見出し画像

SMプレイと合気道の似てるところを考える

※この記事は無料です。

いや、SMとかやったことないし知らんけど、Mの女性のお話を聞いてら、あらあらあらら、SMって合気道っぽいなと思っちゃったんだよね。
SMってのはいわゆるセクシャルなふたつの属性で、Sはマルキド・サドのSでMはマゾッホのM。どっちもちょっと特殊な性癖の作家のイニシャルだ。
で、お互いのニーズがマッチングすればそれはいわゆるSM関係となり、ご主人様と犬みたいな関係になるらしい。

SMの調和


愛の形は色々あるし、2つの性癖が合わさって円になるのは合気道だよね、などというクソ浅いことを言うつもりはない。
SMの話を聞いててオモシレーと思ったのは、要するにSのご主人様ってのはMの人を犬扱いし、その関係性でお互いに満足を得る。
でも、当然ながら人間同士なのでやりすぎれば壊れちゃう。
これが面白い関係性でSといってもMを壊しちゃったら自分が満たされない。逆説的だけどM側を常にケアしておかないと自分を満足させられない。

SM合気道


この関係性は合気道の稽古における捕りと受けの関係にめっちゃ似てる。
捕りは最終的には勝つという前提で技をかける側。つまりまごうことなきSだ。
受けはMで捕りがかけようとする技に上手にかかってやる。負けることが喜びなのだ。
この稽古を良いものにするためにはS側は技をかけるのだけれど、決してM側を再起不能になるほど痛めつけたりしてはいけない。
ケアの精神を持ちながら相手を倒さなければいけない。

Mもただやられるわけではない


受けるM側もただやられるわけではない。ちゃんと自分が従いたくなるような技のかけかたを要求することができる。
これではダメでこうしたら効きますよ、というルートを示していく。
これからわたしは崩れるのでちゃんと支えてくださいねという信頼関係を築かなくてはいけない。
このように合気道の稽古はSM双方の協力によって完成する。
そういう関係性は実際のSMの関係性とも似ているような気がする。知らんけどね。

合気道とSの境地


Sは常にMを支配する。
合気道における支配ってのは字の如く支えて配ることであり、奪ったり壊したりすることじゃあない。
この真の支配を行うのが真のSがやるべき行いなんじゃないだろうか。
合気道の稽古では形の上ではM(受け)の方が攻撃をしかける。しかし攻撃をするというのは自らバランスを崩すということでもある。S側はすべてを承知した上でMを支えてやる。
攻撃によって崩れた部分を指摘して、トドメを刺す。そのためにはSはMをいつでも支えられるように包み込んでひとつになっていなければいない。
捕りと受けという役割がありながら実際には逆の役割も内在している。そういうところに合気道とSMの共通性を感じる。

合気道とSMの違うところ


ただ合気道が違うのはこの稽古のSMという役割は常に変わることだ。
稽古とはSとMを交互に繰り返すプレイといったところか。
合気道は常に捕りと受けを交代しながらお互いがどう感じでいるかを感じ合う。
まぁ合気道の捕り受けは別に性癖でやってるわけじゃないから、こういうこともできるんだろう。
合気道の型稽古とSMプレイは本質的な繋がり方が似てるように思う。Sによる加虐は同時にケアでなければいけない。
Mの嗜虐もSが上手に攻められるように導いていかなければいけない。
お互いがお互いのために相手を支配する。やっぱ合気道だな。

おわりだ。
(まさか元旦早々SMのことを考えて記事にするとは思ってもみなかったが……こんな感じで今年もやってきます)

ここから先は

0字

¥ 100

マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?