野生の思考を忘れるな【合気道と野生の思考】
第九章「歴史と弁証法」と「付録」について書く、合気道と野生の思考はこれで終わる。
この章は簡単にいうと「サルトルの野郎が喧嘩うってきたから買ったるわアホンダラァ」という内容だ。
これによってサルトルはボコられ、構造主義がトレンドになるわけだけど、それはまた別のお話。
サルトルのように文明に染まりきったおれたちにはきっと「野生の思考」が必要なのだろう。
家畜の思考
多くの人が未開人たちをみて見下すのは、「家畜の思考」に支配されているからだ。
歴史があるとか、発展しているからといってその民族がみんなスゴイってわけじゃない。
それなのに未開人と比べて自分たちの方が優れてると思ってしまうのは思考が家畜化されいるからだ。
家畜とは何か?
現代人がいきなりジャングルに放り出されたら、生存する確率は未開の民より低いだろう。
色んなものがすでに完成している環境で生きているとできなくていいことが増える。
料理の出汁を取れなくても出汁パックが売られているし、スパイスを調合できなくてもカレーがつくれてしまう。
便利だからこそ、その環境に流されているとただただ与えられたものを消費する家畜になるというわけだ。
文明の家畜
文明というのは物事を単純にしていく。
合気道の開祖はほとんどの人に理解できない神話を語りながら、ほとんどの人がマネできない技をやってみせた。
そんなんじゃマズイので、息子が様々な型をつくり整理して門外不出だった技を世間に公開し、合気道は現在に至る。
型とはカレーの固形ルーみたいなものだ。
スパイスを調合できなくても、ひとつの種類のカレーはある程度のレベルでつくれてしまう。
合気道と野生の思考
「家畜」がする工夫はせいぜいレトルトカレーを少しでもおいしくしようとするくらいだ。
どんなに型通りのものがうまくなっても、色んな型を生み出せるようにはならない。
スパイスの配合でカレーがつくれるなら、どんなカレーもつくれるだろうし、ありあわせのスパイスで何かつくってみせることもできる。
それが「野生の思考」だ。
すべてがひとつになる物事の中心でいること。自分の強さや弱さ、複雑さを受け入れてひとつにすること。
家畜でも何かを深めようとする時には、農場から出て野生の思考へと戻っていかなければならない。
野生の思考とはつまり原初の合気道だ。
だから合気道をしようじゃないか!(結局、行き着く結論はいつも同じ)
お後がよろしいようで……。
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