神話を感じる方法【合気道と野生の思考】
『野生の思考』第五章「範疇、元素、種、数」はそのまんま合気道の話だと言っても良い。
レヴィ=ストロース曰く『世界は、対立を何段にも重ねてつくられた連続体の形で表わされているのである』とのことだ。
範疇(上下)元素(天地)種(鷲熊)数(奇数偶数)といった対応関係によって、人は様々なものを分類している。
混ざって一つになる
オーストラリアではかつて政府の方策で原住民30部族900名がひとつの収容施設に入れられた結果、それぞれの部族は調和することになったという。
各部族のトーテム的な体系をそれぞれ擦り合わせて相互に理解しあってみせたのだ。
樹木のように、枝葉として分岐した部族でも幹の部分は同じだからこそ分かりあうことができたのだとか。
古事記と合気道
未開人の分類方法は様々で、対応する関連性は無数にある。中には動物を火と水に分類する部族もあったらしい。
さて、ここで合気道の神話体系を見てみよう。まずはベースとなる古事記から見てみよう。
構造としては宇宙から天地が分かれ、三元の神により男女(対応関係)がわかれてそれを司る神が万物の祖となった、とされている。
合気道の神話はこうだ。
これが古事記と構造として対応しており、開祖はこれを言霊の神話としてこのようにも置き換えて説明する。
これらの天地創造の神話は古事記と対応している。根源からふたつのものが生まれ、そこから対照という概念が生まれるという構造は同じだ。
これで古事記・合気道の神話・言霊の神話は構造として同じものであることがわかる。というか、これらは重なっているわけだ。
構造の多重化
合気道では根源とそこから分かれた陰陽という三元的な考え方で、陰陽の二項を様々な形で対応させて使っている。
イザナギとイザナミは火と水に対応するという。火と水ということは即ち火水だということ。さらにこれは「ひだり」と「みぎ」にも対応しており、これは南と北にも対応するという。
範疇(左右)元素(火水)種(男女)などの構造が多重に重なり合っている。
合気道では右手と左手もこのような対応で表現し、右足や左足には別の古事記の神が対応していたりするのだ。
神話と身体
これまで書いてきたことはあくまで神話だ。けれど神話が宗教として実際にパワーを得るためには「現実」が必要になる。
オーストラリアの先住民たちが自分たちにトーテムをちなんだ戒律を課したりしたように、何か現実に影響を及ぼすものがあるからこそ、人と神話は近づく。
合気道においては身体だと思う。例えば代表的な技に「一教」「二教」「三教」「四教」というのがある。
「一教」は自分の中に入らせない技。相手を自分の力の範囲の外側で制する。「二教」は相手を自分の中に抱え込む技。相手を自分の内側で制する。
これによって一教と二教は外と内の対応関係になり、続いて「三教」は一教と二教の統合した形になる。一方では相手を抑えながらもう一方では抱える。内と外の融合が三教だ。
「四教」は「三教」が相手を動かすのに対して完全に止める。「死」にも通ずる。つまり三教と四教が生と死の対応関係になる。
合気道ではこれをすべて統合させて使っていくことを目指したり目指さないで遊んだりするらしい。
宇宙を感じる
合気道とは「心」と「肉体」と「気」が結ばれたものだという。
神話と技と自分、そういったものがすべて同じ構造で説明したり理解したりできたとするなら、それはもう神話と一体になったようなものだ。
トーテミズムもこうした宇宙から分かれていった自分たちを感じる形態だと言える。
この構造を心や身体で理解することが合気道でありトーテミズムなのだと思う。
神話なき時代の身体
現代にはこうした構造もなければ神話もない。
もしも次なる神話が現れるとしたなら、それはもしかしたらデバイスと一体になった時かも。宇宙の法則を物理的に演算するものと一体になればまた何かが変わるだろう。
再び身体で宇宙の法則が感じられるようになると、新たなトーテミズムが生まれるかもね。
でも、それまで時間がかかるし、とりあえず合気道とかどうでしょう?
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