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タンザニアバスケ放浪記
あれはちょうど中学1年生の頃だ。
スラムダンクにハマっていたおれは地元の中学校にバスケ部を設立せんと活動していたが、親が突然タンザニアへと転勤になった。
妹は泣き崩れ、おれはそこならバスケ部があるだろうと喜んで飛び跳ね、家は悲しみと喜びが入り混じるカオスな空間へと変貌した。
かくして日本にはおれがバスケ部をつくるために集めた数人のメンバーだけが取り残されることとなり、おれはタンザニアへと飛び立った。
インターナショナルスクール
幼少期から英語にも慣れ親しんでいたので、英語を使える気満々でインターナショナルスクールへと放り込まれたのだが、数年のブランクはおれから無残にもすべての英語能力を失わせていた。
だがおれはこの頃から非言語コミュニケーション能力が異常に高かったので、日本人は猫を食うなどのデマカセを言いながらボディランゲージを主に活用してクラスメイトと打ち解けて、バスケ部のことを聞き出すことに成功した。
そして判明した衝撃の事実は、クラブ活動はなんと週一であるということだった。
インターナショナルスクールでは日本のようにひとつのクラブに所属するようなものではなく、一週間のうちに色んな曜日、時間帯で開催されるクラブに好きなだけ入って良いというものだった。
バスケ狂人の誕生
最初はバスケの他にもラグビーやサッカーなどをやってみたがどうにもしっくりこなかった上に、とある発見からおれはバスケ部以外を全部やめることとなる。
そう、インターナショナルスクールでは基本的に授業は午前中までで午後からはクラブ活動などの時間だった。
ポイントはクラブ活動以外に何をしていてもいいという点だ。
当然、バスケットボールコートでバスケをしていても良いということになる。
よって、おれは当然の帰結として授業が終わってメシを食ったら夕方までひたすらバスケをし続けるというバスケ狂人コースを選択することになった。
かくしておれは「いつもバスケしてる人」になった。
「てめぇのせいでコートの掃除が大変なんじゃい」と用務員にキレられるほどおれはバスケをすることになる。
バスケ狂の一日
朝起きて犬と戯れ、母の車に送られて学校へと向かう。
授業は30分が6コマあって午前中に終わる。
昼になると売店か食堂で何かを食べ、バスケットコートに向かう。
ちなみに余談だが当時のタンザニアの物価はめちゃくちゃに安くて100タンザニアシリングが10円だったはず。
250シルで瓶のコーラ、200シルで瓶ペプシ、150シルで堅あげポテトみてーなポテチが買えるという価格帯だった。
おれは食事代として親から2000シル(200円)という超大金を得ていたので毎日豪遊しながらバスケができた。
かくして、
13:00~14:00 バスケして休憩にポテチとコーラ
14:00~15:00 バスケして休憩にポテチとコーラ
15:00~16:00 バスケして休憩にポテチとコーラ
16:00~17:00 バスケして休憩にポテチとコーラ
みたいな生活をすることになる。
こんな生活だが、あまりにもオーバーワークだったらしく、身長170㎝で体重は50㎏ないというマサイ族的な体形だった。
日本に帰ったら女の子に腕相撲で負けるくらい腕力が弱かったよ……。
そんなバスケとコーラが終わって家に帰ったらメシをくって眠くなったら寝る、みたいな生活をしていた。
21(トゥウェンティワン)
バスケットコートにおれがいるということが学校に広まっていくにつれて、バスケがしたいやつはコートへと集まってくることになった。
もちろん毎日10人以上が集まるなんてことはないんだが、当時は21というゲームが流行ってて、これはハーフコートを使って先に21点取ったやつの勝ちというシンプルなルールで、少人数でもできたのでよく遊んだ。
一対一でもいいし、一対三とかでもいい、ミスボールを取ったやつが一回スリーポイントラインの外に出て、仕切り直しで一対他の勝負をする。
これをひたすら繰り返し、人数がそこそこ集まったらフルコートで試合をする。その繰り返しだった。
ほとんどのテクニックは実戦で学ぶという感じで、当初はヘタクソだったおれも流石の練習量でうまくなっていった。
チームメンバー
バスケ部のメンバーも個性的な面々が多かった。
小さいけどすばしっこいタンザニア人のジョセフ。ドイツと日本のハーフのホフマン、ドイツ人で2m超えのベン、女なのに男装してて男子バスケ部にいたナイカ。
他にもダンクでリングを壊して弁償させられるのが怖くて来なくなった奴とか、あとおれのクラスメイトの連中はおれが楽しそうにバスケしてたからなのか、めちゃくちゃバスケ部に入ってくれた。
中でもトップクラスが二人いて、ドレッドヘアーのアレックスはバスケがうまくて一度も勝てなかったし、転校してきてエースになったユネスはバランスが良くて論理的にプレーするので非常に勉強になった。
こいつらが週一のバスケ部以外でもバスケットボールコートにやってきて練習するというのが毎日のルーティーンになっていった。
寮生活で限界突破
やがてタンザニアのイカれた生活が合わなかったのか母は病気療養のために日本へと帰国し、おれは学校の寮へと放り込まれることになった。
これによりおれのバスケ練習時間はさらなる延長を見せることになる。
夕方を過ぎてもバスケは続き、早朝からもバスケができた。
ある意味で夢のような生活であった。
バスケ部はジュニア(中学生以下)とシニア(高校生)に別れていて、おれはジュニアではエースになり、シニアでもスタメンに入っていた。タンザニアにおいて区分なんてものはめちゃくちゃテキトーなのだ。
実力さえあればシニアにいても許されるし、例え女であってもカンケーないってのはバスケ狂人にとっては非常にいい価値観だったと思う。
他にも学校に侵入してくる他校の生徒がいたりして、色んなやつと毎日バスケをした。
で、なんか学校では各スポーツのMVPとかを表彰する会みたいなのがあって、それでおれは「一年で最も成長したプレイヤーで賞」みたいなのを貰った。おれは学校公認で「ずっとバスケしている人」になったのだった。
日本でのバスケ
中学生にして外国人高校生とも張り合えるこのおれが、日本に帰り、高校生になって活躍したかというと実はそんなことはない。
なんか先輩後輩とかの上下関係とか、バスケ以外のしがらみがあまりにも合わなくて、おれは数カ月でバスケ部を退部し、さらに追い打ちをかけるように腰の爆弾が爆発してヘルニアになったりして見るも無残な敗残者になっていった。
身体は思うように動かず、衰えていく一方。
タンザニアはけっこう標高が上の地域でもあったので、まるで高地トレーニングをしていたかのように動いていた身体は日本に戻ると魔法が解けたかのように動かなくなっていった。
そこからのおれは「失恋したけど恋人が忘れられないしょうもない男」みたいな感じでバスケをあきらめきれないまま大学生になり、でもバスケ部に入ったりもせず、腰を痛めながらずるずると引きずり続けた。
バスケ狂人から合気道化師へ
とうとうオッサンになって28歳くらいになった頃に、おれは古流の空手と呼ばれるものを知る。
フィジカルトレーニングで鍛えた身体能力ではなく、ひたすら稽古をすることで培われるまったく別の身体能力があることを知った。
だけどなぜ、そういう稽古をすれば筋肉がなくても強くなれるのか?その謎を調べて色んな動画を観たり、掲示板を彷徨ったりした結果、とうとう合気道へとたどり着いた。
そして今に至る。
この記事を書いてて思ったけれど、おれは合気道をする前からこういうヤツだったのだ。
とにかく自分のハマったものを中心にしてすべてを巻き込みながら生きていく。
海外のいくつかの国ですべてをリセットされて一からやってこなければならなかったおれは、いつの間にかこういう生き方をするようになったのだろう。
多少の分別がついたのか今ではバスケの時のように週5で合気道をするなどということはしてない。
でも、毎日が合気道であるとか言っているのでもしかしたら悪化してるのかもしれへんわ。確証がないから言及すんのやめとくわ。
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マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?