤も「ふっ」と笑った。
「その上、月野先生は元校長が市長になったタイミングで、君のところの会社と強いつながりを知ったんじゃ無いかな? 組織票のようなものなのかもしれないし、もっと黒い何かかもしれない。詳しいことは今の僕には何もわからないけど、彼女は元校長を直接問い詰めた……なんてことも考えられそうだ。そして……」
 邪魔になったから殺害した、と冷たく悲しく先生は言った。今から6年前。彼女が亡くなった年でもあるし、市長が初就任した年でもあった。
「それだけで終われば、君たちの会社にとっては丸く収まっていたのかもしれないけれど、今度は市長があれやこれやと経営にまで注文をつけてきた。人間歳をとると、どうしても注文が増えるものだからね。ましてや民間を経験していない教育者ともなると、我儘の質も悪い。営業をしたこともないし利益を考えたことなんか一度もないからね。世間とのズレも甚だしかったんじゃないかな」
 それで今度は市長が邪魔になったから、殺害した。と抑揚なく先生は言った。

「惜しい!」彼が声を張り上げた。加藤も少し笑っているのだろうか。乾いた涙が目に張り付いてよく見えない。

「お前さ、結構わかってるんだな。すごいよ、やっぱ先生って頭いいんだな。やっぱり、直接確認しておいてよかったよ」
「じゃぁこいつも、やっとくの?」加藤が確認を入れた。
「そうだな、そうなるな」
 も?
「その前にさ、せっかくだし教えといてやるよ」
 彼は挑発するような目つきで、口角を少し上げて先生に顔を近づけた。先生は、彼を憐れむような目で見上げている。
「月野は、市長が殺したんじゃないよ。もちろん、俺でもないし、父さんでもない。自殺なの。正確には事故だけど」
「確かに、僕もそう聞いたよ。当時の管理職からね。事故と事件の両方で調べたけど、事故だろうってことになったからね」
「この国ではさ、結果が全てなんだよ」わかる? という表情をしながら、自分に酔っているような表示で彼は話を続けた。

「過程は配慮されないんだよ。疑わしきは罰せずだし、結果が良ければ全て良しなんだよこの国は……ってか、世界はどこもそうなのかもな。お前さ、豚肉とか牛肉とか、鶏肉でもいいや。スーパー行って買うよな? あれ、どういう過程で商品になって並んでいるのか、気にしたことあるか? ないよな? 安ければいい、うまければいい、パックに綺麗に入っていればいい。全て結果なんだよ。わかる? 結果」
「そういう意味では、教師の働き方も同じかもな」
「は?」
「結果だけが見られるから、授業は準備もいらないと思われているし、生徒の成績も適当につけていると思われる。内申書なんて、生徒を学校に縛り付けるための元凶だ、なんて言われたりもするもんな」
「お前、教師辞めたんじゃないのかよ」
「土日がなくても、昼休憩がなくても、『生徒のため』『教師のやりがいのため』と体をだまし続ければ、いつまでも働き続けられる人種と思われているからな、教師というのは。君のいう通り、みんな『目にするところだけ』が気になるのかもしれないな」

「ま、教師は別に、俺にとっては居ても居なくてもどっちでもいいから、あんまわかんないけど。とりあえず、世の中は全て『結果』主義。これは変えようがない。あんた、理科の教師だったなら、言ってる意味もよりわかるんじゃないの? 実験とかだってそうだろ? 結果が全てだ」
「そこは疑っていない。知りたいのは、月野先生の死因だ」
「だから、事故だって」
「それは結果だろ? 僕は過程を聞いてるんだ」
「それを知ってどうするのさ」

 その言葉を聞いた先生は、意味のわからない言葉を発した。

「インテグラル」
「なんだって?」
 私も同じことを尋ねそうになった。
 口にテープが貼られたままだから尋ねることはできないが。
 インテグラル……どういう意味なのか。
 私に生じた疑問など先生は知る由もなく、話を続けた。

「サードでいい」
「おい、お前、頭狂ったんか?」
「すまない、こっちの話だ。どうせ僕を殺すんだろ? なら最後に教えてくれてもいいじゃないか。月野先生がなぜ死んだのか、その過程を」
「うーん、あまり気が乗らないけれどね。ま、聞きたいならいいんだけど」
 最後だし、うん、最後だし、まあいいか。そう言って、グラスを手に取り、グラスに入っていたお酒を一滴残らず飲みをして、彼は話を始めた。

「月野さ、俺と飲んでたのよ。トータルで3回くらいだっけな」
 先生は黙って目線を外さずに彼の話を聞いていた。
「それで俺、毎回睡眠薬を入れて遊んでたわけ。先生と」
 遊んでたわけ……の意味が、始めはよくわからなかった。「睡眠薬」と「遊ぶ」が脳内で繋がらなかったためだ。
 ただ意味がわかってからは早かった。私は一気に頭まで血が上って、自分の体温で血液が沸騰しそうだった。このクズやろう! なんで、なんでそんなこと。なんでそんなことを!
 まだ口元にテープが貼られていたため言葉の体をなしていなかったが、感情に任せて、私は全身に力を込めて獣のような怒号を彼にぶつけていた。

「あー、そういうのいいから」そう言って横にいる加藤に言葉をかけられた後、私の頬に激痛が走った。勢いで椅子ごと畳の上に倒れる。
 頬に、体の熱さとは別の熱さを感じる。心臓とは微妙に違うリズムで、頬が脈をうち始めたことで、私は頬を蹴られたことを意識した。
「おい!」先生が似つかわしくなく、低い声で腹の底から声を張り上げた。
「それ以上、彼女には手を出すなよ。加藤」
「は? 何様のつもり?」
「まあ、どうせ後で好きなだけできるわけだし、いいじゃない」と大好きなおもちゃを取られた猫をあやすかのように、彼が加藤に声をかける。
 鼻先でふんと笑いながら、また部屋の壁際に戻っていった。
「……先生は」
「え?」
「月野先生は、それが原因で自殺したのか?」
「さぁ、そこまではわかんなかったけどさ。多分そうなんじゃないの?」
「罪の意識とか、そういうのはないのか?」
「は! ウケるね、それ。ないよ、ないない。だいたいさ、勘違いしているかもしれないけれど、飲みに誘ってきてるのは向こう。しかも、薬入ってても意外と自分で歩いて部屋まで入れたりもするもんだよ? 傍目からは全然強引の感じもしないし、実際、無理矢理に連れ込んでもいない。ことが終われば、俺が家まで送り届けたしね。これのどこが罪なわけ?」
 全ては結果だろ? とでも言いたそうな顔をしている。いや、実際にそう言っていたのかもしれない。さっき蹴られたせいで耳鳴りが止まらないから、ところどころうまく聞き取れていない。
「彼女が亡くなった日も、会っていたのか? 彼女、亡くなった場所は、大阪だったから、奈良じゃないはずなんだが……」
 先生が感情を押し殺すようにして訊ねる。
「あの日は珍しく大阪で飲みたいっていうからさ。だから大阪で飲んで、それで、近くの高いマンションの非常階段で……」
 そう言いながら彼は「あ」と漏らし、何かに気づいた表情になった。
「そういえばその日は、送ってなかったわ。そうか……しまったな。それでか……」送っていけばよかったなと、まるで画竜点睛を欠く行為を悔やむ様子だった。
 目の前の彼以外が見えなくなるほど、私は彼……大塔を睨みつけた。手のひらに爪が食い込むほどに、腹の底から「殺してやりたい」と本気で思ったのは、生まれて初めてだった。

 そんな私とは反対に、先生が落ち着いた口調で、しかし低く響く声で再び話し始める。
「月野先生が、君を飲みに誘ったのは多分、会社と元校長とのつながりを調べるためなんだろうな」
「確かに言われてみれば、最初はそうだったんじゃないかな? ん? いつもそうだったのかな?」大塔は空をみて思い出すような仕草をしていた。
「君は、このことを知っていたのか?」先生は加藤に訊ねた。
「知ってるよ、もちろん。だって最初の飲み会は私も同席してたからね。私が彼女の食べていたデザートに薬入れたんだし」
 なんてことだ。同姓としての理解や感情もないのか。
 こいつら一体何なんだ……。同じ人間なんだろうか。

「君たちはさ、一体何がしたいんだ?」
「え?」
「そんなことをして、いったい君たちになんの得があるんだ」
「やっぱ、おじさんっておじさんなんだね。私たちの行動原理が全て『損得勘定』で動いている、って考えてるの。まじでウケるわ」加藤が半笑いしながら大塔よりも先に答えた。
「ほんとだよ、お前。せっかく先生やってたのに、今の若者の気持ちとかわからないんだ……ま、教師っていうのはそういうものか。生徒の気持ちをわかったフリして、自分の価値観を押し付けるのが仕事だもんな」
 大塔の言葉につづけて「教師辞めておいて正解だったな」と加藤が合いの手を入れた。
 その時だった。私は加藤の肩越しに見る窓の外の景色が、まるでタイムラプスのように、目まぐるしく明暗が変化している。そのことに気がついた私は床に寝そべりながら狼狽えた。
 そんな私の様子を見て、加藤も振り返り、窓の外を確認する。
「なんだよこれ」
「何が?」
 大塔はそう答えるのと、窓の外を確認し、開いた口が塞がらない様子になった。

「部屋の中だと、気絶しなくて済みそうだよ」と先生が言った。独り言にしては大きすぎる声だ。この状況で気でも触れてしまったのだろうか、と心配するほどだった。
「おい、お前、何か知ってるのか? なんかしたのかよ」
「なにこれ? 何なん、これ」
 あまりにも現実的ではないことが起きていたからだろう。さすがの二人も、とても人間らしい素直な驚き方をしていた。その慌てふためく様子は、滑稽にも見えた。
「もういいよ、解除して」
 先生がそう言うと、タイムラプスの景色がピタッと止まった。
 同時に、四人のスマホが一斉に鳴った。

「おい、おい、おい」大塔は繰り返し髪をかき上げながら、慌てている。加藤の方も、じっとしていられない様子が窺えた。
 私は、手足を縛られているため元よりなす術がない。顔を畳につけている安心感のおかげだろうか、それともテープが口に貼り付けられて、声が出せない状況のせいだろうか。身動きが取れないこの状況では、黙って経緯を見守るしかないと感じた。

「電話、出たほうがいいんじゃないか? 二人とも」先生はそう言って、この数分の出来事がまるで日常であるかのように振る舞った。
「お前が何かしたのかよ?」
「ねえ、何したのよ、ねえ?」
 答えを欲するように、二人が先生に訊く。
「別に、僕が何かしたわけではないけれど、電話に出ればわかるんじゃないか?」と、再び電話に出るよう催促した。
 大塔と加藤は、恐る恐るそれぞれ自分の電話に出た。私と先生のスマホは鳴ったままだった。程なくして、留守番電話センターに切り替わったのかもしれない。この部屋には束の間の静寂が訪れる。
 その沈黙を破ったのは、何とも情けない大塔と加藤の声だった。
「2日も?」
「どこにいるかって?」
 大塔も加藤も、混乱で理解が追いついていない様子だった。

 私はしばらく、ほんのしばらくの間、二人の会話を黙ってただ聞いているしかなかった。慌てふためく二人を見るのは滑稽で、ざまあみろ、と言う感情しかなかった。再び私と先生のスマホが鳴ったが、どちらも身動きが取れないままだったから、鳴らせっぱなしのままだ。慌てる二人に静かな二人。外からの情報を得ているものほど、うるさく、見苦しい様子が見てとれた。

「ちょっと言ってる意味がわかんねえから、今からそっちいくわ」と大塔が話したタイミングを同じくして、この部屋に雪崩のように人が押し寄せてきた。
 部屋に入ってきた者たちは、あちこち視線をうごかす。狭い4畳半の空間に、縛られた男女と、電話をしながら困惑している様子の男女が一堂に介しているものだから、入ってきた大勢の人たちもまた、面を食らっている様子だった。ムーディーな雰囲気が出るからと、部屋のあちこちに置かれた照明がわりの蝋燭は、灯ったままゆらゆらと揺れていた。

エピローグ

「なんで、観覧車なんですか?」日奈田が訊ねてきた。「先生と観覧車とか、恥ずかしすぎるんですけど」
「ごめんごめん、最初で最後だと思って」
「答えになっていないですよ、それ。この間の喫茶店でも良かったのに」
「まあ、こっちの方が色々と説明がしやすいんだよね」
 列に並んでいる他の人たちから見たら、僕たちはカップルに見られているのだろうか。そんな風に考えると、日奈田には大変申し訳なく思えてきた。しかし、百聞は一見にしかずというから仕方がない。
 平日だったが、あたりはそれなりに多くの人たちで賑わっていた。大きな買い物袋をもった家族連れや、中高生のような若者たちもあちらこちらでいっぱい見かけた。みんな、夏休みを満喫しているように見えた。

「でも、何でこんないい天気なのに、傘持ってきてるんですか?」
「ちょっとね。この観覧車に必要で」
 日奈田は首を傾げ、遠くを見るような目で僕を見て訝しがる。

「足元、お気をつけください。あ、いつもありがとうございます、イチカさん」
 彼女の後に続く僕を僕として認識したスタッフに、顎だけで会釈をする。
 下の名前で呼ばれるほど顔馴染みになってしまった係のミヤマ君とは、一度、サシで一緒にご飯を食べにいくほどの仲になっていた。
 バタン、ガシャン、カシャン。はじめて乗った時よりも、軽い金属音のように聞こえた。
「で、話って、何ですか?」
「え?」
「私が観覧車に乗った理由ですよ? この間の監禁事件について、詳しく話してくれるって言ったから、私観覧車に乗ったんですよ」
「そうだね。どこから話そうか」
「あんまり長いと、観覧車終わっちゃうんで、手短にお願いしますね」
「1周20分くらいあるし、大丈夫だよ」
「20分しかないじゃないですか」
「いや、ほんとその辺りは大丈夫なんだよ」
「ふーん」
「とりあえず。今回の諸々のことについて、本当にありがとう。僕一人では全く無理だったから」
「そこは、お互い様です。私も本当のことが知れて、助かった部分が多いですから」
「で、どこから説明しようか?」
「新聞報道とかで知らされていない部分をお願いします」
「事件の背景とかはいらないってことかな?」
「市長が、ヤマトまほろばに対して、ビルの建設や入札で便宜を図っていたことも、社長が息子と娘・・・・に秘密裏にあれこれと指示を出して殺害させたことも、全部知ってます」
「いやあ、大塔と加藤が兄妹だとは驚いたよな」
「前妻の子どもらしいですからね、加藤」
「結局、着ぐるみの中に入ってたのは、大塔の息子だったんだろ?」
 知らなかったよ、と言葉を添える。元教え子に演技をするのは、悪い気はしたがバレてはいないようだった。
「みたいですね。あいつ、大学で居合道部に入ってたみたいで、そのときに『仮想敵だけじゃなくて、いつか本当に人を切ってみたい』って、当時の部員や仲間たちに言ってたらしいです。本当のヤバいやつだったんですよ、大塔は」
「僕は直接教えていないから何とも言えないけど、やっぱ教えていた生徒たちがそういう風になっちゃうと、教師の無力さを痛感するよ。加藤の方も再逮捕されたしね」
「私たちの監禁と傷害以外に、市長の方の殺人幇助や教唆でしたっけ? まだまだ余罪とかいっぱい出てきそうですけどね……って、事件の概要はだからいいんですって」
 僕は微笑みながら、外を見る。9時の位置までもう少しだった。
「私が一番聞きたいのは、最後のあれです。タイムラプス。あれ、何だったんですか? 本当に2日も経ってて……正確には42時間ほどだったと思いますけど。もう、何が何だかわからなくて」
「僕もサードは初めてだったから、あれは確かにびっくりしたよ」
「サード?」
「うん。微分の方だと、3次元空間でサードまでお願いしちゃうとゼロになって大変になるから危険が高くなるんだけど、積分の方だと高次元になるだけだから、いけるんだってさ。ちょうど、壁に映った影に色がついて立体的になる感覚……って言ってたかな。実のところ、僕もよくわかっていないんだけどね」
「さっきから何の話をしているんですか?」
「もうすぐやって来るから、直接聞いてみなよ」
「来るって、誰がですか?」

 僕は、遠くの下の方で僅かに蝉の声を聞きながら、夏真っ盛りの太陽が照っている空を見た。この空の向こうには、宇宙が続いているのかと思うと、壮大な気持ちになる。
 目を閉じて、今、自分たちがいる場所を親指と人差し指で何度も閉じて、ピンチインしていく。
 大阪から日本、日本から世界、やがて地球となり、太陽系、天の川銀河団へと続き、ついには宇宙の始まりへと辿り着く。

 宇宙はその昔、濃い霧がかかったように何も見えなかった状態だったらしい。やがて時間が経つと、粒子たちが互いの重力に引かれてまとまりだす。まるで仲間を求めるように、霧をつくっていた粒子たちがまとまりだすことで、次第に霧が晴れて、そこでようやく、くっきりと辺りが見渡せる状態になった。そんな、宇宙の晴れ上がり。

「晴れ上がりっていい言葉だよな」と、しみじみ笑った。
 次、観覧車に乗る時には、傘は必要ないかもな。そんなことを感じさせる、よく澄み切った空の青色が心地よかった。


<了>


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

参考

  • 利休を考える〜どんな人間だったのか〜https://note.com/sototakei/n/nc0177bbecb90

  • おじさんのかさ 作・絵:佐野 洋子

  • 佐藤勝彦、杉山直「COBEの観測とビッグバン・インフレーション宇宙」『日本物理學會誌』第48巻第1号、日本物理学会、1993年

※この作品はフィクションで、実在する個人、団体とは一切関係ありません。

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