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合気道開祖植芝盛平年表

純然たる趣味だけでつくっている合気道開祖年表。
色んな資料に書いてあることをまとめてます。


1883 明治16年 0歳

12月14日
・和歌山県田辺の富裕な農家に長男(姉3人・妹1人)として誕生
・父與六/与六は村会議員

与六が祭りで白い花を持ち帰る、祭りで花を取り合って白い花を持ち帰ると男の子が生まれるならわし(2)(6)

・植芝家は父方が代々女性が産まれやすい家系で曽祖父吉右衛門、祖父吉平は養子、父与六は一人っ子、盛平にはため、ひさの、千代という姉がいた。後に妹に菊も産まれる(6)
・母ゆきは甲斐武田氏の末裔糸川家の出
・生家は200アールほどの土地
・親類に井上鑑昭の父、井上善蔵がおり後の盛平の活動を金銭的に援助する(16)
・井上鑑昭によれば与六は「大変な力持ち」だった(24)

1884 明治17年 1歳

1885 明治18年 2歳

・両親が心配するほど病弱

1886 明治19年 3歳

1887 明治20年 4歳

関連事項
・惣角、西郷従道の警護の為に北海道へ(3)
・戸張滝三郎、講道館入門

1888 明治21年 5歳

関連事項
・惣角、きくと結婚(3)

1889 明治22年 6歳

1890 明治23年 7歳

7歳頃
・地蔵寺(古義真言宗仁和寺末)護摩堂で私塾を開いていた藤本密乗師から四書五経を学ぶ(6)
・父から相撲・水練など身体鍛錬を受ける
・読書家で物理や数学、仏教など様々なものに興味を持っていた(6)

時期不明
・田辺小学校に入学し那須多三郎に学ぶ、那須多は後の闘鶏神社神主で当時は20歳前後で盛平に大きな影響を与えた(6)
・小学生の折に与六が寝込みを襲われ、格闘しはじめたのをみて盛平は強くなりたいと思ったという(6)

関連事項
・中山博道が有信館に入門(14)

1891年 明治24年 8歳

1892年 明治25年 9歳

関連事項
・旧正月元日夜、出口直子に神が降り、自動手記を行う(7)p49-50

1893年 明治26年 10歳

・秋津村宝万寺にて参禅

1894年 明治27年 11歳

関連事項
・戸張滝三郎、天神真揚流免許皆伝(武道宝鑑)

1895年 明治28年 12歳

関連事項
・大日本武徳会設立、中山博道は師範代に(14)

1896 明治29年 13歳

・新設の県立田辺中学校に入学するが一年を経ず病気で中退(6)
・中学校でのちの東北大学総長、佐武安太朗と出会う(6)
・吉田珠算研究所でそろばんを学び、通い始めて一年足らずで代教を務める(6)
・田辺税務署に勤務(6)

1897 明治30年 14歳

・各流の武術遍歴が始まる(合気会)(10)

1898年 明治31年 15歳

関連事項
・惣角、東北地方で武道教授、保科近悳を訪ねる(3)
・出口王仁三郎、高熊山で修業、8月23日、出口直と出会う(17)(7)p57

1899年 明治32年 16歳

関連事項
・惣角の英名録に大東流の文字が登場(3)
・7月1日、出口王仁三郎、大本に入り喜三郎から王仁三郎に改名(7)(17

その他
・義和団の乱
・大日本武徳会が武徳殿を建設

1900年 明治33年 17歳

関連事項
・出口王仁三郎、出口澄子と結婚(17
・中山博道が有信館の師範代に(14)
・6月11日に佐藤完実が大東流英名録に登場(5)
・3月15日、富木謙治誕生(19)p284

1901 明治34年 18歳

・「磯事件」(漁業法改正に反対する漁民の権利運動)に加担、税務署を退職、反対運動に参加するが失敗に終わる(6)
・父与六は何も言わずに資金の援助をした(6)

9月頃(資料によっては1902年)
・上京 東京日本橋の問屋街に住み込む
・およそ5尺1寸156cm、十二貫(83kg)(7)p19

1902 明治35年 19歳

春頃
・父与六と井上善蔵の援助により、井上家の四男、小四郎の仕事を手伝い文房具卸売業「植芝商会」を設立(16)
・起倒流柔術を戸張滝三郎とばりたきさぶろうから学ぶ

戸張滝三郎は1894天神真陽流柔道てんじんしんようりゅうじゅうどう免許皆伝、1887年講道館柔道開始、起倒流の修業歴はなし、柔道か?

・神田飯田町で神陰流剣術を学ぶ、ごく短期間のため記憶が曖昧(12)p12
天神真楊流てんじんしんようりゅうを戸澤徳三郎から学ぶ(7)p20

夏頃
・商売は成功するが、不摂生が祟って脚気(ビタミン欠乏症)を患い、店を従業員に譲って無一文で帰郷療養
・(6)では徴兵検査のためだったとも
・父に「着物一枚で上京したんやから、着物一枚で帰ってまいりました」と言って大笑いしたという(6)

10月
・2歳上で幼馴染の姻戚・糸川はつと結婚

12月3日
・井上要一郎(後の鑑昭)誕生(Wikipedia井上鑑昭2023/6/26)幼児期を植芝家で一時期過ごす(1)

関連事項
中山博道が有信館で免許皆伝、根岸信五郎の養子に(14)
佐藤完実、大東流教授代理に(5)

1903 明治36年 20歳

・徴兵検査を受けるが身長が5尺2寸に届かず不合格(6)武の真人では合格して和歌山第六十一連隊に入ったとされている(7)p20
・当時の身長は5尺1寸5分たらず、155.6㎝で75㎏、徴兵検査の最低基準は5尺2寸だった(6)

12月末
・再検査に合格し、日露戦争の為に大阪第四師団管下第三七連隊に入営
・身長5尺1寸5分(約156㎝)体重20貫(75kg)(6)

関連事項
・惣角、仙台第二師団に教授

1904 明治37年 21歳

2月8日
・日露戦争勃発
・外出日には柳生心眼流柔術を中井正勝に学ぶ(資料によっては1905年)堺市甲斐町西四丁目(6)(11)
・中井正勝に師事したのは入営前、入営中、除隊後などの説がある(6)

7月
・武田惣角、北海道の丸茂組を単独で壊滅させる(Wikipedia)
・函館の裁判所の要請により暴力団の裁判妨害阻止のため函館に滞在(3)

1905 明治38年 22歳

・伍長昇進
・銃剣は隊内随一、「兵隊の神様」と呼ばれる(6)(7)

満州戦線の得利寺その他において戦功をあげたことが軍曹昇進の理由とする資料もある(6)

8月
・第2軍大阪第4師団和歌山歩兵第61連隊に配属(6)
・出兵が遅れたのは銃剣術に優れていた為、指導を任されていたからという説がある(6)p68
・この頃から飛んでくる敵の弾丸が見えるようになったという逸話がある(6)p68

9月5日
・終戦

1906  明治39年 23歳

・上官から陸軍予備士官学校入学をすすめられる。戸山学校への推薦入学の勧めもあったという(6)p69
・父与六が連隊長に手紙で懇願し、盛平を和歌山に戻す(6)p69
・除隊時の階級は軍曹(6)
・演習で落伍した者の装備を担いでやったり、父からの小遣いで仲間に酒を振る舞うなどして軍隊での人気は高かった(6)

1907 明治40年 24歳

・父が自宅納屋を改造して柔道場を作り、田辺来遊中の柔道家・高木喜代市(のち講道館9段)に高額で指導依頼し近隣の青年たちと柔道を学ぶ(7)p24
・与六は高木を一軒家に住まわせ高給を払ったという。道場も当初は納屋の一隅を改造したものだったが、いつしか一家を構える道場になった(6)p72
・盛平の妹菊によると当時は襖や障子を何枚もへし折ったという(6)p73

高木喜代市は1894年生まれ、この時に同じく鈴木新吾とも稽古し、大東流を習った後、再び挑むが敗北、その後大本を経て更に高みに行き鈴木が弟子になる
井上鑑昭は10歳の時に高木喜代市に師事したとの記録あり

1908 明治41年 25歳

・中井正勝の手を経て坪井政之輔氏より後藤派柳生心眼流の免許を受ける(合気会)(5)(6)(7)p21(10)(11)
・北海道に行くまで中井道場には頻繁に通っていたという(6)p67
・当時の中井道場には嘉納治五郎、横山忠兵衛がいたという(6)(7)p21
・この頃に村の餅つき大会で杵を折る、稲の収穫で普通の4、5倍の束を天秤棒で担いで県道を通行止めにするなどのエピソードがある(6)p73

関連事項
・羽賀純一、中山五郎蔵誕生

1909 明治42年 26歳

・田辺の山でみそぎなどの修行(7)p22

関連事項
・南方熊楠の神社合祀反対運動に参加、その活動から田辺は神社統合数が全国最小に(6)p77
・中山博道が本郷真砂に有信館道場を建設
・高野佐三郎が高等師範講師に

1910 明治43年 27歳

1月18日
・長女松子出生
・田辺出身の元屯田兵、倉橋伝三郎と北海道を下見へ※スタンレー・プラニンはこの年代を1911年としている(24)

春頃
・北海道開拓の為、紀州団を結成(田辺市ウェブサイト)

時期不明
・屯田兵で和歌山出身の倉橋伝三郎から北海道の話を聞いて興味を持つ(6)p82

その他
・中倉清誕生(14)
・出口王仁三郎を名乗りはじめる(17

1911年 明治44年 28歳

・政府募集の北海道開拓民に応募(10)
・スタンレー・プラニンによれば高木喜代市を招いて稽古したのはこの時期だというが詳細不明、盛平は熱心に稽古したという記録がある一方、井上鑑昭によれば忙しくてそれほど稽古していなかったとも(24)

1912年 明治45年(大正元年) 29歳

・西ノ谷村の北海道開拓移民団体「紀州団体」の団長として、北海道へ(6)p80
・ちなみに54戸80余名で中には準備金不足の者もいたが与六が一万円を出して賄った(6)p86

3月29日
・田辺を出発(6)p80

・道中青森で風邪をこじらせた時、ある娘に介抱されそのまま白滝まで一緒に行く。まもなく妻が来て二人は別れたとか(6)p93

5月20日
・北海道北見国紋別郡湧別村白滝原野増画地に入植、のちに遠軽村⇒遠軽町⇒白滝村⇒遠軽町と移住
・最初の2年間は大不作だが、開祖の着想企画によりハッカ耕作、造材事業、馬産、酪農振興などで定住の見通しが立つ(6)p87
・小学校開設・衛生組合設立・上白滝神社増築などを計画
・盛平持参の軸物、建速須佐之男命を合祀(6)p92


・倉橋伝三郎が盛平に依頼されて道産子馬一頭を用意(6)p91

関連事項
・中山博道が剣道形制定委員に(14)
・惣角、山田すえと結婚(3)
・3月21日、田中万川誕生 (Wikipedia:bansen tanaka)

1913年 大正2年 30歳

・井上鑑昭、小学5年生の頃にストライキを起こし、これに手を焼いた善蔵から田辺の植芝家に預けられやがて白滝に行くことになる(24)
・白滝は不作(6)p87
・盛平は重さ一貫(約4㎏)の刃広マサカリで500本以上の木を伐採(6)p88
・剛力の逸話が多数残される

6月19日
・白滝小学校を上湧別村遠軽尋常小学校所属のもと授業開始(6)p91


・上湧別村衛生組合白滝衛生組合が誕生、初代組長に盛平(6)p92

10月
・第十七部白滝の部長となる(遠軽町史p210)

関連事項
・根岸信五郎没(14)
・5月14日、惣角より大東流を学んでいた佐川子之吉のノートにアイキをかける云々(3)

1914年 大正3年 31歳

・正確な時期は不明だが白滝時代に監獄部屋の逃亡者である飛人とびっちょ3人を倒したり、監獄部屋に売り込まれた青年を助けるなどして新聞記事になり白滝王と呼ばれたらしい(6)p89(7)p31
・白滝時代に宮相撲の大関180cmを投げて武田惣角と勘違いされる(7)p32
・4キロの特注マサカリで開墾作業(7)p33

関連事項
・3月、佐川幸義の父、佐川子之吉が惣角より代理教授の許しを得る(3)

その他
・第一次世界大戦

1915 大正4年 32歳

2月
・十三歳の井上鑑昭、植芝盛平を訪ねて白滝へ行く(Wikipedia井上鑑昭2023/6/26

・北海道遠軽町の久田旅館で吉田幸太郎から大東流柔術武田惣角を紹介され30日ほど滞在して教授を受ける(6)(7)※合気道教室では2月に、また英名録によれば10日間とのこと(30)
・盛平はこのとき以前に力比べをして投げ飛ばした宮相撲の大関に惣角と間違えられたことから、惣角のことを知っていた(6)p95

3月
 5日
大東流『謝礼録』によれば北見國紋別郡上湧村字遠軽市街地にて植芝盛平から10円受領したとなっている。吉田幸太郎も同席(35)
 19日
・『謝礼録』より、場所の記述はないが吉田幸太郎らがおり、盛平から10円受領(35)
・盛平が後述するところによれば、最初の1ヶ月は目新しい技が多かったがそれ以後はあまり新しい技は示さなかった(6)p97
・惣角滞在時の身の回りの世話はすべて盛平が行った(6)p99

4月
・その後、惣角を白滝に招いて自宅に住まわせ、村民が稽古をつけてもらう(24)その他多数の文献あり
・その当時、井上鑑昭は盛平と一緒に惣角の稽古を見学(本人談)(1)
 4日
・『謝礼録』に白滝村で盛平から10円受領の記載(35)

6月
・白滝山中に霊所を設け、祭神(6)p92

11月
倉稲魂命うかのみかたまのみことを合祀し、天照大神、建速須佐之男命の三神を祭祀(6)p92

時期不明
・大正4年頃の惣角の謝礼録には井上の父、善蔵と植芝与六の署名がある(24)
・スタンレー・プラニン曰く植芝の父、与六と家族はこの年か1917年頃までは北海道に滞在していたとのこと(24)

関連事項
・高野佐三郎が神田今川小路に修道学院を建設(14)
・吉田幸太郎、武田惣角から大東流教授代理を拝命(30

1916 大正5年 33歳

1月25日
・『謝礼録』によれば北見國紋別群上湧別村で盛平が惣角の妻、スヱに土地を登記して渡している(35)

2月
 6日

・『謝礼録』によれば北見國紋別群上湧別村字白滝原野 二股市街地にて盛平ほか5名から合計60円を受領(35)
 16日
『謝礼録』の同じ土地で盛平ほか5名から合計60円を受領(35)
 26日
・『謝礼録』の同じ土地で盛平ほか3名から合計45円を受領、盛平は15円支払い(35)

3月8日
・『謝礼録』の同じ土地で盛平ほか1名から合計25円を受領、盛平は15円支払い(35)
・3月付で大東流の伝書『秘伝奥儀之事』を授かる(35)(内容は三拾六ヶ条裏表)武田時宗によれば秘伝目録(3)
※大東流は基本的に10日間の講習を行っていたらしいので、10日ごとに支払いをしていたと思われる(35)

時期不明
・井上鑑昭曰く、父と開祖の父は毎月惣角に相当な金額を送金していたと語る(1)

大正4年か5年頃におじきが東京へ帰ってきた(中略)羽織袴の正装で帰ってきたんです。家の者が「お前、羽織袴でなんだ」って言ったら、いよいよ柔術の先生になったんだと言う(笑)。うちじゃ大笑いしたんです。(中略)4人で1週間くらい東京の家で稽古しました。

『合気ニュース』 75号

関連事項
・4月、出口王仁三郎は大本教を皇道大本に改称(6)p124
・10月7日、武田時宗、誕生(3)

1917 大正6年 34歳

・ハッカ、馬鈴薯、ゴマなどの畑作に成功、造林造材事業も拡大
・北見=石狩間に鉄道を開通するため石北線設置期成同盟結成、後に開通させる(7)p37

4月8日
・盛平は惣角の指導助手になっており『謝礼録』によれば和歌山縣西牟婁郡田邉西ノ谷村441番地と本籍地が記入してある。工藤龍太は指導助手として本籍地の記入が必要だったのではないかと分析している(35)

5月23日
・午前9時頃、白滝に山火事を発端とする大火災が発生し開拓地がほぼ全焼(田辺市)これは鉄道開通のすぐ後だったとか(6)p101(7)p37
・焼失250余戸、死者3名、重軽症25名、罹災者千余名、被害面積350町歩(6)p102
・この日、盛平は鉄道敷設認可促進のため旭川支庁におり、徒歩で帰っている際に空模様から火事を知る(6)p102
・出口王仁三郎、『大本神論』を発表(17

7月13日
・長男武盛出生(6)
・15歳、井上鑑昭が大本教を知る(1)上野で行われていた講演を見に行ったらしい、おそらくこうした話を聞いたり、井上の母ためが金光教(出口なおがもともと所属していた宗教)の信者だったことなどから盛平も大本を知ったと考えられる(24)

関連事項
・スタンレー・プラニン曰く、この頃、井上善蔵は白滝におり火災を期に田辺に戻ったという、善蔵の妻ためは田辺で末娘を出産(24)
・小田網太郎・佐藤完実『女子練胆法及護身術』発刊(5)
・堀川幸道、武田惣角から大東流教授代理を拝命(30

1918 大正7年 35歳

・推されて上湧別村村会議員に当選(6p100)(7p37)(遠軽町史p210)

関連事項
・出口直、昇天
・盛平が白滝にいる間、父与六は一度は籍を移して白滝まで行ったが、あまりの寒さに和歌山に戻ったという(6)p108

1919 大正8年 36歳

3月
・白滝神社起工(植芝盛平Wikipedia)

9月19日
・白滝神社完成(植芝盛平Wikipedia)

11月中旬
・父与六が危篤の電報を受ける(6)p105

12月21日
・一、木造平屋 但疊建具共 右ハ先生様ニ進上致候也として吉田幸太郎立会の下、惣角に自宅を譲渡(35)

12月27,8日頃
・京都綾部の大本教で出口王仁三郎と出会い、その後7日間滞在(24)4、5日とも(7)p40
・王仁三郎は盛平の父について「あなたのお父さんは、あれでよいのや」と述べたという(6)p110

・当時の紀州田辺は鉄道がなく大阪から船でいっていた(7)p40

時期不明
弟子の野中日文によれば、居合について尋ねた時に、北海道で惣角の代理として居合の使い手と最後の真剣勝負をしたことがあると語ったという(野中日文Wikipedia)

関連事項
・11月頃、出口王仁三郎、大正日日新聞を買収(17
・井上鑑昭はこの頃に大本教に入ったとみられ三年ほど亀岡に滞在する(24)

私が大本を知ったのは1917年です。私が19歳の時に、出口王仁三郎聖師から教えを受けたくて亀岡に行きました。それから長いこと綾部に住みました。これは植芝一家が大本本部に来る前です。その約1年後に植芝が家族と綾部に来たのです。私はほとんど綾部にはおらず亀岡にいました。

『合気ニュース』 78号

1920 大正9年 37歳

1月
 2日
・与六死去(76歳)遺言として盛平には「思うまま自由に生きよ」とあった(6)p111
 4日
・綾部より帰郷、父の死により錯乱(6)p112
・山で剣を振り回し、警察を呼ばれるほどだったが、巡査部長が軍隊時代の部下で無事釈放される(6)p113


・周囲の反対を押し切って祖母もひきつれ一家で京都府綾部へ移住、大本教入信(12)
・大本本部西門外の借家に仮住まいした後、出口の計らいで大本聖域内の本宮山麓の一軒家に移転、出口王仁三郎の近侍となる(12)など
・近侍を任され、最高幹部や来客との座談に同席を許され顔を広める(6)p125,126

4月16日
・本宮山上の神殿、三六九みろく殿が完成し地鎮祭が行われ、盛平はこの作業に参加、1人で10人分の働きをしたという(6)p128
・50人がかりで椎の大木をどかせようとしたが動かなかったものを盛平が揺らすと根本がゆるんであとは簡単に処理できた。この話に尾鰭がついて1人で木を抜いたという話になった(6)p128

秋頃
・植芝塾開設(10)移住から三~四ヶ月後(12)

8月23日
・長男武盛死去

9月10日
・次男国治死去

・大本消防隊の副隊長に、隊長は王仁三郎(7)p68

時期不明
・大本では幹部も皆弟子となり出口直日にも柔術や剣道を教えた(6)p130
・夜には大宮山に登り真槍、たんぽ槍、杖、真剣、木刀などで稽古。麻糸でしばったスポンジボールを7、8個円形に周囲の木に吊るして9尺のたんぽ槍で突き分ける(6)p132

関連事項
・田中正之助(後の合気会岡崎支部皇道館道場長)が大本で入門(23)№84

1921 大正10年 38歳

2月11日
・第一次大本事件起こる、出口王仁三郎逮捕(17
・一説には幹部の一人、浅野和三郎が過激な予言などをしたことと、大本の勢力の強さが原因と言われる(6)p146


・『武の真人』で本人が口述するところによれば大正10年の春頃に黄金体体験があったとのこと「武は愛なり」の悟りを開く(7)大正14年のものと別なのかは不明

時期不明
・砂泊諴秀曰く、出口王仁三郎は公判廷で「植芝が別れに来たぞ」と叫び、大本関係者ではないことを周知させるために決別を宣言した(2)953

6月
 17日
・大本事件により逮捕されていた出口王仁三郎保釈出獄(6)p146(17
 27日
・三男吉祥丸誕生、命名は出口王仁三郎による
・王仁三郎は大本の改革を行い、盛平は農園世話係に任命される(6)p147

10月18日
・出口王仁三郎、『大本神諭』発禁に伴って『霊界物語』の口述筆記を開始、盛平はこれに立ち会う(合気道と大本)

秋頃
・井上鑑昭が京都亀岡で出口王仁三郎に師事(1)植芝塾に入門

1922 大正11年 39歳

・保釈された王仁三郎を助けて大本教の復興
・農園を開墾、植芝塾の武術教授とあわせて武農一如の理念を実践
・5㎏も有ろうという特製の大鍬で桑を掘り起こし、土運びも3人前をかつぐ(6)p148
・言霊の研究に没頭
・気・心・体一致の境地を志向しはじめる(6)
・浅野正恭(後の海軍中将)がこの頃に入門

4月
・綾部に惣角一家来る、英名録によれば24日から9月15日まで指導(3)
・井上鑑昭曰く、妻、長男長女、赤ん坊を連れてきた(1)
・井上鑑昭はこの時に惣角に合うために亀岡から綾部に出向いたらしい(24)合気ニュース77号
 28日~5月11日
・京都府綾部の植芝塾で浅野正恭、小牧斧助、出口朝野、井上留五郎、湯川貫一ほか21名に惣角が指導(35)
・武田時宗によれば1921年から1922年の間の5ヶ月間京都府綾部の植芝塾に滞在(3)
・スタンレー・プラニンによれば6ヶ月(24)
・工藤龍太が英名録や謝礼録から確認したところ141日間であったとされている(35)

5月
 11日
・『謝礼録』より惣角は大本出口朝野から10円を茶科として受領、教授を受けた者たちから各10円合計210円を受領(35)
 11日~21日
・植芝塾で小牧斧助、出口朝野、井上留五郎、湯川貫一ほか16名に惣角が指導(35)
 21日
・『謝礼録』より教授を受けた者から計160円を惣角が受領(35)
 21日~30日
・植芝塾で小牧斧助、井上留五郎、湯川貫一ほか大本関係者合計15名に惣角が指導(35)
 30日
・『謝礼録』より教授を受けた者から計150円受領、また他の大本関係者らからも各10円計50円を惣角が受領(35)

6月
 1日~10日
・植芝塾で小牧斧助、井上留五郎ほか大本関係者10名に惣角が指導(35)
 10日
・『謝礼録』より教授を受けた者から計100円を惣角が受領(35)
 11日
・『謝礼録』より兵庫県神戸市荒田町の田島文也から惣角が10円受領(35)
 11日~19日
・植芝塾で小牧斧助、井上留五郎ほか大本関係者10名に惣角が指導(35)
 29日
・『謝礼録』より惣角は綾部で後藤康仁から湯呑を謝礼として受領(35)

7月
 1日~10日
・植芝塾で横尾敬義、外山豊二、渡邊力、渡邊武ほか7名に惣角が指導(35)
 7日
・母、ゆき死去71歳
 13日
・『謝礼録』より教授を受けた者から計70円を惣角が受領(35)
 14日~23日
・外山豊二、渡邊力、渡邊武ほか大本関係者6名に惣角が指導(35)
 23日
・『謝礼録』より教授を受けた者から計60円を惣角が受領(35)
 24日~8月4日
・外山豊二、渡邊力、渡邊武、江上新五郎、谷口雅春ほか大本関係者合計10名に惣角が指導(35)

8月
・出口王仁三郎の命名、惣角の許しを得て大東流合気柔術に改名
・武田惣角より合気柔術秘伝奥儀之事(内容は百拾八ヶ条裏表、合気之術裏参拾ヶ条、秘伝奥儀参拾六ヶ条裏表)及び大東流合気柔術教授代理を許される(5)
・弟子を取る時は入門料一人3円惣角に送ることとの但し書き(1)
・大東流英名録に合気柔術の名称登場(5)
・「合気武術」などを名乗るようになる
 1日
・『謝礼録』より、盛平の妹である葦原菊から25円受領したことを桑原淑子が証人となって記録されている(35)
 4日
・『謝礼録』より教授を受けた者から計100円を惣角が受領(35)
 5日~14日
・植芝塾で浅野正恭、小牧斧助、外山豊二、渡邊力、渡邊武、、井上留五郎ほか大本関係者10名に惣角が指導(35)
 14日
・『謝礼録』より教授を受けた者から計100円を惣角が受領(35)
 15日~24日
・植芝塾で浅野正恭、小牧斧助、外山豊二、渡邊力、渡邊武、、井上留五郎ほか大本関係者10名に惣角が指導(35)
 20日
・『英名録』より伊勢神宮に参拝し、武田惣角と妻のスヱ、次男時宗、三女たいと植芝盛平、江上新五郎でさいき旅館に一泊したと記録がある。ちなみに講習以外の記録で『英名録』に記録があるのはこの一件のみ(35)
※後に盛平が語っていたエピソードがこの時のものであると思われる
・惣角の弟子であった頃に伊勢神宮に参拝する途中、荷物をかついで走っている時に老婆にぶつかりそうになって以来、曲がり角に注意するようになった(23)№52
 23日
・『謝礼録』より惣角が錫器5枚と茶卓を海軍少佐外山豊二から受領(35)
 24日
・『謝礼録』より教授を受けた者から計100円を惣角が受領(35)
 27日~9月6日
・植芝塾で浅野正恭、井上留五郎に惣角が指導(35)

9月
 6日
・『謝礼録』より惣角が教授を受けた浅野正恭、井上留五郎から各20円計40円受領(35)
 15日
・大東流教授代理、進履橋、新陰流兵法之書、三学を授かる(5)(3)(35)※惣角は小野派一刀流、直心影流、鏡心明智流の修行記録はあるが新陰流は不明
・『謝礼録』より惣角が盛平から餞別として刀剣一振りと100円を受領(35)
 24日
・『謝礼録』より惣角が餞別として38円50銭、謝礼として10円を受領(35)

・大本の食料自給体制責任者「農園世話係」(幹部職)に就任し農園900坪の開墾を行う

画像1
武田惣角と大東流合気柔術より

関連事項
・武田惣角は北海道に戻り1930年代半ばまで北海道から出なかった(3)
・浅野正恭とは?

弟の和三郎が1916年4月大本に入信し12月に綾部に移住
反対していたが、やがて大本に魅せられて入信、大正10年立替説という終末論を弟と共に全国展開したため後の弾圧を招く。1924年7月11日、弟と共に大本を脱会1946年日本心霊科学協会設立に関わる。古事記に関する著書多数

(浅野正恭Wikipedia)


1923年 大正12年 40歳

関連事項
・井上鑑昭、王仁三郎の許しを得て大本を離れ、田辺へ戻り和歌山県内外を渡り歩く(24)

その他
・関東大震災

1924 大正13年 41歳

2月
 13日
・王仁三郎と共に理想国家建設の為、モンゴルに行く※井上鑑昭曰く、本来は井上が着いていく予定だったが病の為行けなかった(24)
・現地で柔術を指導(霊界物語)
 15日
・奏天に着く
・張作霖の手引きにより大馬賊盧占魁ろせんかいの軍と内外蒙古独立軍を結成
・戦闘で相手からの「光のツブテ」を察知して弾丸を避ける

3月
 3日

・偽装した自動車で奉天を出発し、夜通し北へと向かう(7)
 4日
・開原城内に到着、車を修理するもまた一台壊れたので機械を取り寄せる為ホテルに宿泊、日本領事館から身元調査を受けたため岡崎と王仁三郎が先に出発(7)
 5日
・王仁三郎と合流するも自動車は大破、荷馬車で新四平街の奥村幹造の家に泊まる(7)
 6日
・平馬慎太郎の案内で四平街駅から汽車で山本熊之宅に宿泊(7)p111
 7日
・汽車で洮南とうなんへ(7)p111
 8日
・到着、洮南旅館で別働隊の松村一行と合流(7)p112
 11日
・城外で銃撃音がしきりに聞こえる(7)p112
 16日
・満鉄社員が四平街の日本憲兵隊に密告(7)p112
・盛平は同志に稽古をつけ、朝から晩まで稽古するので摩利支天と渾名される(7)p113
 22日
・王天海(矢野)が蒙古の隊長張桂林と公爺府の協理老印君をつれてきて奥地へ向かう手筈が整う(7)p113
 25日
・早朝に三台の車で出発、催家店という小集落で一泊(7)p113
 26日
・張文海宅まで辿り着き、歓待を受けた後に公爺府の老印君宅へ大歓迎される。王仁三郎に病気を直して貰いに行列ができ、盛平も鎮魂をほどこす(7)p114

4月
 14日

・盧占魁が二百人の手兵を率いて合流(7)p116
 24日
・各地より義勇隊や武器が集まる(7)p116
 26日
・王仁三郎を蒙古救援隊大上将として索倫ソーロン山へ出発(7)p116
 27日
・索倫山が見える木局子モチズに到着し、盧占魁と合流(7)p117

5月
 14日
・上木局子に到着、盛平は王連長や王参謀に柔術を教授(7)p119
 20日
・出口王仁三郎、北京で世界宗教連合会設立(17
 23日
・下木局子に向かい、王仁三郎が好天を雨天に変える奇跡を起こし、盧占魁たちの信用を得る(7)p122

6月
 3日
・行軍開始、下木局子を離れる(7)p124
 5日
・先鋒が不審な方向転換(7)p125
 9日

・出口王仁三郎、人類愛善会設立(17
 11日
・食料が尽き、阿片嗜好者は憔悴、落伍者も増加、ラマから炊米の供給などを受けてなんとか空腹を満たす(7)p127
 14日
達頼汗ダライハン王府一族の管内で宿営するも不審なほど歓迎されない(7)p127
 15日
・王府の兵と銃撃戦(7)p128
 16日
・盧占魁の右腕的な存在だった曼陀汗マンダハンが銃撃に斃れる。張作霖が裏で何かしていることが明らかになっていく(7)p129
 17日
・夜日本人で会議、猪野が蒙古人に調べさせた村民の噂によれば白音太拉パインタラで慮討伐のための軍隊が出動準備中とのことだったが盧占魁は信じなかった(7)p130
 20〜21日
・盧占魁の裏切りを恐れた張作霖の策謀によって吉林省白音太拉付近で泊まった鴻賓館で歓待を受けるも密かに部下達を暗殺され、寝込みを襲われて全員捕まる(7)140
・盧占魁は銃殺
小日向白朗、出口救出のため奔走
 22日
・銃殺刑にかけられかけるも直前で取り止めになり九死に一生を得る(7)p143
・およそ10日間に渡る領事館の交渉により解放される(7)p145
 30日
・6月30日まで取り調べを受け、足枷をはめられたまま写真を取られる(7)p148

パインタラでの捕虜写真
左から2番目が出口王仁三郎
3番目が植芝盛平
『合気道開祖植芝盛平伝』より

7月
 5日

・護送先で夕暮れに日本領事館に引き渡される(7)p147
 6日
・奉天総領事館に収容され取り調べを受けて3年の退清処分を言い渡される(7)p147
 21日
・ハルピン丸で内地に出発(7)p148
 25日
・門司に到着、大本信者が旗を持って出迎え凱旋将軍を迎えるような光景(7)p148
・この頃から、槍術の稽古を開始

・大国以都雄は死線より戻った盛平は物腰が柔らかくなり細かいことに気がつくようになったと語る(6)p167

大正末期
・西村秀太郎、入門(10)出口王仁三郎と問答しに行くが盛平を紹介され、挑むも笑いながらあしらわれてこんな武道があるのかと入門、大本の信者にもなり富木謙治をはじめ早稲田柔道部員が多数道場に入門したらしい(7)p161

関連事項
・中島五郎蔵、有信館入門し明治神宮競技大会出場、修道学院黒崎稔に勝つ(14)
・望月稔、極心流柔術を学ぶ(10)
・富木謙治、嘉納治五郎に出会う(19)p284
・押川群一が綾部で入門、戦後は宮崎県で指導(23)№70
・この頃に後に大月流合気柔術創始者となる大槻豊も弟子になったという(6)p130

1925 大正14年 42歳

春頃
・黄金体体験を経て「我即宇宙」の妙諦(7)p69(30)等

黄金体体験に関してはその前段階に若干の矛盾がある。
舞鶴軍港から体験にきた海軍軍人の中の海軍将校で有名な剣道教士、剣道6段の男と立ち会い、素手対竹刀で首を抑えて投げた(7)や竹刀対竹刀で相手の尊厳を傷つけないために構えたまま何もさせなかった(28)などして相手に勝った後に、水浴び中に起こったとされている。
吉祥丸著(36)によれば素手対竹刀で庭先で立ち合いすべての攻撃を躱してみせたという。

6月
・小西康裕がこの頃に入門(小西康裕「図解空手入門」1953)

・九州など各地で合気武術の指導にあたる
・胃腸・肝臓の持病発症
・富木謙治、西村秀太郎の紹介で入門(この頃の稽古は大東流の影響が強いと語る)(5)(10)
・西村は折った白紙を手にした盛平にこれを取ってみろと言われ、触れることすらできずに投げられて入門を乞う(6)p176
・柳原白蓮、大石ヨシエといった女性も入門
・浅野正恭の紹介で海軍大将竹下勇が盛平を知る、後に東京へ招く(7)p150
・この頃、槍の稽古(日本財団図書館 合気道普及用テキスト

植芝塾にて
子供は吉祥丸

この年、井上鑑昭は東京におり、モンゴルから帰還した影響か盛平は体を壊しがちだったため竹下や島津への指導は主に彼が行っていたらしい、盛平が東京に指導に来た際は介抱も行っていた(24)合気ニュース73号

12月
 1日
・竹下勇日記によると第一回目の青山御所の稽古

大正14年12月1日
午前十一時頃、浅野氏、植芝盛平、井上與一郎氏ヲ伴ヒ来訪。
大東流柔道ノ形ヲ示ス。能ク研究ヲ極メタルモノニシテ、稽古スルノ価値十分ニアリ。明日ヨリ習フコトニ約束ス

『竹下勇日記』より

 1日~14日
・伯爵山本権兵衛(元総理)等各界要人の前で演武を披露
・片方に積まれた米俵の山を、槍を使って反対側に積み替えるパフォーマンスで山本権兵衛に「明治以来はじめて生きた槍を見た」と評価される。翌日、山本権兵衛が孫とともに訪問し援助を約束、青山御所で21日間の講習会(6)p183(7)p151(15)
・2日の竹下日記には大東流柔術、3,5,6,7,8日には大東流、9,12日には「やわら」といった名称が使われ大正15年から「合気柔術」もしくは「柔術」という標記になった。竹下の家で稽古が行われた(38)
・貴顕人の前での演武、受けは井上鑑昭
・柳生新陰流、下条げじょう小三郎と交流を持つ(合気道探求)下条は退役海軍中佐で新宿十二社に道場をもっていた(23)№70
・下条は何度か植芝道場を訪ね、最初に訪問した時に大坪指方によれば袋竹刀を初めて見た様子で、それまでに新陰流を知っていた様子はなかったとのこと(36)
・盛平が大本教の者だったことから警視総監、検事総長、内務大臣、陸軍大臣、宮内大臣等が協議する事態となりスパイ疑惑が持ち上がる。一説には警視庁や武徳会からの策謀も綾部へと戻る(6)p184(7)p152
・バラモン修行者加藤某に挑まれた出口の代わりに塩水を大量に飲む、吉祥丸によれば、これが原因で健康を損なった一因となっている(6)p187
・この頃に紀州、九州、山陽などを巡り武道を普及(6)p185

1926 大正15年・昭和元年 43歳

・武道の新境地を開く。本格的に「合気の道」と呼称する(合気会HPより)


・竹下大将の招請により再度状況、四谷愛住町の梅田潔邸を連絡所とし、宮中、陸海軍、財界関係者への指導その後、場所を品川森村市左衛門邸の中に移しながら長期滞在しての東京での指導を行う

2月15日~3月19日
・竹下勇日記によれば青山御所で第二回目の稽古が実施(12)p66
・竹下日記には2月20日から3月15日までの23日間休みなく愛住町で稽古があったと記載。3月19日には盛平が弟子の久保田秀太郎と共に「奥義ノ巻物二巻」を持参し見送ったとの記載(38)

2月25日
柳生新陰流第十九世柳生厳周の高弟、下條小三郎との交流があったと推測される(5)

大東流由来の英名録
『合気道開祖植芝盛平伝』より

4月
・高橋三吉によればこの頃に竹下勇の勧めで植芝盛平に入門した(我が海軍と高橋三吉)

5月
 9日

・竹下勇日記によれば久保田秀太郎より電話があり盛平の上京を告げられる(38)
 10日
・盛平が竹下勇を訪ねる(38)
 11日
・四谷愛住町(ここは梅田潔の別宅らしい)の盛平の所に竹下が訪ねる(38)
 17日~6月9日
・車町(現港区高輪2丁目)吉村邸に場所を移して6月8日まで稽古、9日に竹下勇に見送られ帰路についた(38)
・竹下勇日記によれば青山御所で第三回目の稽古も実施されたという(12)p66


・体調不良を押して稽古していたがある日稽古後に意識を失いかける、胃腸、肝臓、肋膜の障害(6)p187(12)p54
・倒れているのを植木屋にみつかり医師から胃癌の診断を受ける(7)p153
・王仁三郎が上京してきており、盛平と面会、綾部へ戻るよう諭される。その後すぐ、警視庁から門弟で先鋭的右翼分子だった角田の件で取り調べを受け翌日解放され綾部へと戻る決意を固める(7)p154
・岡田幸三郎、藤田欽也(後の合気会理事)入門(合気道Wikipedia)

7月
・富木謙治、大本教本山で夏いっぱい稽古
 大正15年から合気武道を植芝守高氏に入門してはじめたと語る(日本体育者「学校体育10」1954)

・この頃に盛平は病気療養中だったが、山本権兵衛や竹下勇が警視総監と話をつけ、後援者の小川喜兵衛が直接綾部にきて上京を勧めたため再度の上京を決意(7)p154-155

9月
 25日
・竹下を訪ねて明日からの稽古の相談、萬盛館に宿泊(38)
 29日

・竹下勇日記によれば青山東宮御所で警備にあたる武官などに稽古(38)
 30日
・竹下勇日記に御所以外の場所で稽古があったと記載、青山御所道場でも稽古(38)

10月
 1日~20日

・青山御所道場で稽古、20日まで竹下日記に稽古があったとの記録。ただしこのすべてに盛平が参加したかは不明(38)
・この講習の期間中に盛平が大本の信者であることが発覚し、問題になったという話もある。盛平は竹下の立場を悪くすることを嫌い帰ろうとした(38)

11月
 7日~24日

・竹下勇日記によれば7日に山本権兵衛が稽古の見学に訪れる。竹下勇は24日まで連日稽古。本年の稽古終了と日記に記載(38)
 25日
・竹下勇日記によれば盛平と久保田を晩餐に招待(38)

関連事項
・羽賀純一、有信館入門(14)
・昭和の初め頃に二木謙三が入門したと言われている(13)p199
・天のとり舟、ふるたまの行は二木謙三がやっていたのを開祖が取り入れた(13)p200

二木謙三
玄米菜食主義やマクロビオテックの導入などでも知られている。
二木謙三は禊会を主催しており、禊の行法として川面凡児の禊法を参考にしていた。そうした手法を盛平も取り入れたものと思われる。
また玄米食なども影響を与えていた。

二木謙三Wikipedia

1927 昭和2年 44歳

2月
・竹下大将をはじめ東京で指導を受けた人々から請われて再び上京(6)p189
・ほとんどの財産が入っていた財布を落とす(7)p155
・王仁三郎の勧めもあり大本教から離れる
・京都府綾部から一家で上京し芝白金猿町に居住、近くの島津公爵邸の下屋敷を改造した道場で、各界名士の指導
 1日
・竹下勇日記によれば2月1日に引っ越し3月1日に皇武館道場稽古始め(12)p66
 28日
・竹下勇は稽古場をつくるために森村男爵を訪ねている(38)
 2月の時期不明
・新陰流19世柳生厳周の高弟、元海軍中佐・下條小三郎から柳生新陰流剣術を学ぶ
・後援会「相生会」結成、相生流合気柔術を名乗る(以後、合気武術、合気武道など)武芸流派大辞典によれば昭和3年~10年頃まで相生流と名乗っていたとされている(武芸流派大辞典1969)

3月1日
・竹下勇、盛平の住居と稽古場となる港区高輪の森村邸を検分(38)

4月
 8日
竹下勇、森村男爵邸で盛平の稽古を受ける(38)
 11日
・盛平に胸痛があり竹下が医師と按摩を招く。原因は胃痛(38)
 14日
・盛平が不加減の為竹下が代理で稽古(38)
 18日
・盛平が不加減の為竹下が代理で稽古(38)

5月
 8日

・盛平、島津公爵邸訪問(38)
 17日
・竹下邸を訪問(38)
 18日
・帰郷(38)
・その後、東京では竹下などが代理して7月5日に一先ず中止となるまで稽古が続いた(38)

9月
・吉祥丸と盛平の妻はつが上京(6)p189
 2日、16日
・竹下が稽古場再興のために山本清と協議(38)
 27日
・竹下勇、稽古再開、以降盛平が来るまで東京では竹下が稽古を行っていた(38)
 28日
・竹下の所に富木謙治が訪問(38)

10月
・富木謙治によればこの頃に盛平は一家で東京に来たという(38)
 28日

・竹下勇、山本清から道場整備の報告を受ける(38)

11月
 2日
・竹下勇、山本清と袖ヶ崎の道場を見学(38)
 9日
・竹下勇、盛平と大崎(島津公爵邸仮道場)を訪問(38)
 11日
・大崎の道場で稽古再開、山本清、渡辺明、荒井、富木、水谷叔彦が来会、午後には竹下の娘3名と山本清の娘2名、内田信也、富木、山路が来会(38)
・竹下勇日記によれば青山御所で第六回目の稽古が実施(12)p66

12月27日
・竹下勇の日記によればこの日まで稽古が続いたとのこと(38)

・植芝吉祥丸曰く、この頃には大東流とは言わなくなっており、大正末期から昭和のはじめにかけて「植芝流合気柔術」「合気柔術」「合気武道」といった名称を使っていた(1)
・『大菩薩峠』作者、中里介山が見学にくる(7)p156
・海軍大学校の学長、高橋三吉大将が入門し、これがきっかけとなって海軍大学での指導が行われる(7)p160
・吉祥丸によればこの頃に学生柔道の覇者・笠原厳夫、阿部信文らが入門していたという(36)

関連事項
・海軍大将の山本英輔がこの頃に入門(合気道Wikipedia
・中倉清、鹿児島大道館武道専修学校入学
・西尾昭二、青森県下北郡大畑町木野部に生まれる(蕨合気道会HP:故 西尾昭二師範について
・この頃に二木謙三も入門、早朝から弟子を叩き起こしては投げていた(10)
・力自慢、大槻豊(後に大槻流を自称する)が在籍していたとのこと(23)№63

1928 昭和3年 45歳

この頃は「合気柔術」を名乗る(23)№92

1月
 9日
・竹下勇と盛平の稽古が開始(38)
・芝三田綱町にある内海勝二男爵邸の隣の借家を提供されて転居し八畳二間を改造し仮設道場に
・吉祥丸、内海勝二の紹介で赤羽小学校に入学、昭和4年まで内海氏の借家から通う(6)p191(10)
・百武源吾、近藤伸竹(全員後の海軍大将)入門(合気道Wikipedia

2月
 2日
・竹下勇日記に呼吸投の稽古との記載(5)
 17日
・竹下勇日記に本日より相生流合気柔術と称することにせり(※約一年間相生流の名を使った)(5)
・相生会という同好会が設立される、会長は竹下勇(38)

3月
 3日
・出口王仁三郎、みろく大祭開催(17
 12日
・竹下が盛平の引っ越し先を訪ねる(38)

4月
・この頃までは竹下は大崎に通っており、そこで稽古が行われていたとみられる。そのため三田鋼町の道場は5月頃に完成した可能性がある(38)

10月
・千葉孝子が上京して浅野中将から聞いて植芝道場を探し当てて入門(松本保三「千葉孝子武勇伝」1936)

時期不明
・久保写真館館長、久保嘉弘が新宮市にある尾崎酒造酒蔵2階で合気道の稽古を開始、開祖を招く(21)
・相生合気柔術秘傳目録として伝書を発行している。内容は大東流のものと変わらない(35)

「吉祥丸が小学一年生の時、植芝盛平のどなる声はライオンのように太く鋭く奥深く響く声であった。コラーという大声に内弟子は、またかと思う位、恐怖に縮みあがって道場の隅に逃げて小さくなっている姿をみたものである」
「当時の稽古は大変荒く現在の稽古する人たちの技と異なったものだと思う、技も大変に異なってきている」

村重有相(23)№37より

・学生柔道界のホープと呼ばれた笠原巌夫(後の佐々木巌夫)、阿部信文、入門※現時点では正式な記録が見当たらない
・近くに慶應義塾大学があり、福沢三八他大学関係者も多く入門
・砂泊兼基、綾部での盛平の演武を見て入門(1)
・石井光次郎、入門。後の総理大臣、朝日新聞社で働いており朝日社内に合気道を広めた、大阪での指導も石井の紹介から(6)p193
・石井によればこれよりも前に盛平がデモンストレーションのために兵隊一小隊を集めて円陣をつくらせて人ずつかかってくるのを全員投げていったという(6)p193

関連事項
・講道館の鏡開きの時に富木謙治、柔道5段になる(10)

1929 昭和4年 46歳

2月
・芝高輪車町にある泉岳寺脇の家に転居(仮道場)
・教授対象を厳しく制限(皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部層・入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人)
・鎌田久雄、高輪泉岳寺の道場に入門(1)1102/4381
・歌舞伎役者、六世尾上菊五郎、間を習う為に入門(6)著書の『おどり』にはその時のエピソードも書かれているらしい(31)
・猿之助、松居松翁、中里介山(『大菩薩峠』著者)、入門(6)相撲の大の里、入門(7)p156
・西見武、東京での内弟子第一号 ※記録があまりない
・この頃、吉祥丸は空手でも知られる小西康裕の良武館にて剣道を学ぶ(10)p30
・惣角の弟子、陸軍の三浦将軍が大東流を勝手に改名し合気術などといっていることが許せず乗り込んでくるがわ二、三十分話した後、たまたまいた成瀬言彦を相手に形をみせ三浦と稽古し大東流とは違うことを理解させたという、三浦はその後に入門(7)p156-157

4月
 5日

・文藝娯楽委員会の会で植芝守高を招請して合気武術試演会の開催が決まる(帝國鉄道協會會報30(5)1929年5月)
 9日
・試演会開催、来会者150人程(帝國鉄道協會會報30(5)1929年5月)

6月14日
・竹下勇日記にて「合気武術懇話会」が開かれたとの記載(5)

12月
 8日

・大本教の日本穂院役員任命記に「任掌籍」植芝守高の記録(日月日記12之巻)
・出口王仁三郎、大森八景園で盛平と共に畠山夫人の電気マッサージを受けたと日記に記述(日月日記12之巻p141)
 14日
・梅田氏邸にて植芝守高が来訪したとの記述(日月日記12巻p274-275)

・高橋三吉曰く、昭和4年の末に海軍大学の校長になり、弟子であったこともあり合気武術を生徒にも教える為取り入れた。当時御入学していた久邇宮朝融王くにのみや あさあきらおう殿下も毎日欠かさず道場に立っており、盛平と高橋が相手をつとめたという(高橋三吉「海を征く」1943p133-135)
・塩田剛三によれば一度だけ海軍大学にお供した時に、宮様に無礼のないよう足を上げずに倒れなければならなかった。結果的に高松宮、久邇宮、竹田宮、秩父宮、李王殿下、北白川宮などが集まり、久邇宮と李王殿下は植芝道場にも来ていた。妃殿下への指導には身分などの問題もあってか塩田剛三が受けとして連れていかれたという。宮家では久邇宮、李王殿下、竹田宮が三年ほど稽古をしていた(39)

関連事項
・竹下勇、実話雑誌に「武田惣角武勇伝」発表(Wikipedia)
・中倉清、中山博道と出会う
・羽賀純一、皇館警察に正式任官
・中島五郎蔵、警視庁に奉職、助教となる
以上(14)より
・竹下勇海軍大将『武田惣角武勇伝』発表(3)
・富木謙治、除隊
・榎本春之介(榎本武揚の息子)が入門(23№76)

1930 昭和5年 47歳

・牛込若松町、旧小笠原家下屋敷後を借りて道場建設、その間、目白台(下落合)に転居(仮道場)
・井上鑑昭が最初の内弟子(1)
・岩田和也、鎌田久雄、金子規矩が内弟子としていた
・二木謙三の紹介で森紋太郎入門(1)1130/4381としていた
・植芝守高名義「武術の極意ー合気武術の威力」日本魂ー国民精神作興雑誌ー青少年団研究機関ー新宗教至誠教機関2月号(5)
・望月稔によれば道場が完成してすぐに武田惣角が来たという。3時間ほど話して、桃井春蔵の道場跡を見てきたと語っていたらしい(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

2月15日
・出口王仁三郎、和歌山の植芝家邸宅に立ち寄る(庚午日記2之巻p84)

4月
・専門道場創建の為、建設募金委員会発足

6月
・おそらく綾部で惣角と会う(3)

10月
・目白道場に嘉納治五郎が来訪し(23)№70 盛平の演武に感動し、講道館より望月稔他門下生数人を研修のため派遣「これこそが私が理想とする武道である」
・望月稔、武田二郎、講道館より派遣されて入門(※)嘉納治五郎から選抜されたのは4名という記述もある、ひとりは村重有相でもう一人は富木謙治(山口合気会ホームページ2023/6/21)
・大東流を学んでいた三浦真陸軍少将が分派に憤慨して道場破りに来たがその技に感嘆して入門、その依頼で陸軍戸山学校への指導が決まる(6)戸山学校では生徒達を使って執拗に盛平を試すが悉く薙ぎ倒した結果、指導が決まったらしい(7)p159-160

11月
・森紋太郎に相撲で負けた岩田一(後の一空斎)が目白道場に行き、入門してもいないのに勝手に鎌田と稽古して開祖に怒られる(23)№70 その後、二木謙三に紹介状を書いてもらい入門(1)1272/4381

時期不明、誤差数年
・花柳流舞踏家元、先代花柳寿美すみは舞の新作発表前に盛平の批判を聞いたという。また、中山博道は盛平の演舞を見学、門弟を送って稽古させる(7)p162
・実際に塩田剛三は花柳寿美が戦時中歌舞伎座で薙刀の舞をやるために10人ほどの女弟子とやってきて10日間の稽古を受けたという。盛平は教えるために「牛若丸」を読んで参考にしたとも語る。稽古した花柳の舞は薙刀の先生が感心するほどだったという(1)2768
・中山博道とはこの頃から交流をはじめる(6)p238
・望月稔、後に加納治五郎の許しを得て植芝道場内門人頭(塾長)となる(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

関連事項
・羽賀準一、大日本雄弁会主催剣道優勝大会優勝。皇道義会武道大会優勝
・中倉清、有信館入門、羽賀純一をけしかけられるも互角(14)

1931 昭和6年 48歳

3月
 20日
・おそらくこの日に惣角が道場に来て1週間滞在、望月稔が対応、その後は開祖自らお世話する(1)
・高橋賢によれば惣角はこの時に桃井春蔵の道場跡を徘徊してから植芝道場に来ており、惣角は鏡心明智流に通じていたと分析している(36)
 20日~23日
・『英名録』に盛平の自宅で井上要一郎が惣角から大東流合気柔術の教授を受けたとの記載(35)
・開祖が体調不良だったため井上鑑昭が相手をし、英名録に名前を書かれたと語っている(1)
・井上から惣角への謝礼はない(35)
 28日
・『謝礼録』より盛平から惣角へ謝礼として300円支払われる(35)
 20日〜4月7日
・『英名録』より盛平が自宅で惣角から『八拾四ヶ条御信用ノ手』を教授されたとの記載(35)(5)(3)
※「八拾四ヶ條御信用ノ手」は大東流の伝書の名称ではなく「大東流合気柔
術秘伝奥儀之事」と「大東流合気柔術秘奥儀之事」の伝書中に記入される文言のこと、当時の大東流における最高位(35)
・この時は盛平の弟子達は惣角から指導を受けた記録がない
・この免状が久琢磨のものと同じ文面なので解釈総伝之事まで習っていることになる(佐藤)
・これ以降、植芝盛平への指導記録はない(3)(35)
・吉祥丸によれば盛平は惣角から金縁に入った大東流の免状二点を道場に飾っておくようにと授与されたが、惣角が去ると降ろしてしまったという(35)

・この頃の講習会案内状には大東流合気柔術並に合気武道とある
・この頃の指導で一ヵ条、二ヵ条、四方投げ等、神の名前と働きを関連づけ始める

4月
・牛込若松町102(現新宿区若松町102)の皇武館道場落成(80畳)月謝は講道館の10倍の30円(合気道一路(10)では3月に道場開き)
・軍部の要請を受けて指導(陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校)
・海軍大学校、陸軍大学校、海軍機関学校、海軍兵学校、陸軍憲兵学校、陸軍兵務局、朝日新聞社、各警察署、警察特別隊、大阪住友クラブ、東亜経済調査局、工業倶楽部有志会、塩水港製糖K・K、満洲国建国大学、満洲国神武殿(15)
・陸軍大学校長は前田利為、後の皇武館理事、羽賀準一が来ていた時に盛平が挨拶もしなかったのはこの人
・柔道和歌山県代表で三段だった湯川勉は講道館に乗り込むもコテンパンにやられて腹いせに近所の皇武館に道場破りをしにいって開祖に腕を掴まれただけで動けなくなりその場で入門を決意、保証人を集めて布団持参で許されるまで玄関にいた
・船橋薫、湯川勉、白田林二郎、村重有相、入門
・牛込は地獄道場と畏怖される
・大阪に支部道場多数開設(10)

7月
 11日〜17日

・岩田一の案内で講習会が行われるという案内状がある。会費は2円、会場取締役は竹下勇(5)

8月16日
・大本の更生祭第二日に奉納演武、植芝守高、井上正治、押川群一、橋口勘七、武田二郎、市毛五郎、鎌田久雄、岩田一、湯川勉、船場動らが参加、相生流の試合実演(月の家「更生日記8之巻」p298-300)

9月18日
・満州事変

10月10日頃
・桜会を結成し、クーデターを画策していた橋本欣五郎が出口王仁三郎と会談、植芝盛平は護衛として任され「事を起こした瞬間から七人の合気武道の達人を付ける」と約束(田々宮英太郎「人われを異端と呼ぶ:昭和史の人間ドラマ」1967)(経済往来16(9)1964年9月)

11月
・望月稔、静岡に養正館道場を開く、盛平は竹下、三浦真少将、海陸の将軍、榎本春之介、伊藤、小西康裕等、華族、財閥知名の門人と共に式に参加(武産通信「望月稔と合気道」2021/7/4)(1)
・この時に柄杓を持った農夫と弟子たちが争いになったのを収めたらしい(武産合気に同様のエピソード有)

時期不明
・盛平はこの頃から大阪への指導が多くなり一ヶ月の内、一週間は大阪の別宅に寝泊まりしていた(24)

関連事項
・堀川幸道、惣角より1月に秘伝目録、6月に秘伝奥義目録、10月に師範を許される(3)
・中倉清、4月に宮内省皇宮警察官拝命、5月に精錬証
・羽賀純一、警視庁助教に就任
・引土道雄、母の勧めで剣道をはじめ、以後、居合、柔道、空手道、槍、棒術、馬術、銃剣術などに励む(21)
・望月稔、正月に肋膜炎と肺結核を併発して1ヶ月絶対安静(27)
・望月稔曰く、当時朝日新聞で合気道のことが度々紹介されており、それは久琢磨がいたから、開祖の演武の受けは富木謙治(1)1575/4387
・この当時の東京での生活は井上鑑昭の叔父で日本有数の資産家だった小四郎が莫大な資金援助を行ったらしい(24)

・船橋薫について

大本信者。植芝盛平の縁戚。受身技で有名。『武道練習』の挿絵のモデルの一人。竹田道場はじめ武道宣揚会支部で指導助手。1935年前後大阪で指導を行なうが、それ以降の活動については不明。1940年頃、結核のため死去。
他の弟子達からも開祖のお気に入りで技も非常に上手かったと評価されている。
吉祥丸(36)によれば皇武館で頭角を現し、真槍を持ったまま自由自在に受身を取れたという。湯川勉と並ぶ存在だったと語っている。

(どう出版人名辞典)(1)

1932 昭和7年 49歳

・東京では飯田橋に富士見町道場(畔柳久五郎斡旋)、小石川大塚に大塚道場(野間清治講談社社長提供)、他数カ所道場ができる
・大阪では曽根崎道場、吹田道場、茶臼山道場ほか数カ所の支部や支部的拠点ができる
・米川成美曰く、有閑倶楽部(大阪実業団クラブ)の指導が主だった(1)1960/4381
・富田建治大阪府警察本部長(のちの長野県知事、内閣官房長官)と森田儀一警察署長らの推薦によって管下全警察署に出向教授
・朝日新聞の久琢磨の依頼で大阪朝日新聞本社でも指導(旭流)
・米川成美、大阪造幣局でも演武、柔道の有段者が多かったが感銘を与えることができた(1)1971/4381
・中倉清はこの頃に植芝道場には竹下勇から話が行って原田積善会会長大角大将から毎月百円の送金があったという。竹下本人からは盆暮れの贈物があった(1)2556/4381

5月
・塩田剛三、入門(10)金的の前蹴りを取られて投げ飛ばされる(塩田剛三Wikipedia)塩田剛三によれば当時は朝5時から夜9時まで一日中稽古していた
 23日
・中倉清、植芝盛平の娘と結婚し養子縁組した上で入門、一時期植芝家の養子でもあり、この影響で皇武館道場内に剣道部が創部、白田、橋本、船橋などの内弟子が中倉から指導を受ける。中山博道と持田盛二から名前を取り植芝盛博と名乗る(1)2532/4381

6月10日
・門弟の井上鮮治を同伴して一週間に渡って毎日指導、各地で実演もして京都立命館中学や名古屋にも支部の設置希望があった(月の家「千申日記7之巻」p173)

4月12日に大本教は天恩郷舊天聲社工場の一部に武術の道場をつくり湯川勉が合氣柔術、舞鶴機國学校共感柔道5段で同じく植芝の門弟である高橋大江が柔道を隔日で指導。入門者が多く100名を超え四十畳でも狭いほどで、男子夜7時半から9時、女子午前5時半から6時半・午後2時から3時希望者は時間外指導もあったという

月の家「千申日記7之巻」

7月
 16日

・出口王仁三郎、竹下勇、相生流始祖・植芝守高の主唱で大日本武道宣揚会を結成したとの記載(千申日記7之巻p308)

8月13日
・出口王仁三郎、道主を植芝盛平に大日本武道宣揚会設立(17
・当初は大本で600ほど支部があった昭和青年会の武道部として発足し組織が拡大した結果、出口王仁三郎の許しを得て宣揚会となった(1)3723
・はじめは亀岡に本部があった(1)3740

10月23日
・兵庫県朝来市和田山町の当時は誰も見向きもしなかった竹田城址を「愛善郷」と命名し、虎臥山のふもとに竹田別院を開設(おほもとHP
・酒造家の酒蔵百坪を200畳、米倉30坪を60畳の道場につくりかえる(7)p166
・生活は自給自足(7)p168

時期不明
・井上鑑昭曰く、亀岡の天恩郷で指導していた時に、やんちゃな人間はみんな竹田に送るという話を出口王仁三郎としたとのこと(1)
・京都の大本道場での指導の帰りには養正館に立ち寄り数日滞在する、望月稔に大東流合気柔術奥伝印可の巻物二巻「大東流合気柔術護身の巻」「大東流合気柔術奥伝」を授与(1)(5)
※なお大東流形式の巻物は1930年代半ばまで、富木謙治、白田林二郎、塩田剛三ら数百名に渡された模様(合気ニュース)
・塩田剛三によれば、入門当時の植芝道場は20名以上の門弟がおり、月の半分は関西方面の住友関係の道場へ指導に行っていたという(合気道の楽しみ方p6)

関連事項
・赤沢善三郎、米川成美、星哲臣、杉野嘉男などが皇武館に入門(6)(唯心館HP
・杉野は演武に魅せられて入門したとのこと(1)3063
・望月稔、憲兵隊の教師となり様々な所で指導(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

星哲臣またの名を星愛記
開祖が稽古をつけている時に後ろから襲いいかかるなどのエピソードがある(9)p162-163
星合気柔術と称して道場を開くなどしたが、戦後、捕虜収容所に関連する罪で戦犯として満州で絞首刑にされたと言われている(1)

・羽賀準一、宮内省皇宮警察部主催済寧館武道大会精錬証新進剣士五人総当り試合全勝優勝。全国警察官武道大会団体優勝。皇道義会武道大会団体優勝
・精錬証高点試合優勝(18)
・中倉清、第七回明治神宮大会優勝(14)
・スタンレー・プラニンは昭和7年からの約10年を大東流から離れて合気武道を名乗った時代としている(2)
・天竜、相撲革新運動を起こす(2)
・惣角、佐川幸義を助手に関東を回る(3)佐川は大東流教授代理を拝命(30
・米川成美、赤沢善三郎の紹介で内弟子の藤沢から合気道を学ぶ(10)
・望月稔、開祖より「大東流合気柔術奥伝」と「大東流合気柔術護身の巻」二巻を伝授され『大東流合気柔術指南』の看板を出しても良いと許しを得る。また、この時に植芝盛平から婿養子へとの話もあった(27)


1933 昭和8年 50歳

1月23日
・東京水交社で行われた第二次定例講習会で合気武道の説明の為実演(海軍有終会「有終20号」1933年3月)


・大阪にて法務大臣石井光次郎の紹介で大阪朝日新聞社の久琢磨らに指導(5)

5月
・大本教信者の子供だった鎌田久雄は竹田や亀岡で指導するようになる(1)1177/4381
・赤沢善三郎はここで2年半井上鑑昭の受けを取る。開祖は一週間か10日滞在しては東京に帰っていた。井上方軒が常駐(1)3276
・赤沢善三郎曰く、当時は竹田の道場近くの豆腐屋の離れを借りて植芝夫婦と三人で暮らしていた。鞠町の富士見町道場や三軒茶屋、支部道場で教授する際も同様。三軒茶屋では富木謙治の親戚で平福百穂という日本画家のアトリエを借りていた3281
・技術書『武道練習』出版、挿絵は国越孝子、モデルは船橋薫、米川成美(1)
・井上鑑昭が満州に渡る(合気道探求)、満鮮地方では山岡鉄舟の高弟で一緒に稽古もした大木一徳が宣伝をしてくれていた(1)
・外郭団体として門下生の懇親会、正眼会が設立
・植芝流合気武術を合気武道に改める(12)p62
・食事は麦飯、二木謙三の推奨で玄米食も行われた(7)p168
・導士、宣士、助士の三階位が設けられ資格者は地方に派遣された(7)p169
・この頃から試合が禁止されていた(7)また宣揚会の趣旨からもスポーツ化を嫌っていたことがわかる
 1日
・兵庫県朝来郡竹田町に武農一致を標榜し竹田道場開設、武道宣揚会の道場だが多くの内弟子や武道家が集まる(1)
・盛平と講習生33名が出口王仁三郎と会談し、亀岡を去って武田へ出発(26)
 6日
・道場鎮座祭、道場開き、湯川・鎌田・村重を受けに実演(26)
・定期稽古時間は9時~10時と14時~15時の二回(26)
 7日
・湯川が大津支部へ、井上は関西へと出張(26)
 8日
・秘書の片野を同伴して東京へ(26)
 25日
・金剛山上の葛原神社で演武、受けは湯川、船橋、井上、竹下大将も奉納に参加(26)
 26日
・住友会館にて大阪憲兵隊や有志に実演、受けは井上、湯川、船橋(26)
 27日
・亀岡に寄ってから原田講習生同伴で竹田に戻る(26)
・片野、井上、村重はこの日、神戸出帆のたこま丸で大連へ満州へと向かう(26)
 31日
・水頭多麻男を伴って東京へ上京、途中で亀岡に寄る(26)

6月
 16、17日

・東京道場を出て大阪関西出張所に二泊(26)
 18日
・三浦将軍随行で竹田に戻り一週間に渡って指導(26)
 19日
・総本部道場で講話「武道の惟神の術」(26)
 20日
・総本部大神様鎮座祭、門人数十名と産土神社参拝祈願(26)
 22日
・大本本部より20日付けで母が逝去したとの電報、土屋和雄を従えて亀岡で葬儀、その後、竹田に戻る(26)
 26日
・船橋、水頭、井上の随行で東京へ上京、関西出張所で一泊(26)
 27、28日
・夕方に大阪を出発し翌日早朝に牛込道場に着く(26)
・東京では朝6時から夜は8時まで毎日4回の稽古指導(26)

7月
 8日

・5月の金剛山での演武を見学した谷田茂太郎の希望などにより、200名余りの見学人の前で演武、その後、著名な軍人などに指導と実演(26)
 9日
・北米南加州みなみカリフォルニア日本人第二回学生柔道見学団の前で実演、その後、全員入門(26)
 15日
・大日本武道宣揚会機関紙「武道」刊行(26)

9月以降
・この年か若しくは翌年、羽賀準一24,25歳の頃、開祖をインチキだと思って韓国転換を機会に挑戦、道場を一周する間、一本も打てなかった(18)(4)荒川博が聞いた話によると開祖の鎮魂帰神法ができそうになかったので弟子入りをあきらめたとか(31)
※羽賀準一に仕掛けた打とうとしても打てないやり方は後に袖山豊作にやったものと同じではないかと思われる
・中倉清、第7回明治神宮体育大会剣道競技一般30歳未満の部に植芝盛博の名で出場し、優勝(18)文献によって時期がズレている

10月
・小西康裕が合気武道・植芝守高の示唆と神道研究家山口弾正の援助で神道自然流空手術を創始した(小西康裕「解空手入門」1953)

時期不明
・竹田近くにある生野の銅山の鉱山従業員の柔道場から試合を申し込まれ、開祖の許可を得て門弟が向かい、意気揚々と帰ってきた(7)p174
・この頃までに盛平は惣角の名前を記した大東流目録を数百名に授与したとされている(35)
・竹田大本青年と直弟子の若者たちとには軋轢があり、喧嘩沙汰になることもしばしばあったが盛平の一喝で解決した(6)p219
・塩田剛三によれば、夏に20日ほど内弟子40名前後を集めて竹田や鞍馬山での稽古をしていたという(39)

関連事項
・中山博道、有信館道場開き(14)
・奥村繁信、満州にて建国大学合気道部に入門(2)

1934 昭和9年 51歳

2月
 吉日

・『武道練習 壹之巻』の巻末に昭和9年に石津作次郎なる人物に「右目録相伝候事如件」との記載

4月
・吉祥丸、東京府立六中(現・新宿高校)入学(10)p32
・吉祥丸に鹿島神道流剣術を学ばせる(10)p32
 吉日
・『合気柔術傳書』(内容は武道練習)が渡された記録あり

6月
『合気柔術傳書』(内容は武道練習)が渡された記録あり

目録
『合気道開祖植芝盛平伝』より

 5日
・『謝礼録』によれば長女、植芝松子が惣角に15円の餞別を送る。当時は盛平は不在だったと見られている(5)(35)
・中倉清曰く、惣角は生活費を送らないと厳しく催促してきた(1)2635/4381

・当時の学生柔道優勝者、阿部謙士郎と電車内で出会い小指だけで抑える
・阿部謙四郎、杉野嘉男、久琢磨、入門

5月
 4日、5日

・皇太子御誕生奉祝、昭和天覧試合にて演武、前日まで高熱で体調不良のまま晒木綿布二反を胸から腹に巻いて演武、剣道の部で優勝した野間恒が入門するきっかけに(7)p162
・小石川音羽の野間道場に招聘して稽古した(7)p162
・恐らくこの際に、盛平は野間が得意とする面を打つ前に胴を棒で三回突いてかわして見せると言って実際に実演したという(糸川欣也「百歳の壮年」1954)

7月11日
・中倉清、合気道を学ぶために皇宮警察を退職
・陸軍大将、東条英機が関東軍事司令の時、富木謙治の技を絶賛し熱心に学ぶ(合気道Wikipedia)
・高松宮宣仁親王、1936年まで海軍大学で武術師範の盛平から学ぶ(合気道Wikipedia)

・会報「皇武」と高岡貞雄によればこの頃に夏季講習があったという
三元会Aikido Shihan Sadao Takaoka – Meeting O-Sensei

関連事項
・中倉清、日本体育専門学校(後の日本体育大学)、東京商科大学(後の一橋大学)の剣道部師範を務める(18)
・羽賀純一、京城帝大予科師範就任(14)
・広田善隆、入門(1)1136/4381
・鎌田久雄曰く、この頃、岩田一空斎は吉祥丸の勉強を見ていた(1)
・米川成美曰く、この年か前の年に惣角が来ていたとのこと、ただし特別に指導を受けると言ったことはなかった(1)1916/4381
・この頃の吉祥丸は一教から五教、四方投げ、入身投げを一応知っているという程度(10)p28

1935 昭和10年 52歳

・記録映画『武道』(大阪朝日新聞社製作 久琢磨監督)収録、受けは米川成美(1)
・植芝守高名義で皇國武道論を月刊維新11月号に発表
・武道宣揚会の関係で井上鑑昭と村重有相などの弟子を中国、朝鮮、満州に派遣

5月
中倉清、宮内省済寧館剣道大会で優勝

夏頃
富士山中湖畔のボーイスカウト夏季大会で竹下勇が合気道披露の演武、受けは米川成美(1)

11月
・雑誌「維新2」11月号に植芝守高名義「皇國武道論」が載る

12月8日
・第二次大本教弾圧事件発生
・警察より事情聴取を受けるも、弟子の大阪府警察本部長富田健治と曾根崎警察署長森田儀一により1日で放免(1)(3)(7)(10)
・皇武館道場では吉祥丸が神棚や出口王仁三郎の掛け軸を撤去(1)1868/4381中倉清はこの時に『植芝塾』や字の入った額を焼いたと語っている。またこの件について開祖も何も言わなかったとも(1)2607/4381
・このことで大本幹部からは不信感を抱かれる(1)1224/4381
・国越孝子曰く、第二次大本事件の時は先生について大阪から京都亀岡、また大阪に戻って紀州をまわる旅行中だったとのこと(1)
・富田健治はあえて盛平を1日取り調べさせて調書を取り、この愛国者を政府転覆や不敬罪で逮捕するのはとんでもないとして押し通したのではないかと吉祥丸は推測している(6)p226

・野間恒、入門

時期不明
・有川定輝曰く、この頃から大本の教えとは少し変わってきたらしい(2)
・吉祥丸曰く、この前後で「合気武術」と名乗る(1)
・吉祥丸曰く、この頃に関西の中井(正勝?)から剣、槍、杖(柳生新巌流?)などを学んでいた(1)
・岡山県倉敷市の中洲郷皇武會による中洲郷皇武武道場を建設、起工式に参加(岡山民報縮刷版:オール読物昭和11年度版)

関連事項
・村重有相、満州に渡る(日本ミャンマー合気会2023/6/26)
・米川成美、この頃に大阪造幣局や朝日新聞社での指導を任され開祖と交代で久琢磨の自宅に泊まりながら指導を行ったという(1)1971/4381
・望月稔、柔道5段に(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)
・塩田剛三曰く、1935年~1937年あたりに当時同学年だった木村政彦の師匠、牛島辰熊が開祖の演武を見て「自分の弟子を挑戦させたい」と申し出たところ開祖が快諾した為、木村政彦を呼びに行かせ、それを悟った塩田剛三はそれを止めるために絶対に来るなと木村政彦に言いにいかせ、対決は実現しなかったという逸話があるらしい(参考
・望月稔によると盛平と牛島は木村と立ち会う約束をして待っていたが、とうとう木村がやってこず、盛平の勤めの時間が来て何事もなく別れたというエピソードを語っている(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

1936 昭和11年 53歳

・米川成美曰く、昭和11年の早い時期に軽井沢にある野間道場で講談社写真部がライカをつかって技の分解写真を撮影(1)1982/4381赤沢善三郎、中倉清も同席(1)3317
・中倉清曰く、武田惣角が皇武館やってきて大阪朝日新聞で指導していることを漏らしてしまったという(1)2635/4381
・大阪朝日新聞の曾根崎道場には吹田の田中万川の道場から通っていた。大阪事務所には白田、湯川が常駐、東京からは塩田、米川がお供(1)3323

6月
・武田惣角が大阪朝日新聞社に来訪するも盛平は合うことなく東京に去る、この後惣角は1939年まで指導を続ける。惣角来訪の件に関しては久琢磨によれば突然現れたとされ、武田時宗によれば招待されたとされている。吉祥丸は久琢磨が招待したのではとの見解(3)(30
・田中万川入門、井上鑑昭より指導を受ける(1)

4月20日
・武田惣角、埼玉県浦和警察署で講習会

5月31日
・阿部謙四郎、宮内省皇宮警察が主催した柔道五段選抜試合で4人抜き、木村政彦を破る(Wikipedia:阿部謙四郎

8月頃
・中倉清、植芝家と離縁、10月27日、再び皇宮警手に任官

10月
・吹田市駅前玉屋旅館にて田中万川と初会見、井上鑑昭も同席しており、三重の警察に指導していたので泊まるところがあれば大阪でも指導するとのことに10日で場所を用意する(1)話を聞いた男が合気道とはどんなものかひやかし半分に訪ね、腕を取ろうとした瞬間に二、三メートル投げられて入門を決意、空家になっていた撞球場を入手して道場にしたとのこと(7)p175
・以後先生が来る際は浴場の一番風呂を用意していた。盛平の背中はこぶだらけだったらしい(7)p176
・忍術を見せるとして門人達に一斉に攻撃させ姿を消して六、七メートル先の二階階段に現れた。後にまた頼んだら「わしを殺す気か」と怒られたという(7)p177

11月
・田中万川、吹田市内に合気道道場を設立、井上鑑昭から指導を受け、植芝盛平は月に二回来訪、これが3年続く(1)
・富木謙治、新京に移住し大同学院、関東軍、宮内府で指導(合気道探求)

・吉祥丸曰く、この頃から剣の演武がある際には受けは自分だった(1)近くの女学校の依頼で剣の相手をしたのが初めての盛平との演武(10)p33

関連事項
・中倉清、皇道義会錬士優勝(14)
・米川成美、12月に満州へ富木謙治と大同学院新京憲兵教習所などで指導(1)指導内容は合気武道(19)p284
・天竜が関西相撲協会を解散(1)
・平井稔、皇武館道場に入門(2)

1937 昭和12年 54歳

・海軍大学校で週に一度若手将校に合気武術の指導(参考:源田実「盧溝橋事件勃発」『海軍航空隊、発進』文藝春秋〈文春文庫〉、1997年8月(原著1961年)

5月16日
・嘉納治五郎の紹介で鹿島新当流宗家・吉川浩一郎に弟子の赤沢善三郎と共に血判状付きで入門、稽古を受けたのは赤沢のみ(5)
・鹿島新当流からは青木政重他2名の門人が派遣され、盛平は赤沢との稽古を観察し後であの剣はああだったこうだったと研究した(1)3353
・高橋賢によれば後に斉藤守弘が残した一之太刀などからは鹿島新当流の影響が見られるという(36)

7月7日
・源田実、盛平から最後の稽古を受ける
・満州軍に指導
・引土道雄、14歳で新宮市の尾崎酒造酒蔵2階にある道場に入門
・盧溝橋事件が発生、支那事変(日中戦争)へ

12月5日
・満州国武道顧問・建国大学武道顧問就任・合気武道は建国大学の正課に
・白田林二郎、召集(山形県合気道連盟

時期不明
・昭和12年頃、妻はつと奈良に旅行(6)p71
・吉祥丸によればこの頃から盛平は本格的に剣の研究をはじめた(6)p238
・吉祥丸自身も思う所あり夜に合気道の稽古をはじめる(6)p237
・塩田剛三によれば半月ほど大阪で弟子の前田利為公爵の関係で住友家と婚姻関係にあった小倉正恒などの協力で堀船町住友クラブで住友の社員に指導、大阪青バスで在郷軍人団に指導、大阪島の内署にいる剣道範士古賀と他数名、吹田の植芝道場(田中万川の家ではないかと思われる)などを周っていたという。責任者は白田林二郎という話も(39)

関連事項
・富木謙治、この頃に憲兵隊の師範(2)
・吉祥丸曰く、この頃から本格的に合気道をはじめる(1)以降、一日に4~5時間の稽古、当時の開祖の指導は店舗が早く短時間に多くの技を教えた、座り技が多かった、稽古人数は10人程度(23)№55

その他
・中倉清、宮内省済寧館大会優勝(14)
・11月14日、磯山博誕生(合気会茨城支部道場HP

1938 昭和13年 55歳

・神尾庄治曰く、当時の呼称は「合気武道」(23)№93

1月
・天竜が満州に入る(10)

・賀陽宮殿下、「皇武館」道場御台臨、演武を御高覧
・陸軍戸山学校校長・賀陽宮殿下の要請により技術書『武道』作成

『武道』の受けには若き日の塩田剛三もいる

3月
・木村果入門

当時は植芝流合気術で紹介者なしには入門できず、入門時には御留流として外に漏らさぬよう誓約書を書かされた。

合気道の思い出

6月吉日
・『武道』巻末に右奥義之事相伝候の記載

7月
・陸軍中野学校が開校し合気道教官を務める
・陸軍省兵務局嘱託勤務(15)
・満州建国大学が創立、富木謙治が助教授に就任、「合気武道」を指導(10)826/4381また武学を講義(19)p284

関連事項
・中倉清、教士号取得(14)
・天竜、1月に体育指導官として満州へ
・米川成美、満州国協和会に入り、青少年の組織活動、対八路工作を万里の長城付近で行う(1)2012/4381
・平井稔が岡山市に道場「恒河洞」を創設(日本光輪会HP
・満州建国大学では朝と夕に稽古があり、皇族が参観に来ると近藤秋太郎などが模範演技をしていたという、その他、中川敬一郎、永島清、西山竜雄などが富木謙治から指導を受けていた(社会思想研究22(8))
入門して二年ほどすると出稽古に連れていかれるようになり、先輩の内弟子が出ていったことからいつの間にか古参になっていたと語る
(39)
・望月稔はこの頃にモンゴルに渡り、蒙古人中学校で剣道柔道を教える(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

1939 昭和14年 56歳

・この前後の時期で「合気武道」を名乗る(23)№92
・武道振興会臨時委員となる(10)(15)
・田中万川召集のため吹田道場閉鎖
・藤平光一、入門
・中倉清、羽賀準一、中島五郎蔵といった剣士が出入りしており、皇武館剣道部として各種武道大会で活躍(6)
・吉祥丸も鹿島神道流を学んでいたため、合気道と剣の関係が密接になる

満州国武道大会
・合気道が満州建国大学正課になり、顧問となる
・井上と共に満州に渡り、満州建国大学で初の演武。受けは井上、当時の日本武道界の名人、達人を一堂に招いて公開武道大会が開かれたという(6)p245
・この演武を見ていた無敗の女性剣士園部秀雄藩士が「神武」だと評価したらしい(7)p163

・この演武をみた全満在住の武道家に請われて中央銀行道場で再び演武、受けは井上与一郎(6)p245
・この時に満州国武道会常任理事だった和久田三郎(天竜)を投げ(1)(10)(30)等、天竜はその晩宿舎を訪ねて弟子入りを志願すると牛込若松町に来なさいと言われ、あんたなら三カ月もやれば充分だろうと告げられた(1)3615

3月
・久琢磨、惣角より免許皆伝を許される(3)

4月
・吉祥丸、早稲田大学政経学部予科第二学院に入学(開祖は神道系の大学への進学も検討していた)
・田中万川、召集される(1)
・天竜、入門し翌日から稽古に参加、その後まとまった休みを取って3ヶ月70日間集中的に修業(1)3587※これには7月頃とする説(1)(6)と本人による11月からという説があるのでここでは本人の談を信じる

9月
 18日
・大陸進出に当たってスパルタ式花嫁学校と題して文武両道の女子を育成するため乃木山道場道林禅寺二代南天棒平松亮卿老師と共に大津山恵以子を館長として牛込乃木山道場春風館に夫人武道の春隆館が開校(時事通信社「時事年間昭和15年版」)
 26日

・政府による国民体力向上の一策として武道振興委員会が組織され、臨時委員として任命される(醫海時報(2366)1940年1月13日)

11月
・天竜本人が相撲一路で述べているのは康徳5年(1939)の11月に新京を出発
 26日
・天竜、東京牛込の道場に到着6ヶ月かかる過程を2ヶ月で終わらせたとのこと(37)
・天竜、午前、午後二回の猛烈な稽古に加え月、水、金は夜稽古もあった(37)あまりの厳しさで稽古6日目で倒れる。その後抜群の進境をみせ盛平は各地各所の出張稽古にお供させた(6)p249三週間でようやく平常の自分に戻れたと語る。相撲とは違う苦しさがあった(37)

12月
 10日

・天竜、盛平と三河白山神社参拝
 11日
・帰京
 16日
・天竜と共に大阪へ
 17日
・住友倶楽部道場で稽古
 19日
・伊勢皇大神宮参拝
 20日
・津市武徳殿で県警察部員に指導
 21日
・鞍馬に参拝、奥の院義経修行跡に登る
(37)

・天竜と塩田剛三、三重の県庁、大阪の住友道場を回って鞍馬山での稽古へ、三日三晩暗闇での木刀稽古(1)
・初日の早朝三時にお参りに行こうと言われ、盛平は草履、天竜は裸足で盛平の背中を押しながら鞍馬山の階段を上がった(1)3632
・塩田曰く京都の植物園の中に合った漢学者林羅山の家を買って愛弟子二、三人を連れて毎年一回21日間の修行をしていた(1)2748
・塩田によればこの時の稽古には白田林二郎も参加しており、三人で交代しながら盛平の背中を押して山を上がったという。そこから20日間朝昼晩は一汁一菜、ご飯少量に沢庵三切とみそ汁、魚が出たのが二度のみ、朝は5時に起床し木剣の素振り500、体の動きの練習、先生と同じ動きをひたすら1時間、その後に朝食、10時から体術の訓練を2時間、昼食を取り3時から2時間先生を掴んで技を受ける。その後、反復練習、夕食を取ったら剣豪小説などを読み聞かせ残る二人が肩や腰を揉む、9時に就寝、弟子達は10時頃就寝するが3日に1度くらいのペースで2時か3時に起きてきて鞍馬山の牛若丸の修行場で真剣を打ち込み合う闇の稽古がはじまる(39)

植芝吉祥丸、赤澤善三郎、天竜、右端は三浦誠?
皇武館道場にて

 22日
・帰京(37)

関連事項
・中倉清、紀元2600年奉祝全国武道大会最年少出場、道議会教士優勝(14)
・小谷澄之、外務省の依頼により南米各国に柔道普及の為に派遣されることになり、星哲臣に合気武道を習う(10)
・早川宗甫、この頃に陸軍中野学校で植芝盛平に師事(植芝翁先生の教え)
・3月26日、刀璽館正雄、久琢磨、大東流合気柔術免許皆伝(5)
・大東流にてはじめて皆伝之事が登場(5)
金井満也、入門
・元力士で後に居合道連盟の会長となる檀崎友彰も植芝盛平と交流があったとされるが、これは天竜の影響かも知れない、詳細は不明
・満州の演武会には剣道の高野佐三郎、中山博道、斎村五郎、柔道の永岡秀一、磯貝一ほか多数が集まったという(6)p245
・吉祥丸、体重不足、全身衰弱で陸軍士官学校不合格(10)p38

1940 昭和15年 57歳

1月
 19日

・天竜と香取・鹿島両神宮に参拝し皇武軍の武運長久祈願、塚原卜伝修行場跡を見る(37)

2月7日
・天竜の70日に渡る修行が終了「その武道は、正しき剣法を体術として研磨したもの」(37)

4月30日
・財団法人皇武会発足、厚生省より寄付行為の認可
・初代会長・竹下勇、副会長・陸軍中将林桂、理事に公爵・近衛文麿、陸軍中将前田利為、東京帝国大学医学部教授二木謙三、伍堂卓雄、藤田欣哉、富田健治、岡田孝三郎ら
・高柳蓮子の紹介で知り合った宮坂照蔵が二万円寄附

5月頃
・奉祝二六〇〇の一環として(30)満州国新京特別市(長春市)の武徳殿で演武、受けは塩田剛三、柔道の小谷澄之七段(当時)、剣道教士六段の陸軍小将、数名の柔道家らを圧倒(13)(合気道余談 藤野周一『みちのく合気』第五号)(4)(6)p245


・吉祥丸、剣道部入部(10)

9月10日
・午後1時から講堂で講演及び実演(修養団「向上34号」1940年9月)

12月14日午前2時頃
・1時間の水行の後、大猿多毘古神が植芝盛平の血脈に降臨:本人談(8)
・吉祥丸によればこの日、岩間で盛平は修祓しゅうふつの儀を執り行ったという。先導の前座に中西光雲、中座に秋山惟雲(6)p258

時期不明
・新たに陸軍大学、憲兵学校、海軍兵学校、陸軍機関学校などで指導
・茨城県岩間への合気神社建設に着手
・富木健二、湯川勉に合気道界では初の八段授与(19)
・阿部俊一(後の醒石)、二木謙三の禊会に入り合気道を知る(恩師を訪ねて
・早川宗甫が陸軍参謀本部軍事調査部こと陸軍中野学校に入学、植芝盛平から合気武道を習う(東南アジアの不死鳥)
・岩田一空斎が上海に皇武会支部道場を開く(名古屋市役所合気道部のお知らせ2017/8/29)鎌田久雄曰く、5段か6段を賜っての上海行きだった(1)1156/4381

関連事項
・中村天風、天風会設立
・藤平光一、19歳、春頃に若松町で体験に行き植芝盛平に投げられて入門(気の確立)(2)
・1月18日に星哲臣柔道5段が講道館で「皇武」と呼ばれるものを披露したとの記録がある(柔道11号4月1940年)

1941 昭和16年 58歳

4月
 1日
康徳7年4月1日時点で満州建国大学に島谷八十八、福島清三郎と共に武道顧問として在籍(満州国官史録 康徳7年4月1日現在1940年12月)

・吉祥丸、早稲田大学第二高等学院に入学、本格的に合気道に取り組み始める(10)p38
・富木謙治、満州建国大学教授に就任(10)
・竹下勇海軍大将の働きかけで斎寧館道場で天覧演武、最初は「嘘をみせるわけにはいかない」と固辞するも最終的に同意(https://note.com/doushuppan/n/n353d6095a379)重症の黄疸により担がれたまま会場入りするも演武をする、受けは湯川勉と塩田剛三、湯川は開始後すぐに腕を骨折(1)(6)(10)(合気道の楽しみ方p6)

殺した相手は二度と起き上がってこないので嘘になってしまうとのことだったが竹下勇が説得、これが今日の演武の多人数掛けに影響を与えたのかも知れない

・憲兵学校にて指導
・陸軍学校の生徒30人が植芝を試す為に襲いかかり返り討ちに会う(首謀者は荒川博の親類)(季刊合気ニュースNo.142)(6)p240,241(31)
・国民体力審議会臨時委員となる
・大澤喜三郎、柔道師範の吉田英雄に頼んで開祖を紹介してもらう(2)(※)皇武館道場への入門は藤平光一の数ヵ月後
・満州国神武殿顧問になる(合気会)(10)
・岩間に野外道場の設置をはかる


・満州へ
・吉祥丸、肋膜炎発症(10)p46

秋頃
・吉祥丸、2ヶ月に及ぶ入院生活を終える(10)p43

12月
・太平洋戦争勃発
・近衛文麿らの意を受けて湯川勉を伴って秘密裏に出国(30)畑俊六と共に蒋介石との和平交渉を試みるも失敗(6)p253
・吉祥丸曰く、開祖はこの頃から大病を患った影響で腸を壊す(1)
・吉祥丸、田辺で療養生活に入る(10)p44

時期不明
・塩田剛三によればこの頃に東亜経済調査局付属研究所(スパイ学校)や在郷軍人団などへも指導を行っていたという(合気道の楽しみ方p8)

関連事項
・塩田剛三、支那派遣軍総司令官、畑俊六の秘書として台湾、中国、ボルネオ島などを周る(塩田剛三Wikipedia
・奥村繁信はこの頃に中野憲兵学校に開祖のお供で行ったと語る(2)
・阿部醒石、第一回禊会に参加、二木謙三に出会い合気道を知る(2)
・白田林二郎、赤沢善三郎、出征(10)p194

1942 昭和17年 59歳

・「合気道」と呼称しはじめる(23)№92
・平井稔、合気道をはじめる(2)
・皇武会が戦時統制策により大日本武徳会に統合され合気道部となる(2)
・皇武会の総務長になった平井稔を代理人として派遣・皇武館道場長は吉祥丸に(2)盛平は岩間へ向かったという(6)p256
・1935年から林野を買って2万坪の敷地に合気神社を建立すべく岩間へ(10)
・韓国最後の皇太子李垠から金壱百円賜る
・武徳会合気道部が発足“合気武道”から正式に“合気道”を名乗る
・茨城県西茨城郡岩間町に転居「合気苑」(合気会茨城支部道場HP
・大阪で合気道を知った阿部正が岩間で入門
・この頃、砂泊諴秀も若くして皇武館に入門
・吉祥丸、召集されて和歌山歩兵第六十一連隊へ出頭。憲兵隊長は盛平の弟子だった為、軍隊への合気道の指導を頼まれるがその日のうちに帰郷を命じられ退散する。以後、吉祥丸は東京で憲兵隊に合気道を指導したが終戦まで赤紙は来なかった(10)p46

4月
・満州国建国十周年奉祝大武道大会(2)(30)、新京神武殿で演武、湯川勉も同行(どう出版人名辞典)受けは大庭英雄(2)
・奥村繁信曰く、この時の演武は溥儀皇帝も見ており、大庭はガチガチに緊張しており襲いかかってきたので開祖は演武の後に怒ろうとしたら薙刀の園部秀雄が今日一番素晴らしい演武でしたと声をかけたので怒るに怒らなくなった(4)p173
・多田宏の兄弟によると建国10周年記念演武はほとんどの人が受身を取れないほど凄いものだったとのこと(2)1750
・帰国後、湯川勉は飲み屋で陸軍の兵隊と口論になり懲らしめた後に油断した所を背後から銃剣で刺されて死亡(どう出版人名辞典)(10)
・砂泊諴秀曰く満州から戻った盛平は「彼は強すぎたんだ」と漏らしたという(29)
・吉祥丸、早稲田大学第二高等学院に復学(10)p48

8月
・出口王仁三郎、保釈される(17
・吉祥丸、赤紙により召集されるも身体検査で落とされ即日帰郷(10)

満州建国大学神武殿前
8月11日撮影、開祖と共に富木謙治、大庭英雄、藤田昌武など

10月
満州から帰国後、大腸カタルがどうしてもならなかったことから、西勝造の指導の下、断食と生野菜食で健康をとりもどす
敵の力の利用、テトラパシー、正三角四面体の哲学など共通する哲学が多く、西勝造も合気道を習得し後に理事になる(田中栄太郎「西勝三伝 坤巻」p127)

時期不明
・大澤喜三郎曰く、この頃から開祖が体調を崩しはじめ一時は命の危険もあったが峠を越える、これが岩間へ移る契機となる(2)
・有川定輝曰く、岩間に行きはじめた頃から開祖は言霊学者・中西香雲と出会う、以降、22~23年頃までは言霊に関する勉強を相当行っていたとのこと(2)
・藤平光一、召集され開祖から手紙が送られたが何が書いてあるのかサッパリわからなかったとのこと(23)№57
・武専時代の阿部謙四郎と電車で出会い、指を取らせた状態から抑えて弟子入りさせる。阿部謙四郎は合気道稽古の経験を活かして木村政彦に勝ったと言われている(wikipedia:阿部謙四郎
・盛平、砂泊諴秀に「この武道は神様から授かったお道やで、三ヶ月やったら天下無敵になるのや」と伝える(29)
・西尾昭二の証言では武徳会時代に開祖と知り合った空手家の袖山豊作は「歩いているから突けるなら突いてごらん」と言われ、近づいて背後から突こうとするがその度に「どうした?」と振り返られて間を空けられ、突くことができなかった(2)2031※おそらくこれは羽賀準一に対して行ったのと同じものではないかと思われる
・吉祥丸、保護中退に配属される(10)p50
・阿部正、皇武館に訪れ通い始めて数日後に吉祥丸に投げられて感激し、依頼兄のように親う(10)p75
・詠歌本紀:聖徳太子詠額の喜捨芳名欄に植芝守高名義での記載、一口10円

関連事項
・中倉清、新京神武殿にて金沢憲一郎と試合(14)
・西尾昭二、滝野川区(現北区)柔道仙波道場入門(蕨合気道会HP:故 西尾昭二師範について)9月1日講道館へ行き後日入門許可証を貰う(2)
・11月、平井稔が陸軍憲兵学校教官に就任、その間「陸軍憲兵体術教範」を編集(日本光輪会HP
・望月稔、蒙古政府薩拉斉県参事官となり庁内に武道場をつくり蒙古族ウイグル族有志に柔道・剣道・合気道を教える(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

1943 昭和18年 60歳

・奥村繁信曰く、この頃に「合気武術」から「合気武道」を名乗っていた(4)p173

5月3日
・武田惣角死去(84)、開祖は大病を患い参列はせず
・岩間町に合気神社建立

時期不明
大澤喜三郎、皇武館道場に入門(2)
・平井稔を中心に大澤喜三郎、石井龍三、伊東義耀など数名が血判状をつくり吉祥丸に後を継ぐよう依頼(10)p27
・大病にかかり、二木謙三医師が岩間まで往診
・奥村繁信曰く、この頃に大日本武徳会が設立、合気武道の名称が合気道へと変わる。天真真陽合気武道と呼んでいた時期もあるらしい(2)
・吉祥丸曰く、体調を持ち直してきて髭を伸ばしはじめる(1)
・弟子たちが出兵し道場が緊迫する中、長野、三重、愛媛の県警から選抜されて柔剣道の高段者が派遣されて3ヶ月ぐつ出稽古にきた(6)p242

関連事項
・多田宏は開祖の技がこの頃に大きく変化したのではないかと分析している(13)
・平井稔、出兵(2)曰く戦争の激化によって稽古は朝晩少しだけ(2)

1944 昭和19年 61歳

4月15日
・1日印刷で『合気道 巻之壱』が植芝康悦名義で出版


・合気神社神殿が完成(合気会茨城支部道場HP)(6)p266

関連事項
・羽賀純一、陸軍召集(14)
・3月、米川成美は満州現地で召集され、ソ満国境警備の八師団に入隊、7月にはフィリピン・レイテ島守備のために朝鮮釜山で船団を組んで出動したが大半が潜水艦に撃沈させられ九州大隈湾に帰港、そこから沖縄の守備にあたり12月から終戦まで台湾の守備にあたる(1)2017/4381

1945 昭和20年 62歳

・体調を崩して長らく臥せる
・大澤喜三郎曰く医者も難しいというほどだった(2)1153

3月10日
・東京大空襲

4月10日
・吉祥丸、空襲により道場が燃えないように消火活動(1)(10)p59

8月
高岡貞雄の証言によれば開祖が武産合気などで語る白い幽体の自分との稽古はこの頃に2週間に渡って合気神社で行われた
 15日
・第二次世界大戦終了、吉祥丸、皇居前で泣き崩れる(10)

時期不明
・財団法人皇武会道場の活動停止
・弟子たちが戦地から帰還
・合気神社附属としての茨城支部道場、合気修練道場が完成(合気会茨城支部道場HP
・吉祥丸、合気道の一般普及を打診、許される
・和歌山で西本幸三郎と出会い、合気道を始める、のちの和歌山合気会支部長(10)
・奥村繁信曰く、これ以前の合気道には「一撃必殺」といった表現もされていたが「神武不殺」へと変わった(2)

関連事項
・羽賀純一、中山博道より英信流居合伝授(14)
・西尾昭二、講道館入門(蕨合気道会HP:故 西尾昭二師範について)9月1日に講道館へいって誰もいない中、受付に入門願いを出す。おそらく戦後第一号とのこと(2)この後で4段になる頃に空手の袖山豊作と知り合い、武徳会時代に開祖をとうとう突けなかったという話をきく(2)(どう出版note「西尾昭二」
・富木謙治、シベリアに抑留される(19)p284
・7月、平井稔が日本武徳会範士の称号を授与され、唯一の合気道範士となる(日本光輪会HP
・8月18日、満州国崩壊
・10月、平井稔が光輪洞道場を静岡市に創設(日本光輪会HP

1946 昭和21年 63歳

・岩間で近郷の青年たちを指導しつつ武農一如の生活を送る

2月頃
・石原健三が帰国し岩間に10ヶ月滞在(10)p69
・出口王仁三郎、大本を愛善苑として再出発(17

5月頃
・阿部正が復員(10)p69

阿部正は父の阿部嘉蔵が匙をなげるほどの乱暴者だったが、戦時中に稽古して藤平光一と同じ5段になる。
岩間で誤解からヤクザの親分を痛めつけ大問題になり、藤平光一と植芝吉祥丸が謝りに行った。

中村天風と植芝盛平
(10)p81

7月
・斉藤守弘が岩間合気修練道場に入門(2)曰く当初から木剣での稽古を行っていた(2)早朝稽古が武器だったらしい(32)
・塩田剛三がインドネシアでの収容生活を経て帰国し家族と共に2ヶ月ほど岩間で指導を受ける。当時は石原賢一と阿部正と三名で世話や手伝いをしていた(39)
・白田林次郎がビルマから復員(山形県合気道連盟

8月
・富田健治の仲介で田中清玄が訪問(10)p84外国人に日本武道の真価を認めさせるために依頼をしにきた(39)
・吉祥丸、阿部、石原、塩田と共に横浜市弘明寺、神中組の寮に出向き進駐軍の将校に演武と説明(10)p88横浜吉司令官と米軍関係者50名ほどがいたという(39)
・翌日、塩田は横須賀の田中清玄に会いに行き神中組社員になるためで、盛平や吉祥丸には何も告げていなかったという。その後、秘書になるが経営が悪化し退社(10)p89

12月
・岩間では多い時は50人近い青年が集まる。盛平はあまり顔を出さなかったらしい(10)p90

時期不明
・吉祥丸、早稲田大学政治経済学部を卒業
・牛込道場は罹災者を受け入れていた為、稽古は行われず(10)p108
・小林裕和、入門
・藤平明、藤平光一の下で合気道をはじめる(藤平明
・井上鑑昭、親和体道創設(5)

関連事項
・中山博道、軍部関係者の役員除名の為、大日本武徳会理事になるが、GHQにより解散命令(14)
・岩田一空斎、戦地より帰国(1)
・阿部醒石曰く、開祖は戦後は陸軍中野学校などでの指導の経歴から戦犯として捉えられそうになったが高熱で寝込んでいたため連行はされず、家宅捜索によって平和主義者と判明し巣鴨への連行を免れたとか(恩師を訪ねて
・富木謙治、シベリアに抑留される、この間に合気体操を創案するが開祖には認められなかった(10)
・戦後、大陸から引き上げてきた奥村繁信に岩間に移った理由として「神様に叱られてしまった」と語る(13)p224
・黒石公男、本部道場入門(北九州黒石塾合気道HP

1947 昭和22年 64歳

時期不明
・有川定輝、甲賀流忍術第14世藤田西湖に紹介状を書いてもらい入門
・財団法人皇武会を改組「財団法人合気会」とする(合気会)
・砂泊諴秀、東京の道場に開祖を訪ねる、岩間に行っており不在(4)
・京都御所の皇宮警察道場「済寧館」で演武及び京都西会(西式健康法)の合気道講習会が催される(20)

関連事項
・中倉清、鹿児島に帰郷(14)
・11月、平井稔が岡山市に道場「恒河洞」名を排し、「光輪洞」を創設(日本光輪会HP

1948 昭和23年 65歳

1月19日
・出口王仁三郎、昇天(17

2月9日
・財団法人合気会設立・初代会長富田健治(本部は岩間)
・正式に「合気道」を名乗る
・吉祥丸、合気道本部道場の道場長に就任

3月5日
・吉祥丸、土生津嫧子(はぶつさくこ)と結婚、その後岩間で畑仕事を手伝いながら稽古を行う(10)p92

岩間での結婚式

秋頃
・富木謙治、シベリアから帰国(19)その後3年ほど熱心に本部や岩間に通う(10)p93

11月
・吉祥丸の第一子、吉照誕生(10)p108

時期不明
・西陣の松田操宅に12畳の道場が創設され、大本青年部が植芝盛平先生を迎えて稽古が始まる(20)
・奥村繫信、シベリアから帰国、本部道場には避難してきた者が三組ほどおり、誰も稽古はしていなかった(2)
・有川定輝、合気会本部道場入門(2)

関連事項
・6月、平井稔が全日本警察官逮捕術制定にあたり専門委員となる(日本光輪会HP

1949 昭和24年 66歳

1月
・合気座談会開催(毎月)

6月1日
・磯山博、少年部ができた為(32)合気神社付属道場に入門(合気会茨城支部道場HP)(4)(Wikipedia磯山博2023/6/26)直接、夜に開祖から指導を受ける(32)

8月1日
・西医学財団法人西奨学会の養成で神奈川県二宮、米倉寺で講演会と実演(6)p277(10)

10月2日
・横浜西会の養成で横浜市西区横浜市教育会館で講演と実演(10)p157

11月15日~29日
・京都、大阪で公演と実演、希望者に指導(10)p157
・京都・壬生、小沢恒憲(武徳会合気道教士)宅に「皇武會合氣道」の看板を掲げ植芝盛平、井上方軒が訪れる(20)
・京都御所の済寧館道場にて合気道の講演及び演武(20)
・京都西会の講習会が開催(20)
・京都西会では、鴨川の対岸に頼山陽の「山紫水明處」を眺める丸太町橋東詰のビルを道場に稽古が始まる(20)
・盛平は、岩間の内弟子・斉藤守弘、本部道場役員の瀬古静市氏を伴い、寺町夷川の樋口哲雄宅(現在の合気道武産道場)に滞在(20)

時期不明
・植芝吉祥丸を中心に本部道場の日常稽古開始(10)p108
・東京の本部道場は共産党とモメて乱闘寸前までいく(10)p110
・吉祥丸、試験内容を教えて貰った上で大阪商事(後のみずほ証券)面接、その後入社(10)p118
・富木謙治、早稲田大学非常勤講師、講道館常任幹事に(10)p185
・引土道雄、越の湯という場所に開祖から呼び出しを受けて熊野に道場建設の命を受ける(21)
・おそらくこの頃に園田直の剣道の師(羽賀準一か?)の紹介で園田直と天光光が植芝盛平に弟子入りする。植芝盛平は入門の条件として園田に中村天風を紹介(34)

関連事項
・GHQ剣道を禁止
・中島五郎蔵、剣道をなくさないため警視庁棒術の創案
以上(14)より
・7月1日、竹下勇逝去

1950 昭和25年 67歳

1月23~3月19日
・関西で講演会(合気会報)(10)p157
・1月、京都警察学校、京都西会、大阪府国家警察署員及び市警察署員に合気道講習会(6)p277(20)

4月
 1日
・合気会機関紙・月間『合気会報』発行開始
 8日
・合気座談会、海童普門わだつみふもんの尺八演奏と講和の後に、盛平が演武(13)無欲の自由について語る(23)№39
 21日〜5月15日
・京都西会、大阪西会、近畿柔道連盟で実演会と講習会(10)p158(20)
・京都西会の稽古指導を京都御所の済寧館道場で昼夜、3日間行う(20)
・京阪神の西会により、近畿合気会が設立(20)
 1日
・合気会誌第二号発刊、内容は合気座談会にて演武と共に語った夢の話(13)内容は武産合気(8)にもある通り

6月25日
・朝鮮戦争勃発
・吉祥丸、株で100万ほど稼ぐ(当時の月給は3500~9000円)(10)p126

7月20日
・合気会誌、第四号発刊(13)

8月24日~9月16日
・京都警察柔道職員、近畿柔道連盟、各地、合気会京都出張所などで指導(10)p158(20)
・京都西陣・松田操宅の道場が合気会京都出張所になる(20)

11月11日〜12日
・大東流の英名録によれば堀川幸道が第一ヶ条を学ぶ(3)

12月10日
・茨城県荒川沖、講演と実演(6)p278(10)p158
・全国の各道場を訪問し指導する

時期不明
・小沢恒憲宅の「皇武會合氣道」道場が二条城傍の坂本善造宅に移る(20)
・1950年頃、貴司山治が岩間に訪ねた時に、盛平は南方熊楠とは神社合祀反対運動で「熊」「盛平」と呼び合う関係だったと語ったというが、熊楠側にそういった証言は一切ない(南方熊楠顕彰館

関連事項
・西尾昭二、神道自然流空手道入門(蕨合気道会HP:故 西尾昭二師範について
・3月4日に多田宏、本部道場入門(2)
・8月に多田宏が天風会に入会(2)
・9月に塩田剛三が日本鋼管鶴見製作所の防衛の為、拓大生を連れて12月まで過ごし、その翌年から日本鋼管で合気道の指導を始める(1)2970
・堀川幸道、4月に北見市に大東流幸道会設立
・佐々木の将人、視力検査をとんちで突破して警察予備隊になる(4)
・本部道場は吉祥丸先生の奥様のやりくりでなんとか成り立つ(1)
・この頃、朝日新聞社講堂で磯田仙三郎が演武を見る(23)№60
・井上方軒が駿河台ホテル別館を仮道場として親和会で親体道を指導開始(古賀不二人「私の歩道:五・一五反乱将校の鎮魂譜」)
・望月稔、静岡に養正館道場を再建(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

1951 昭和26年 68歳

1月17日〜2月28日
・京都警察警邏本部(於、旧武徳殿)及び京都市各署で合気道の演武及び講習会、近畿柔道連盟で指導(6)p278(20)

春頃
・早稲田大学に合気道講習会のポスターを貼り、会員を募る、当時は合気武道とも呼ばれていたが、わかりやすくするため合気道に(13)p252

3月15日
・小田急電鉄株式会社の要請で会社経営道場にて講演と実演(6)p278(10)p158

4月2日
・合気道二代道主植芝吉祥丸の次男として守央、出生

5月19日
・青梅市国警道場で実演(6)p279(10)p159

6月1日
・光輪閣で各国大使を招待して演武(1)2783

7月
 13日〜15日
・合気会静岡出張所にて講習会(10)p159

9月
 3日
・高崎西会で1週間の講習会(6)p279(10)p159
 11日〜14日
・静岡に出張し、各地で講習(6)p279(10)p159
 15日
・浜松公会堂、富士神社社務所にて実演(6)p279(10)p159
 17日
・日本鋼管株式会社職員への実演(6)p279(10)p160この時、塩田剛三が嘱託となって合気道指導か(30)
 22日
・和歌山県田辺国警道場で1週間の田辺講習会(10)p158
・この頃、和歌山で稽古していた高岡貞雄と中之島道場で出会う(三元会Aikido Shihan Sadao Takaoka - Meeting O-Sensei - Aikido Sangenkai Blog

10月
・10月頃、大阪の曾根崎署で講習にきて署長の富田健治経由で田中万川に連絡を取る、連絡を受けた田中はすぐに駆けつけた(1)3448
・大阪で田中万川に再会し道場建設(1)
 27日迄
・吹田近在の有志等の特別の希望で4日間講習会(6)p278

・この頃、斎藤守弘に岩間に住むことを提案していたらしい(31)

11月
・岩間で田中万川を1ヶ月、日に四回指導(1)
・富木謙治、講道館顧問として講道館に柔道のひとつとして合気道部門を作りたいと打診、断られる(昭和27年かも?)この頃から競技化を目指し始める(10)p185,186

時期不明
・山口清吾、入門
・寺田精之、入門(後の養神館本部道場最高顧問)(合気道養神館精晟会HP
・西之宮で1週間の講習会(10)
・大阪吹田で4日間の講習会(10)
・望月稔、フランスに渡る(10)
・阿部正、フランスに渡る(23)
・有川定輝、本部道場幹事になる(2)
・1951年の暮れに西尾昭二、合気会本部道場入門(2)(暮れだった為か資料によっては1952年入門とも(蕨合気道会HP:故 西尾昭二師範について))

関連事項
・中倉清、左足を複雑骨折
・羽賀純一、国民体育館で指導
以上(14)より
・富木謙治、早稲田大学専任講師、柔道師範になる(10)
・望月稔はフランス柔道協会の教師会専任教授となり柔道・合気道・その他を指導(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

1952 昭和27年 69歳

・段位制導入

1月
 8日
・斎藤守弘と妻となるさたとの結婚式が岩間の開祖屋敷で執り行われる。理由は開祖が田辺へ出かける際に屋敷を任せられるのは妻帯した者が良いと考えていたかららしい。式には藤平光一や植芝吉祥丸も参加(31)
 10日
・田中万川が岩間より戻る、道場を兼ねた家が完成。開祖はこの時に演武。一年半ほど滞在。時々妻に合いに帰ったが8ヶ月は一緒にいた(1)3460
 12日
・大阪吹田道場発足(23)№20
 17日
・惣角、中野の警察大学で指導(3)

・この頃、関西各地で講習を行った(6)p279

2月末
・田中万川が合気会大阪支部道場設立、植芝盛平の表札をかける(1)
・阿部醒石、大阪道場で植芝盛平に出会い入門(2)以降、およそ20年に渡り、関西を周る時は1ヶ月に1週間ほど阿部醒石の家に泊まり、引土道雄のところに寄って帰京し、本部から岩間に帰るというのが慣例だった(2)2356

たまたま通りかかった知り合いの田中万川の家の表札に植芝盛平とあり、この時はじめて田中が合気道をやっていたことを知る。二木謙三の弟子だと語ると翌日から弟子入りを許される

(恩師を訪ねて)

・引土道雄、合気道熊野道場設立
・多数師範を欧米に送る

1月11日〜3月29日
・田辺地方講習会など各地で講習会(10)p159

(11)より

関連事項
・阿部正、6段として貨物船に乗り込んでフランスへ渡る、望月稔が日本柔道として合気道を教えていた事に憤慨して一人でヨーロッパを渡り歩く、フランス外人部隊などに指導(10)
・吉祥丸曰く、望月稔がフランスへ行ったのにはマクロビオティックの第一人者・桜沢如一が関係しているらしい(1)
・塩田剛三、6月頃から翌年7月頃まで警視庁83署を巡回演武(1)2975
・富木謙治、講道館護身術制定委員に(10)p187
・藤平光一ハワイへ(13)p255
・多田宏が合気道で生きていくことを決意(2)
・井上方軒の親和会が解散(古賀不二人「私の歩道:五・一五反乱将校の鎮魂譜」)

1953 昭和28年 70歳

1月
・田中万川による財団法人合気会大阪支部道場発足、大阪に滞在して1ヶ月指導にあたる
 21日
・猿田彦大神の御神示、同時に常盛と命名が下された(29)

7月
・引土道雄、熊野塾開塾、開祖曰く「東京と新宮が本部じゃ、熊野塾とせい」(21)

10月31日
・多田宏二段に(13)

妻のはつと撮影

関連事項
・田村信喜が合気会本部道場に入門(FAAB合気道HP)(2)曰くこの頃の開祖の指導はふらっと現れて二手三手教えるような形、あるいは神様の話を足が痺れるほど長く語る(2)
・望月稔「合気道入門」出版(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)
・合気会誌を「合気」に改称、小冊子として年4回発行
・吉祥丸、造船関連の株で大損、大阪商事にも被害を出し店頭から総務部庶務課に移動、借金は分割払いに(10)p129
・砂泊諴秀は福岡から熊本へ、11月23日振武館で演武(4)
・藤平光一、西式健康法のハワイ西会から呼ばれてハワイへ、プロレスラーと対戦させられる、8ヶ月後ハワイ合気会設立(2)
・藤平光一、ハワイ警察へも指導(23)№1
高岡貞雄、三段昇段(三元会Aikido Shihan Sadao Takaoka - Meeting O-Sensei - Aikido Sangenkai Blog
・村重有相、黒石公男、ビルマ警察大学武道師範に就任(山口合気会ホームページ)(北九州黒石塾合気道HP)日本ミャンマー合気会曰く、これは戦後賠償に代わる文化財供与使節としての派遣(日本ミャンマー合気会2023/6/26)
・9月に平井稔が東京に「光輪洞」を創設(日本光輪会HP
・11月23日、砂泊諴秀が熊本で合気道を初公開(29)
・武田時宗、大東館館長となる(30)
・12歳もしくは13歳の五味田聖二が和歌山で親戚に連れられて警察署での開祖の演武を見る、中学生ながら特例で入門を許される。(朝日新聞デジタル「合気道の開祖の精神、生地で守る 五味田聖二さん」20210117)
当時の田辺道場長は井上要一郎先生の甥御・廣田義隆(井上師の姉の子供)から学ぶ(武産通信:五味田聖二師範
・親和体道が大本楽天社にとりいれられる(大本七十年史下巻)

五味田聖二によれば、当時開祖は鈴木新五郎という相撲取りを田辺で投げていたと語る。これが鈴木新吾と同一人物かどうかは不明
廣田義隆の稽古はきつく力の入ったもので道場もないため野外や神社の境内などで稽古した
内弟子時代に剣や杖の受けをしていたので、剣杖の稽古もあったという

武産通信:五味田聖二師範(2))

1954 昭和29年 71歳

1月
 10日
・砂泊諴秀により、熊本市九品寺で九州ではじめての道場が開設(続・合気道の心を求めて)仮道場(23)№1

2月21日
・熊本県支部発足

4月24日
・『合気』三十二号発刊、「修業心得」として千葉周作の『剣法秘訣』が一番引用される(13)

5月1日
・多田宏、三段に(13)

7月
塩田剛三、ライフ・エクステンション(長寿会)主催の「日本総合古武道大会」において演武を披露し、同大会最優秀賞を受賞(塩田剛三Wikipedia)

9月
・塩田剛三、有楽町の経済同友クラブで講習会、この頃は活動内容を合気会に届けていた(10)

時期不明
・哲学者でありドイツ語学者の佐藤通次が亜細亜大学で合気道の招待演武会を開いたのを皮切りに合気道サークルができる(10)
・阿部醒石、開祖に書を指導する(阿部醒石Wikipedia
・望月稔、おそらくこの頃にフランスから帰国し、寝業などの重要性を説いて開祖に合気柔道と言われ怒られる(10)(「道」と「戦」を忘れた日本武道に喝)
・阿部醒石曰く、引土道雄が新宮に道場開きをした関係で開祖の鞄持ちとして同行し、1月滞在。稽古と夜稽古の間にアルバイトせよとのことだったので付近の人に書道を教えた。子供が書いているのをみて「わしもかく」と言い出した(2)2399※道場開きは昭和28年
・岩間の茨木道場で大沢喜三、有川定輝、塩田剛三、山口清吾、寺田精之、植芝吉祥丸、藤平光一、斉藤守弘らが映った写真が撮られている(どう出版:笑顔で一堂に会する開祖内弟子


関連事項
・中倉清、第二回京都武徳殿都道府県対抗大会にて鹿児島チームで優勝、第一回全日本東西対抗大会剣道大会に出場し以後、第9回まで無敗のまま
・羽賀純一、剣道具店梅田号開店
・東京桜台にはじめての支部となる鍬守道場ができる(1)
・井上、読売ホールで公開演武会を行い親英体道を名乗る(24)
・1月に平井稔が東京、静岡、岡山、三つの道場を統合して日本光輪会を結成(日本光輪会HP
・本部道場を東京に移転し本格的な普及を図る
・杉野嘉男、合気会川崎支部設立(唯心館HP
・日本総合武道大会(長寿会主催)で塩田剛三が優勝、藤平光一も参加(1)
・佐藤通次の紹介もあり、合気道の支部結成や大学のクラブ結成をはじめる(10)
・加藤弘、佐々木の将人、黒岩洋志雄、入門
・平井稔、日本光輪会を創設
・砂泊諴秀、熊本に合氣道万生館道場を開設(2)
・防衛庁合気道演武を見た佐々木の将人が入門
加藤弘が本部道場に入門
・10月、五月女貢、鍬守道場に入門(28)
・吉祥丸に、正力松太郎より木村政彦を下した力道山の対戦相手として合気道関係者に誰かいないか打診される(10)p151
・富木謙治、早稲田大学教授、体育局教務主任となる(1)

1955 昭和30年 72歳

・植芝吉祥丸、財団法人合気会理事就任、専務理事に

5月20日
・多田宏、四段に(13)


・春期講習会、砂泊諴秀も参加(合気道の心を求めて)

・おそらくこの頃に1週間の有段者特別講習を実施、参加者は砂泊諴秀、田中万川、引土道雄、白田林次郎、小林保雄、高岡貞雄、大竹、最終日には塩田剛三、香取神道流菅野、忍術の藤田西湖、居合道の松尾などが参加(三元会)

参加した高岡貞雄によると、開祖は杖による「神楽舞」を披露、技法については何も答えずひたすら神楽舞を見せて「宝物を授けた」と語ったという
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

6月
・アンドレ・ノケが阿部正に手ほどきを受けフランスからやってきて本部に入門(10)(23)№4
 10日
・新宿区筑土八橋に都民銀行頭取工藤の助けを借りて塩田剛三、「養神館」道場落成(1)吉祥丸はこれを期に演武の公開を決意(10)

9月
・合気会による戦後初の一般公開演武会が東京日本橋高島屋屋上で行なわれる、吉祥丸は演武公開10日前に初めてとなる弟子による演武を計画していることを盛平らに打診。激怒したものの合気会のために承認(10)p145
・各国大使を招いての公開演武大会

時期不明
・この年から44年まで14年間、阿部醒石の家に月に一週間から10日ほど滞在(恩師を訪ねて
・吉祥丸曰く、昭和30年前後に剣を本格的に研究しはじめた(1)
・高岡貞雄によると和歌山県真砂町に開祖が指導を行うためだけの道場があったと語る(三元会Aikido Shihan Sadao Takaoka - Meeting O-Sensei - Aikido Sangenkai Blog

関連事項
・1月、池袋に鍬守道場が発足(23)№18
・西尾昭二、杖の勉強をするためにこの頃に神道夢想流清水隆次師範に師事(2)
・12月1日、井上強一が養館神に入門(合気道を学ぶ人のための古事記入門)
・12月2日、熊本に万生館道場落成、12月末に西日本新聞社の後援で演武会を行う(23)№1
・浅井勝昭、五月女貢、入門
・野呂昌道、叔父により植芝盛平に弟子入りさせられる(Wikipedia「Masamichi Noro」2023/6/21
・その数か月後の4月に小林保雄が本部道場に入門、多田宏が指導していた(2)明治大学に合気道部を創設
・この頃、砂泊扶妃子も住み込んでいた(2)
・小林保雄曰く、この頃の開祖は岩間と東京を行き来し、寂しくなると病気になったと電話をかけてきて誰かが岩間に行っていた(2)
・ビルマ合気会設立(日本ミャンマー合気会2023/6/26)
・黒岩洋志雄、2段になる(23)№1
・藤平光一、渡米(23)№13
・砂泊諴秀曰く、昭和30年代に入ってから体技よりも精神的な話をするようになった。この頃から魂の技を示すようになった(29)
・阿部謙四郎がイギリスで合気道を教え始める(Wikipedia:阿部謙四郎
・斎藤守弘は50年代後半から開祖不在時の岩間での稽古を任せられるようになる(32)

1956 昭和31年 73歳


・春期講習会、砂泊諴秀も参加(合気道の心を求めて)
・フランス大使館文化情報部主催で演武会、アンドレ・ノケが合気道観を語る(10)p228

3月
・吉祥丸、借金完済、大阪商事を退社(10)p153

4月28日
・多田宏、五段に(13)

俳優・高倉健に指導する開祖
『植芝盛平 生誕百年』より

時期不明
・西式健康法の西勝造の紹介で見学に行った荒川博は開祖が合気道を見せてやると、内弟子の西内を投げ、その後、五人を次々に投げたのを見て八百長だと思うも、紹介された手前、1ヶ月通うことを決め、そのままハマる(31)

関連事項
・山田嘉光、藤田昌武、荒川博、入門、藤平明、本部に入門
・砂泊諴秀はこの年、もしくは翌年に福岡の警察学校などの指導で壁にぶつかる(4)
・11月、藤平光一により栃木県で合気会宇都宮道場が発足(23)№16
・11月、合気会は慶應大学の三田祭で演武をする
・富木謙治が『柔道と合気道』を英文で出す(19)p285
・井上鑑昭、読売ホールで自分の流派を「合気武道」から「親和体道」として紹介(1)729/4381
・望月稔、剣道5段杖道5段に(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

1957 昭和32年 74歳

7月
・植芝吉祥丸により単行本「合気道」刊行(合気会)(10)p178
・1週間後トラック一台、約3000部の返品、武田流合気柔術を騙る書店への詐欺の影響、その後売れ始める(10)p179,180

4月
・大澤喜三郎、合気会師範に(2)
・堀川幸道、北海道北見に大東流支部設立(3)
 25日
・多田宏六段に(13)

11月
・五井昌久と出会う

12月
・アンドレ・ノケ、合気会本部より指導員認定書を受ける(2)帰国(23)№4

時期不明
・引土道雄、夜中の1時頃に開祖に起こされて松竹梅の剣、正勝合気棒術の奥義を授かる(21)

関連事項
・中山博道、全剣連より授与された十段を断る
・中倉清、全九州選手権大会7段の部優勝
以上(14)より
・4月、慶應大学合気道会発足
・黒岩洋志雄によればこの時期から合気道の技が変わったとのこと
・沼田敏男、植芝盛平に師事(山口合気会ホームページ
・藤平光一、渡米(23)№13

1958 昭和33年 75歳

1月16日
・午後二時から西勝造の健康会館で健康青年会の発会式が開催、植芝盛平も顧問として参加(西式健康新聞11号1958年2月)

4月
・五井昌久法話会に参加、神楽舞を披露する(8)

5月
・フランスよりクロード・ヴァティ初段が来日(23)№4

7月
・田中栄太郎、盛平が道場で演武しているのを見たと回顧(田中栄太郎「金鉱二宮尊徳」p189)

9月21日
・合気会本部道場にて合気の集い(8)

12月13日
・全国合気道有段者会結成

関連事項
・4月、産経有楽ビル地下で合気道本部直轄産経道場が発足(23)№15
・渡邊信之が合気会本部道場入門
・山口清吾師範、ビルマに合気道指導のため出国(10)日本ミャンマー合気会によるとこちらも文化供与使節として国防軍への合気道指導のため1961年まで務めた(日本ミャンマー合気会2023/6/26)
・千葉和雄、入門(Wikipedia千葉和雄2023/6/27)小林保雄によれば5月頃に入門したいと言ってきて断られ、1ヶ月玄関前に座り込んだとのこと。後に阿部醒石曰く住友の演武会で千葉和夫が木剣で先生の頭を打ったことがあり、カーンと凄い音がしたが血も出てなかった(2)2387といったエピソードがある
・中山博道没
・日野葦平『王者の座』刊行(植芝盛平がモデルで菅沼という達人が出てくる)
・佐々木の将人、スパイ学校をつくるがCIAにバレる(4)
・小林保雄曰く、この頃は誰かが決まった曜日の指導を担当するといったことはなかった(2)
・磯山博、北海道千歳にてアメリカ陸軍憲兵隊、アメリカ軍軍人及びその家族と航空自衛隊警備隊員に合気道の指導を行う(Wikipedia磯山博2023/6/26
・富木謙治、早稲田大学に独自の競技体系を組み込んだ合気道部を創部(10)
・これに対する形で合気会で修行していた早稲田の学生の要望で渡辺辰巳により文化部に合気道会を創部(10)
・富木謙治『合気道入門』を刊行(19)
・アンドレ・ノケ、フランスに帰国(10)※昭和34年帰国(2)(23)№1※33年帰国(23)№4※32年12月帰国
・11月、阿部正はアルジェリアで合気道演武大会を行う(23)№1
・石橋澄江、杉野道場で剣術を稽古して植芝盛平にも入門したらしい(読売新聞社社会部編「女の記録」1958)

1959 昭和34年 76歳

1月
真向法まっこうほう創始者・長井津ながいわたる、講道館・三船久蔵と会談、弟子によればその後に合気道の準備体操に真向法が加わったらしい
 15日
・本部道場鏡開き、合気道とは(8)を語る

3月
・小倉拘置所に合気道部新設、同所の保安課長で熊本で稽古した岩永忠喜の肝いり(23)№2
・阿部正によれば、北イタリア、サソレモにてイタリア合気道協会が樹立(23)№4
 7日
・秋田県柔道連盟の招きで秋田市下条、秋田警察学校柔道場で合気道演武(23)№2
 8~10日
・同上の場所で講習会開催(23)№2

4月
 10日
・合気道新聞創刊
・有川定輝、合気道新聞編集長を15年に渡って務める(2)
 21日
・東京中日新聞で山田克郎「王者の座」(合気道・植芝盛平伝)連載開始(23)№2
 28日
・合気道本部道場で指導(23)№3

5月
 1日

・茨木の合気道研究所へ(23)№3
 7~8日
・本部道場へ、特別講習会(23)№3
 10日
・本部道場にて合気道大会・特別講習会(23)№1
 11日
・茨木の合気道研究所へ(23)№3
 13日
・本部道場へ戻り、そこから愛知の熱田神宮を参拝(23)№3
 14日
・本部道場へ(23)№3
 18日
・茨木の合気道研究所へ(23)№3
 28日
・本部道場へ(23)№3

7月
 4日

・白田林二郎7段、野呂昌道3段、小林孝雄初段が中心となって青森県合気道界を結成(23)№5
 5日
・神奈川県横浜市、松尾剣風会道場で日本心剣会創立三十周年記念武道大会が開催、合気道からは西尾昭二5段他数十名が参加、開祖が模範演武(23)№5

8月
 7日

・合気神社十五年祭、祈願を行う(23)№5
小林保雄曰く内弟子は2〜3日前から岩間で除草や落ち葉拾いをし、開祖が祝詞をあげる際には一緒にあげ、雨が降っていたら開祖に傘をさした(小林保雄ブログ
 10日
・村重有相、ビルマより帰国(23)№4
 16日
・関西地区合気道連合会発足、会長は田中伊三郎(後の万川)(23)№6

10月
 23~24日

・本部道場にて秋期合気道講習会の講師を務める(23)№7
・合気道創始者植芝盛平翁誕生日祝い(喜の字の祝)(23)№7
 25日
・秋期合気道演武大会、第二部の個人演武(23)№7

11月
 16日

・合気会熊野合気塾の神宮拘置所から発展して、神宮警察署でも合気道導入のため演武を披露(23)№10
 25日
新加波シンガポール合気道協会会長M・K・リーと副会長B・S・シムが2週間に渡って訪問(23)№7

12月
田中万川が京都御所西の中立売警察署で合気道の指導を始める(20)
・白田林二郎、青森県支部開設師範、青森刑務所合気道師範に(山形県合気道連盟

時期不明
・引土道雄、熊野塾道場を増築21畳から60畳へ(21)
・有川定輝、本部道場師範になる(2)
・沼田敏男、財団法人合気会山口県支部設立、支部長に就任(山口合気会ホームページ
・小林保雄、本部道場指導員に(2)
・吉祥丸によればこの頃から積極的に若手に指導をし、以前のような近寄り難さが和らいだという(6)p289

関連事項
・4月、拓殖大学合気道同好会発足(23)№11
・10月、産経道場が移転し、産経ボディビル道場と同居(23)№15
・藤平光一『写真解説合気道』出版(note:藤平光一氏の功績と独立
・今泉鎮雄、金井満也、栗田豊、丸山修二、菅野誠一、入門
・久琢磨、10月に関西合気道クラブ発足、久琢磨は大東流というより合気道ということを好んだ(3)
・富木謙治、早稲田大学合気道部における合気道競技をほぼ確立(19)
・アンドレ・ノケ、阿部正七段の助手になる(23)№1
・ヴァティ初段、フランスから来日(23)№1
・黒石公男、6段に昇段(23)№3
・黒岩洋志雄、3段に昇段(23)№3
・藤田昌道、2段に昇段(23)№3
・有川定輝、6段に昇段(23)№7
・磯山博、4段に昇段(23)№7
・望月稔、柔道7段に(望月稔「技法日本伝柔術:黒帯合気道」)

1960 昭和35年 77歳

1月
 15日

・本部道場「鏡開き式」で模範演武
・ドキュメンタリー映画『合気道の王座』製作のため撮影が開始される(10)(23)№11
 19~28日
・岩間にてドキュメンタリー映画『合気道の王座』製作のための撮影(23)№11

3月20日
・東京の杉山道場にて徒手、剣、杖等による35分間の演武を披露(23)№13


・五井昌久と会員有志100余名が開祖を訪ねる。

5月
 3日~5日
・合気道特別錬成講習会で直接指導(23)№13合気道鎮魂帰神法の解説、剣の素振り等(23)№14
 14日
・山野ホールにて第一回(三十五年春期)合気道演武大会開催(23)№13
・これを皮切りに、毎年一回演武大会が日比谷公会堂、日本武道館と会場を変えながら開催される
 15~17日
・春期合気道講習会を本部で開催、講師として参加(23)№13
 17日
・藤平光一の九段昇段式(23)№13
 23日
・亜細亜大学の合気道演武会で特別演武(23)№15
 26日
・白光信宏会で演武会と稽古、特別演武を行い、その後、五井昌久と対談(23)№16
 某日
・新宿の道場で正力松太郎が演武を見ていた時、盛平が技をかけた途端にカメラマンたちのフラッシュ球が数個いっぺんに飛んでしまうという出来事があり、その気息に感嘆したという。吉祥丸も同席していた(36)

6月
 9日

・俳優、早川雪舟が開祖の演武を参観(23)№16
 26日
・千葉県市川市の市川警察署で白光真宏会会員に稽古をつける、五井昌久と歓談(8)

7月
 2日

・和歌山県本宮市の熊野本宮大社で岩戸開大祭、神楽舞と合気道演武を奉納(23)№17
 14日
・阿部正7段、フランスより帰国(23)№17
 16日
・藤平光一、九段昇段祝賀会(23)№16

8月
・岩間合気神社の参道に畳を敷いて奉納演武(8)
 1日

・山口清吾6段、ビルマより帰国(23)№17

9月28日
・中薗睦晴がシンガポールより一時帰国(23)№19

10月23日
・千葉県市川市「世界の平和を祈る会」白光真宏会で市川市聖ヶ丘道場の道場開き式、合気道道話を一時間半語る(23)№20

11月
 3日
・合気道創始の功績により紫綬褒章を受賞
 6日
・合気神社拝殿落成式典にて玉串奉典、祝詞奏上、神楽舞奉納、合気道演武奉納、道話(23)№20
 22日
・千葉県市川の白光真宏会聖ヶ丘道場で演武(8)

12月10日
・植芝盛平合気道を語る

関連事項
・1月、デリー・ドブソン、市橋紀彦、入門
・早稲田大学合気道会設立(13)p260
・針すなお初段になる(23)№11
・望月稔8段、フランスのパリ市長から合気道普及の功績で銀メダルを授与される(23)№17
・大庭英雄、早稲田大学体育局講師及び合気道部師範に就任(22)
・山野ホール演武大会の時に、小林保雄や黒岩洋志雄らが藤平光一に襲い掛かったが見事にかわされて以降、感服する(2)
・小林保雄曰く、この頃から本部に稽古に来る大学生を捕まえて大学に合気道部をつくるように推進した(2)
・千葉和雄、名古屋に指導員として派遣される(Wikipedia千葉和雄2023/6/27
・11月、阿部正7段に、有川定輝・中薗睦晴6段に、田村信喜が5段に、黒岩洋志雄は3段、千葉和雄は2段に昇段(23)№20
・11月5日、合気会高知県支部結成、結成式が高知県丸の内県民ホール別館にて行われる(23)№21
・11月16日、波多野修二が本部直轄有楽町道場に入門(23)№84
・1960年発売の奈古浦太郎著「日本の右翼」には合気会・植芝康悦・言論報国会の記載がある

1961 昭和36年 78歳

2月
 10日
・東京都千代田区錦町の学士会館大講堂で植芝盛平紫綬褒章祝賀会とハワイへの壮行会(23)№22
 11日
・杉山建設K・K創業記念日に演武会、柔道では三船久蔵が模範演武、合気道は開祖と吉祥丸本部道場長が演武(23)№23
 28日
・開祖、ハワイに向け出発、ハワイ合気会の道場新築に伴ってハワイでの指導(10)p237 州知事、ホノルル市長、警察署、日本商工会議所頭取、新聞社関係を周りホノルル道場で指導を行う(23)№23
・同行は藤平光一9段、田村信喜5段(2)(23)№23
・ワイキキ、ハワイアン・トロピカル・ホテルに滞在(10)p238
 29日
・田村信喜曰くシャワーが熱くて帰ると言い出す(2)

3月
 1日
・国際墓地参拝、ホノルル道場で指導(23)№23
 2日
・アナ・モナイショッピングセンター見物、アナイナ道場で指導(23)№23
 3日
・ハワイアン・アップル工場見学、カイルア道場指導(23)№23
 4日
・日本商工会議所歓迎パーティ出席、ホノルル道場で指導(23)№23
 5日
・KOWA・TV出演、KGMB・TVにインタビューを受ける(23)№23
 6日
・真珠湾、ワイパフ砂糖工場等見学、パール市道場で指導(23)№23
 7日
・エア道場で指導(23)№23
 8日
・ワイアワ道場で指導(23)№23
 9日
・ワイアル道場で指導(23)№23
 10日
・ホノルル道場で指導(23)№23
 11日
・島めぐり、マッキンレー高校講堂にて招待演武会(23)№23

マッキンレー高校での演武
受:田村信喜

 12日
・ワイアラエ街にてハワイ合気道会館ホノルル道場開館祝賀式典(10)演武披露(23)№23
 13日
・マウイ島へ出発(23)№23ワイルク市の道場新築道場開き式に参加、警察官クラブハウスで歓迎会を受けマウイ市長などと交流(23)№24マウイ合気会新道場の落成式で奉納演武(23)№25
 14日
・ハレヤカラ山に登山、ワイルクの新道場、ラハイナ道場、ハレマイレ道場など稽古(23)№25
 18日
・ワイルクジムで演武会(23)№25
 19日
・マウイ島滞在(23)№23
 20日
・ハワイ島へ出発(23)№23ヒロ空港でヒロ市長のクック氏に歓迎される、夜に歓迎会(23)№25
 21~22日
・車でコナへ向かう、大福寺に二泊し、学校の講堂で二度演武会(23)№25
 23日
・ホノカアヒへ車で向かう(23)№25
 24日
・村金長次の案内でジープを使ってマウナケヤ山に登る。岩の上で祝詞奏上、その後ハイスクールの講堂で演武(23)№25
 25~26日

・ヒロ市に戻り、ヒロの政府から貸与されている道場で演武会、26日まで滞在(23)№25
 27日
・ホノルル市へ出発、ホノルル道場で指導(23)№23
 28~29日
・カワイ島で演武会(23)№25
 30日
・ホノルル道場で指導(23)№23
 31日
・カウアイ島へ出発(23)№23

・おそらくこの時に藤平光一が開祖の言葉を英語に意訳(植芝盛平と中村天風)

4月
 1日

・カウアイ島に滞在(23)№23
 2日
・ホノルル市へ出発(23)№23
 3日
・ホノルル道場で指導(23)№23
 4日
・ホノルル道場で指導(23)№23
 6日
・ホノルル道場で指導(23)№23
 7日
・ホノルル道場で指導(23)№23

・ハワイにて黒人ボクサーとリングで対戦、圧倒する(武産通信「ハワイと植芝盛平」2022/11/1

4月
 8日
・裏オアフの海岸にあるダッタ―若竹氏の別荘に宿泊(23)№26
 9日
・送別会を兼ねてピクニックが行われる(23)№26
 10日

・ハワイを後にする(10)大統領やプリンスにつけられるポリスエスコートで空港に向かう(23)№26
 11日
・日本到着(23)№25

5月
 18日
・第三議員会館わきの国会道場で合気道演武会、約25分間の模範演武(23)№25
 20日

・合気道講習会並びに合気道映画植芝翁生活記録映写会、懇親会(23)№24
 22日
・千葉和雄2段を帯同して九州へ出発(23)№25
 23日
・柳井市で村重有相、沼田敏男のいる合気会山口県支部に立ち寄り、柳井市長、市議会議長、山口県警察本部長、警察学校長と談合、柳井市体育館で約40分間の合気道演武(23)№25
・山口県警察本部、警察学校道場で警察学校生徒と機動隊員等に約40分の説明演武、その後指導(23)№25
・秋芳鍾乳洞を見学(23)№25
 25日
・下り特急「はやぶさ」(23)№26で熊本県入り、熊本県知事代理、熊本市市長、教育委員長、ラジオ熊本社長、熊本日日新聞社長等と談合(23)№25
・熊本日日新聞社に訪問(続・合気道の心を求めて)
 27日
・熊本市手取本町振武館で植芝先生歓迎演武大会を観覧、40分に渡って特別出場して演武、その後座談会(23)№25(23)№26(29)
 28日
・熊本県支部主催合気道演武大会、熊本太洋百貨店文化ホールで合気道大演武会、特別模範演武(23)№26
 29日
・熊本市体育館で説明演武会、特別出場(23)№26
・この時、砂泊諴秀は開祖が東京から持ってきた『武産合氣』の書を賜る(29)

6月
 1日
・この日まで熊本に滞在(23)№25
 2日
・鹿児島入り(23)№25
 3~6日
・鹿児島市中央公民館で合気道大演武会、特別出場(23)№26
・鹿児島に滞在し三日間中央公民館で演武(23)№25
 7~8日
・八代市に滞在(23)№25
 9日
・福岡に滞在(23)№25
 10日
・福岡市新天町医師会館3階ホール合気道大演武会、特別出場(23)№25(23)№26
 11日
・大博劇場で模範演武(23)№25
 16日
・朝日テレビ出演(23)№25
 17日
・福岡を経つ(23)№25

5月
 25日

熊本で新聞記者からインタビューを受ける(合気道の心を求めて)
 末日
学習院大学合気道会発足(13)

6月25日
・関東学生合気道連盟発足(10)
・連盟発足会と演武会が開かれ植芝盛平は名誉会長に(23)№26

7月1日
・関西学生合気道連盟発足(23)№26

8月16日
・合気神社大祭(23)№26前年は神社の拝殿が新装(23)№27小野派一刀流型の奉納演武、開祖は合気道話と合気道奉納演武(23)№28

9月
・関西学生合気道連盟発足(10)
 16日
・全国学生合気道連盟結成、参加校は関東学生連合合気道連盟13校、関西合気道連盟3校、会長は植芝盛平、東京の共立講堂で発足会と演武会№27
 23日
・岩間にて塩田剛三の9段審査、木剣と素手で一対一の立ち合いを行い九段免状を与える(合気道を学ぶ人のための古事記入門)

10月
・全国学生合気道連盟発足(合気会)(10)
 26日
・国学院大学合気道部が大講堂において植芝盛平翁来演演武大会を開催

11月
 1日

・皇居園遊会に招待される(植芝盛平Wikipedia)(23)№30
 7日
・大阪吹田の合気会大阪支部道場で発足十周年記念祝賀会、玉串奉納し道話と奉納演武(23)№32
 18日
・秋季合気道講習会が本部道場で実施、合気道道話、基本動作、基本技指導、真髄演武(23)№31
 26日
・愛知県スポーツ会館で合気会名古屋支部発足記念演武大会、模範特別演武(23)№32

12月
 2日
・防衛庁合気道連合会(現・防衛省合気道連合会)発足(合気会)(10)発足式並びに演武会が東京都市ヶ谷自衛隊市ヶ谷駐屯地大講堂で実施、模範演武を披露(23)№31
 14日
・合気会理事会に出席(23)№31
・ドキュメンタリー映画『合気道』製作

・阿部醒石が書道を指導する大阪府立北野高等学校に合気道部を設立(恩師を訪ねて

時期不明
京都大学に合気道同好会が発足、11月部昇格。初代主将、堀井修身。師範田中万川(20)
・同志社大学合気道同好会が発足(20)

関連事項
・1月15日、昇段者発表、野呂昌道4段、五月女貢3段、荒川博2段に昇段(23)№23
・2月10日、阿部正が合気会国際部事務局長に任命される(23)№23
・2月23日、吉祥丸、映画「魚河岸の女石松」演技指導で主演の美空ひばりに合気道指導(23)№23
・春に大沢喜三郎8段昇段(23)№25
・塩田剛三に9段を授ける(塩田剛三Wikipedia)※合気道新聞の昇段者の欄にはこのことは報じられていない
・砂泊諴秀に9段を授ける(2)※弟子によれば8段の免状が来る前に9段になったとか、九州師範長任命(4)※合気道新聞の昇段者の欄にはこのことは報じられていない
・近藤勝之、武田時宗に師事(3)
・4月、五月女貢が本部道場生になる(28)
・7月15日、中園睦郎、フランスに渡る(Wikipedia「Mutsuro Nakazono」2023/6/21)(23)№26
・野呂昌道、開祖より6段を授与されフランスへ指導に行く、以降開祖からではない段は拒否した。(Wikipedia「Masamichi Noro」2023/6/21)7月18日、横浜港からフランスへ出発9月2日マルセイユに到着し、カンヌへ向かい9月4日にパリに入る№28
・5月27日(23)№26村重有相ベルギーに出発、ベルギーでの指導開始(日本ミャンマー合気会2023/6/26)
・8月2日、岩田一(後の一空斎)財団法人一宮支部(愛知県)発足№27
・10月16日、藤平光一ロサンゼルスへ到着(23)№30
・斎藤守弘、月に1度、日曜日の朝に合気会でただひとり本部での武器稽古の指導を許される(31)開祖がハワイに行く前頃からはじまり大先生が亡くなってまもなくやめた。最後の15分に剣と杖をやっていたとのこと(2)1289
・『合気道技法』発刊(10)p182

1962 昭和37年 79歳

1月15日
・合気道本部道場鏡開き式で演武(23)№33

2月11日
・合気道小林道場が巣鴨で発足、道場開き式で道話及び演武(23)№33

3月
・二条大橋東の頂妙寺に旧本部道場と同じ広さの80畳で合気道京都道場(師範田中万川)が開設(20)
 27日
・藤平光一がハワイから帰国、出迎える(23)№34

4月
 13日

・合気道本部道場改修工事開始(23)№34
 24~26日
・広島で陸上自衛隊第十三師団新庁舎開庁記念行事に参加するため菅野誠一3段ほか一人と向かい、26日に約30分演武(23)№35(4)
 28日~5月6日
・改修工事のため本部道場休場(23)№34
 29日
・朝日講堂で第二回合気道演武大会(23)№34
・盛平監修・吉祥丸著『合気道技法』出版
・増田誠寿郎、ロバート・ドナウ、入門

5月
 1~3日

・小林道場で合気道講習会の指導(23)№34
 28日
・財団法人合気会栃木県支部で初の「合気道演武大会」に参加、合気の神髄について説明(23)№36

6月
 10日
・大阪府吹田市栄町で武産合気塾道場が道場開き式、道場長は阿部俊一(後の醒石)、「合気道」の軸など数点を書く、祝詞奏上、「天の浮橋」の神事、祝辞など、その後第3回合気のつどいを一時間に渡って実施(23)№38
 24日

・合気のつどい(23)№36

8月
 1日
・植芝翁、白滝村入地50年記念式典、開祖は不参加(23)№38
 7日

・合気神社大祭・植芝盛平武道研修60年目(23)№38

9月
・第5日曜日に合気のつどい(23)№37
 11日
・東京都新宿区東戸山第二学校の中学生が校長に引率され本部道場に来場、特別に開祖が30分間の説明演武(23)№39

10月
 26日
・アメリカ、サンフランシスコのナイ・コミュニケーション・エンタープライス社がテレビ映画撮影のため出張、夕方まで稽古風景を撮影(23)№40
 28日

・城北支部結成5周年記念合気道演武会が豊島公会堂で実施、道話と神髄披露(23)№40
 30日
・本部道場での学生合気のつどいにて「自己完成の道」道話(10)p195(23)№50

11月
 10日
・秋季特別演武講習会が合気会大阪吹田支部十周年記念事業として開催、大阪駅前第一生命ビル12階集会所で開かれ道話及び模範演武(23)№42
 14日

・関東学生合気道連盟加盟の各大学代表が本部道場に集合、説明演武と40分に渡る講演(23)№40
 17~18日
・秋季合気道講習会で指導(23)№41
 25日
・全国学生合気道連盟主催の学生合気道全国大会が大阪中之島・中央公会堂で実施、途中で来場し拍手で迎えられる、最後に道話、徒手、剣、杖等の真髄を示す(23)№41

12月1日
・大阪大学内の有備館柔道場で大阪大学合気道会発会記念演武会が開催、道話(23)№42

関連事項
・天風会が財団法人に
・ロバート・ケネディが養神館を表敬訪問、ボディガードを抑える(1)(塩田剛三Wikipedia)
・吉祥丸、ハワイとロサンゼルス、サンフランシスコに約3か月間滞在して指導(1)
・佐々木貴、本部道場に入門(佐々木合気道研究所
・千葉和雄、四段允可、本部道場指導員になる(Wikipedia千葉和雄2023/6/27
・2月27日、藤平光一、アメリカから帰国
・5月2日、大阪で後援会伊三郎会が結成(23)№38
・鏡開き式で白田林二郎(山形県合気道連盟)、岩田一が8段、斎藤守弘が7段、赤沢善三郎、西尾昭二、田村信喜が6段、磯山博が5段、黒岩洋志雄が4段、藤田昌武が3段、針すなおが2段に昇段(23)№33
・5月5日発表、田中伊三郎、引土道雄が7段、阿部俊一が5段、杉野至寛、杉野匡宏が2段に昇段(23)№35
・立命館大学合気道同好会発足、9月部昇格。初代主将、勢嶋正信。師範田中万川(20)
・岩田一空斎、名古屋市一宮で市議会議員になりその後、道場を開く(名古屋市役所合気道部のお知らせ2017/9/30
・弟子でもあった門脇尚平が『手相への招待』出版、植芝盛平の手相が載っている(23)№34
・4月3日、村重有相がヨーロッパから帰国、6月2日にベルギーへ(23)№37
・8月31日、阿部正7段が東南アジア方面調査のためにシンガポールへ(23)№38 10月ラングーン、バンコクなどをまわり視察を終えてシンガポールで指導(23)№39
・9月24日、藤平明が5段に昇段(23)№39

1963 昭和38年 80歳

4月
 14日
・小田原支部で正徳福祉事業協同組合結成落成式で合気道演武会、真髄道話を20分間行う(23)№44
 27日
・吉祥丸、ハワイからアメリカの各地で指導、初の海外(10)p241
 30日〜7月まで
・吉祥丸、カリフォルニア、ロサンゼルス、サンディエゴ、サンフランシスコ、ハワイの各島を巡る(10)p242

5月
 5日

・フランスのマルセイユでテレビ放映、アンドレ・ノケが持ち帰ったフィルム(23)№45

 31日
・アメリカの宇宙飛行士グレン中佐が日本武道館で柔道、空手、合気道の演技を観覧、模範演武を披露(23)№45

6月
 16日
・関東学生合気道連盟が本部道場で第二回植芝盛平を囲む集まりを開催(23)№45
 23日

・合気のつどいで二時間半道話(23)№46

7月
 2日
・関西学院大学が1日から三日間大阪府川内長野市観心寺にて行っている合宿に参加、小林師範を相手に演武を披露(23)№48
 28日

・植芝吉祥丸がアメリカから帰国(23)№48

8月
 4日

・合気神社例大祭で玉串奉納、道話(23)№48
 16日
・植芝吉祥丸本部道場長帰国歓迎会に参加(23)№48

10月5日
・日比谷公会堂で昭和三十八年度合気道演武大会で模範演武及び道話(23)№49
・万生館で指導、鹿児島寺山にて祝詞奏上(合気道の心を求めて)
・小林保雄曰く、開祖は16時の演武に13時頃から向かおうとして、到着すると演武をはじめてしまうので足止めに苦労したとのこと(小林保雄ブログ

11月
・東北学生合気道連盟発足
 16、18日
・本部道場の秋季合気道講習会で道話と合気道技法指導(23)№51
 30日
・全国学生合気道連盟主催の第三回合気道演武会が東京有楽町読売ホールで開催、合気道真髄を示す(23)№51

12月7日
・陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地大講堂にて防衛庁合気道連合主催の演武大会に参加、20分の真髄を道話と演技で説明(23)№51

時期不明
・清水健二在籍中に赤坂日枝神社で合気道の演武があり大勢の前で「軽くやるから、おまえは真剣に打ってこい」といわれ半分気を抜いて打つと呼吸を読まれて物の見事に飛ばされ「軽くやる」といわれたのに、大先生も乱暴だなと思った反面、驚いたという(2)3190

関連事項
・羽賀純一、芝浦工大剣道部師範(14)
・2月10日の昇段発表で奥村繁信が7段、五月女貢、千葉和雄が4段、荒川博が3段に昇段(23)№43
・9月1日の昇段発表で磯山博が6段に昇段(23)№48
・清水健二(当時柔道4段、Wikipedia)(2)、遠藤征四郎、入門
・菅沼守人が亜細亜大学合気道部に入部
・本間学、合気道を始める(NIPPONKAN HP
・塩田剛三、ハワイに指導に行ったと語る。吉祥丸と同じ時期・同じ支部なのかは不明、串田誉司5段と三週間滞在し、州知事から感謝状を受ける(合気道の楽しみ方p23)

1964 昭和39年 81歳

栗田豊、清水健二、早乙女貢、金井満也、藤平明、植芝吉祥丸、丸山維敏、渡邊信之

1月15日
・本部道場にて「鏡開き式」演武奉納と合気道話(23)№53

3月4日
・ベルギーのルバン郊外で村重有相が交通事故死、享年68歳(23)№53(日本ミャンマー合気会2023/6/26)

4月7日
・早乙女貢曰く一人で鎮魂帰神法をしていて黄金体体験のような悟りがあり、その日の朝稽古の後、開祖に呼び出されてその体験を他言しないよう言われる(28)

6月27日
・関東学生合気道連盟主催の合気道大会が東京千代田区の共立講堂で開催、加盟校17校が参加、大会の祝辞を述べる(23)№56

8月9日
・合気神社大祭(23)受けには磯山博(32)№56御礼拝、玉串奉尊、合気道話「宇宙のヒビキ」(23)№58

10月
 3日

・日比谷公会堂で第4回合気道演武大会(13)p283(23)№56合気道話と真髄披露(23)№59
 13日
・大阪市立福島体育館にて合気会大阪事務所主催の植芝盛平指導による合気道講習会開催(23)№50

11月
 3日
・勲四等旭日小綬賞を受章(23)№60
 中旬
・本部道場総務清野裕三はじめ8名が岩間に稽古に向かい、開祖と稽古(23)№70
 28日
・第四回全国学生合気道連盟演武大会が大阪市中之島中央公会堂で実施、参加校27校、模範演武を披露(23)№61

12月
 10日

・寺田明彦(後の気山)に武産合気翁植芝常盛として武産合気8段を允可(神は愛なり:聖霊合気流道開祖寺田気山:愛の武人-その人と人生p30)
 21日

・第四回防衛庁合気道連合会合気道演武大会が防衛庁技術研究本部大講堂で実施、真髄披露(23)№61
 23日
・本部道場にて勲四等旭日小綬賞受章の内祝いの祝賀会実施、記念品贈呈(23)№62

関連事項
・第1回京都合気道演武大会(於、円山音楽堂)を開催される。合気会京都道場主催(20)
龍谷大学合気道同好会が発足、昭和42年に部昇格。初代主将、 佐藤和夫。師範田中万川(20)
・東京オリンピック開催
・3月10日の発表で早乙女貢が5段に、園田直が2段に昇段(23)№53
・4月26日、藤平光一、藤平明がアメリカでの指導から帰国(23)№54
・5月25日、小林裕和がスイス、マックリゲンで一週間の警察特別合会で合気道演武及び講習会を行うため渡欧(23)№55その後、7月17日に帰国(23)№57
・8月24日、藤平光一、渡米(23)№57
・10月12日、田村信喜夫妻、横浜港からフランス郵船でマルセイユへ出港(13)p284(23)№58
・10月24日、多田宏、イタリアへ(2)(13)p285(23)№58
・吉祥丸の北米、ハワイ、旅日記によればハワイの各道場には道主と藤平光一の写真が掲げられていたとのこと(23)№58
・ロバート・フレジャー、丸山惟敏、入門
・阿部正フランスから帰国
・10月13日の日本経済新聞によれば柔道のへー寝具は望月という先生から合気道を三年習い、二段だった(23)№76

1965 昭和40年 82歳

1月15日
・本部道場にて鏡開き式、道話「宇宙の気を媒介して合気の道へ」

4月23日
・春の園遊会に宮内庁から招待され赤坂御苑に(23)№63

6月
 22日
・加見彰基3段と和歌山県新宮市に向かう(23)№66
 23日
・熊野道場での新宮女子高等学校・新宮商業高等学校・熊野経理学校各校合気道武結成記念演武に参加、特別演武と道話、その後、西ドイツの合気道家ゲルト・ヴィシュネフスキと新宮市を訪問し熊野道場で歓迎会を受け演武を披露(23)№66
 25日
・大阪へ向けて出発(23)№66
 26日
・関西学生合気道連盟主催第三回関西学生合気道演武大会に参加、道話を語る(23)№66

9月5日
・合気神社大祭、玉串奉奠、合気道話と演技(23)№68

10月
 7日
・中村梅吉文部大臣一行、本部道場訪問、合気道話及び演武を披露(合気会)(10)(23)№69
 31日
・合気会本部直轄中井支部(神奈川県足柄上郡中井町・中谷産業内)道場開き式に参加、真髄披露(23)№70

11月
 20日
・第五回防衛庁合気道連合会合気道演武大会が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地大講堂で開催、真髄演武及び講話(23)№71
 27日
・第五回全国学生合気道連盟演武大会が日比谷公会堂で実施、合気道真髄道話を披露(23)№71

12月
 12日
・合気道創始者植芝盛平翁誕生祝賀会が本部道場で開催(23)№72

関連事項
・1月6日の発表で杉野至寛が3段昇段(23)№62
・1月、堀川幸道、堀川ちえ子と結婚(3)
・3月9日の発表で有川定輝、多田宏、山口清吾が7段、高岡貞雄が6段、山田嘉光、黒岩洋志雄が5段、丸山維敏、藤田昌武が4段、園田直が3段に昇段(23)№63
・4月、京都女子大学に合気道同好会が発足。昭和46年、部昇格。初代主将、武田正子。師範田中万川(20)
・京都産業大学合気道部発足、師範須藤百治(20)

1966 昭和41年 83歳

・千葉和雄をイギリスに派遣

1月
 13日
・橋本登美三郎内閣官房長長官一行、本部道場訪問、演武を見学(合気会)(10)(23)№73
 15日
・鏡開き式で道話及び真髄の話(23)№73
・ブラジルのアポストリカ・オルトドシア教会総大司教より最高名誉称号「伯爵」位を贈られる

3月
 26日

・本部道場加見三段以下8名の青年有志が岩間で研修、初日は東北大合気道武と合同稽古(23)№73
 27日
・わらじ履きで愛宕山に登頂し、頂上で開祖を囲み昼食、夕方道話をきいて夜は謝恩会(23)№73
 28日
・朝、開祖の指導で東北大合気道武と合同稽古、約一時間の正座による精神統一(23)№73

4月
・九州学生合気道連盟発足

5月7日
・日比谷公会堂にて第五回全日本合気道演武大会、真髄披露を行う(23)№75 文部省からの後援決定

6月4日
・第四回関東学生合気道連盟演武大会が国立教育会館内虎の門ホールで開催、合気道真髄道話を行う(23)№75

9月4日
・合気神社大祭、玉串奉奠、奉納演武を行う(23)№78

11月
 19日

・第六回防衛庁合気道連合合気道演武大会が市ヶ谷駐屯地大講堂で開催、真髄披露及び講話(23)№81
 23日
・第六回学生合気道連盟主催演武大会が実施、真髄披露(23)№81

12月11日
・羽賀準一死去、葬儀で盛平は呆然と天を見上げていた(18)

時期不明
・昭和41年頃、出口直日と写真を撮っている

関連事項
・清水健二、国会合気会初代師範就任(Wikipedia)
高岡貞雄、6段昇段
・1月15日の鏡開き式昇段発表にて園田直、佐々木将人が4段に昇段(23)№73
・6月1日発表で菅沼守が2段に昇段(23)№75
・10月9日発表でバージニア・メイヒューが2段に昇段(23)№79
・本間学、岩間で生活をはじめる(NIPPONKAN HP
・本間学によれば、岩間には山本菊野という家政婦兼内弟子のような人がいたとのこと(故斎藤守弘師範門下生としてご縁のある方々へ

1967 昭和42年 84歳

1月15日
・本部道場にて鏡開き式及び誕生祝賀会(23)№83
・日本武道館で鏡開き式に参加、真髄披露(23)№83

3月14日
・合気道本部道場で地鎮祭、鍬入れの儀、祭神礼拝し玉串奉尊(23)№84

4月
・中部学生合気道連盟発足
 2日
・門脇尚平、本部道場で植芝盛平の手相を見る(パテント20(6)(202))
 9日
・故村重有相の追悼演武会が柳井市立山根体育館で開催、模範演武を披露、真髄を技を通して伝える(23)№84

5月
・和歌山県合気会支部長、西本幸三郎死去

6月
・五井昌久がお見舞いに来て、開祖の演武を拝見する。この時、弟子の助けを借りないと袴に足を通さないほどだったが、演武は見事(8)

8月22日
・合気会本部新道場の上棟式に参列礼拝、玉串奉奠、祝杯をあげて挨拶と道話を演技を通して披露(23)№88

9月3日
・合気神社大祭、祭神に礼拝、玉串奉奠、挨拶と道話を演技と共に行う(23)№88

10月29日
・合気会城北支部結成十周年記念合気道演武会が東京文教の東洋大学大講堂で開かれ、真髄披露(23)№90

11月
・本部道場完成祝いとして五井昌久が『神の化身』の詩を額に書いて贈る(8)
 25日
・第七回全国学生合気道連盟演武大会が日比谷公会堂で開催、合気道真髄道話を演武を通して述べた(23)№91

12月9日
・第七回防衛庁合気道連合会合気道演武大会が新宿区体育館で挙行、真髄演武を道話を通して披露(23)№91
 15日
・合気道本部道場完成(23)№92 二代目理事長に吉祥丸

関連事項
・菅沼守人、本部道場へ入門
・3月1日の発表で藤平明、火伏正文が6段、園田直、藤田昌武が5段、針すなおが4段に昇段(23)№83

1968 昭和43年 85歳

1月
・高橋英雄、本部道場完成祝いに開祖を訪ねる(武生合気)
 5日
・合気会本部道場落成式
 12日
・14:00 本部新道場の落成式(23)№93
・16:00 本部新道場の落成記念式典で演武会が開催(23)№92 道話をまじえて真髄披露、花束贈呈と「花の合気道」「男の魂」が歌われる(23)№93
 14日
・本部道場鏡開き式、挨拶と演武、演武の途中で道話を説く(23)№93
 26日
・妻の体が不自由になり1年と5ヵ月床にふせる(31)

6月
 8日
・中谷産業㈱合気道同好会主催の合気道演武会が小田原市民会館で開催、道話と真髄披露(23)№96
 15日
・関東学生合気道連盟主催の第五回関東学生合気道演武大会が千代田区神田一ツ橋の共立講堂で挙行、合気道の神髄披露(23)№96
 16日

・武産合気教室を開催、毎月第三日曜日に実施予定(23)№95
 20日
本部道場にて五井昌久と会談(8)

7月
・合気道学校が東京都から認可

10月
 5日
・日比谷公会堂で“新道場落成記念第6回全日本合気道演武大会”開祖は最後となる演武を披露(23)№93
・神技の演武に静まり返った会場でぴりっと袴がおころび「うむ、ババ(妻)に叱られるわい!」と言い会場は笑いに包まれた(6)p294
 30日
・昭和41年12月25日にカトリック教アポストリカ・オルトドシア協会総大司祭から最高の名誉称号である伯爵号を認証されていたものを合気道本部道場で伝達式を行い伝達使者、川井宗則から伯爵号の伝達を受ける(23)№100

11月
 3日
・神戸多聞寺本山で真言宗諸派連合の卍教団伝授研修会が行われ9時から記念講演(六大新報1968年11月)
 23日

・誕生日祝賀会が本部道場で挙行、記念品が贈呈される(23)№101

・第6回全国学生合気道演武大会(於、京都府立勤労会館)開催。植芝盛平先生演武、京都における最後の英姿(20)

12月
 3日

・合気会小田原支部中井道場(神奈川県足柄上郡中井町遠藤・中井産業内)にて「合気のつどい」、真髄披露の演武(23)№101
 14日
・第八回防衛庁合気道連合会合気道演武大会が新宿区体育館で開催、真髄演武を披露(23)№102
 15日
・「ようやったのう」と生涯で一度だけ吉祥丸をほめる(10)p247

・妻、脳卒中で倒れ半身不随に(10)

関連事項
・昭和42年12月中旬~43年2月上旬までの昇段発表で、西尾昭二が7段、五月女貢、山田嘉光、園田直が6段、遠藤征四郎、菅沼守が3段に昇段
(23)№93
・中村天風、12月に死去(2)
加藤弘、6段允可

1969 昭和44年 86歳

本部道場にて
受:藤田昌武

・茨木県岩間町より岩間町名誉町民の称号を贈られる(23)№105

1月
 15日
・鏡開き式で道話と演武(23)№103受けは五月女貢(28)

・引土道雄、本部に開祖を訪ねた際に十段(非公式)を授かる(21)

2月
・砂泊兼基著『武の真人 植芝盛平伝』(7)発行
 1日
・阿部醒石の道場で禊をする(2)2337 1週間から10日ほど滞在した最後の日(25)

3月
 8日
・岩間より戻るも「神さんがわしを招ばれておる」と起き上がらず(6)p295  肝臓障害により黄疸症状(23)№105
 9日
・田所主治医の診断を受け油断できぬ状態、津田医師、佐野医師など医者から入院を強く勧められる(23)№105
 10日
・早朝起きて道場で最後の稽古を数分間行う(6)p295
 16日

・五井昌久、開祖の体調不良を聞いて本部を訪ねる(8)
 20日
・慶応病院に入院(23)№105
 26日
・本人の強い意志により退院、自宅療養へ(23)№105

・五月女貢師範曰く、亡くなる1ヶ月前に武器稽古で投げられた(28)

4月
・小林保雄、小林道場を開く(2)
 15日
・一段と症状が悪化(23)№105
 22日
・塩田剛三がお見舞いにくる(1)2948稽古しようと言い出して止めようとした四人の若弟子をふっとばす(1)2958
 25日
・高熱(23)№105
 26日
・5時26分、自宅で昇神、ほとんど最後まで起きて便所に通う等、気力で動いていた(23)№105
 29日
・自宅より本部道場の式場祭壇正面へ御柩を安置(23)№105
 30日
・密葬、家祭(23)№105

5月
 1日
19:10~通夜祭、当夜に正五位勲三等瑞宝章の勲章伝達式(23)№105
 2日
・本葬、合気会会葬を青山葬儀所で執行
 12日
・吉祥丸が遺骨と共に岩間に到着し、遺骨を祭壇に安置(23)№106
 13日
・合気神社付属道場で岩間町準町葬(23)№105
 15日
・和歌山県田辺市より、田辺市名誉市民の称号が授与される(23)№106
 17日
・田辺市民植芝盛平翁市葬が仏式ににて執り行われる(23)№106
・和歌山県田辺市高山寺植芝家祖先代々の墓地に埋葬、遺髪が合気神社、京都府綾部市の植芝家墓地、和歌山県熊野本官の三カ所に安置される(23)№105

※斎藤守弘によれば植芝盛平は生前、岩間に埋葬して欲しいといっていたらしい(柳川昌弘『武道家のこたえ』より)

6月
 14日

・吉祥丸、合気会理事会で満場一致で二代目に(10)
・植芝盛平開祖五十日祭、合祀祭が植芝家で執行される(23)№107
 24日
・妻、植芝はつが老衰のため若松町の自宅で逝去、享年八十七歳(23)№107
 29日
・本部道場で植芝はつの葬儀と告別式、遺骨は植芝家の菩提寺高山寺(23)№107

7月27日
・和歌山県東牟婁郡本宮町の熊野本宮大社瑞鳳殿にて御霊奉祀祭(23)№108

9月
・京都、下鴨の日本正武館に合気道部開設、広瀬二郎、小山照雄指導。師範田中万川(20)

10月11日
・日本武道館にて開祖追悼第7回全日本合気道演武大会(23)№108

・植芝家菩提寺は、和歌山県田辺市稲城町の「真言宗御堂派正南面山蘇悉地院高山密寺」(日本財団図書館 合気道普及用テキスト
・植芝盛平開租の生前の名は,「盛平」の他,別名「守高」「常盛」「晴眼」とも称した。戒名は「合気院盛式円融大道士」(日本財団図書館 合気道普及用テキスト

関連事項
・2月1日の昇段発表で斎藤守弘が8段、園田直が7段、小林康男、黒岩洋志雄が6段、佐々木将人が5段、遠藤征四郎と菅沼守が4段に昇段(23)№103
・藤平光一、49歳にして10段を授かる(note:藤平光一氏の功績と独立)(23)№104
・大沢喜三郎が9段に昇段(23)№104
・清水健二、清水道場として合気会より独立、後に天道流合気道と改名
・砂泊諴秀が開祖の死去を期に独立、万生館合氣道を九州で設立する(砂泊諴秀Wikipedia
・五味田聖二、5段になり高山寺の田辺道場で指導を開始(武産通信:五味田聖二

※開祖没後の合気道流派などの変遷は↓

※塩田剛三と養神館について詳しく知りたいなら↓

参考文献

(1):植芝盛平と合気道〈1〉開祖と語る直弟子たち

(2):植芝盛平と合気道〈2〉開祖を語る直弟子たち

(3):武田惣角と大東流合気柔術 改定版

(4):合気道開祖植芝盛平の横顔

(5):近代武道・合気道の形成:「合気」の技術と思想

(6):合気道開祖 植芝盛平伝

(7):武の真人ー合気道開祖植芝盛平伝

補足:「武の真人」は開祖の本人談を集めたものなので、なんらかの大げさな表現が含まれている可能性もあると思われる

(8):武産合気ー合気道開祖・植芝盛平先生口述

(9):合気神髄ー合気道開祖・植芝盛平語録

(10):合気道一路 戦後合気道発展への風と雲

(11):合気道真諦

(12):合気道その歴史と技法

(13):合気道に活きる

(14):有信館剣道(神道無念流)の歴史と文化

(15):合気道神髄 創元之巻

(16):【論説】合気道開祖 植芝盛平を世に知らしめた人々|どう出版|note

(17)オニペディア Onipedia:出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典

(18)増補改訂版 最後の剣聖 羽賀準一

(19)武道論

(20)武産通信・京都合気道史(2023/4/15)

(21)合気道熊野塾ホームページ(2023/6/21)

(22)特定非営利活動法人日本合気道協会ホームページ(2023/6/21)

(23)合気道新聞DVD

(24)【特集】植芝盛平と共に合気道の道を拓いた男

(25)阿部醒石 天之武産合気道道場長

(26)武道(大本教武道宣揚会の機関紙)

(27)「道」と「戦」を忘れた日本武道に喝 望月稔

(28)伝承のともしび -合氣道開祖 植芝盛平の教え-

(29)合気道で悟る

(30)「合気道」の近代ーその戦前から戦後への断絶と継承

https://inagashigemi.jpn.org/uploads/pdf/051125aikido.pdf

(31)荒川 博 日本ティーボール協会副会長 合気道六段

(32)【特集】合気道人生半世紀 斉藤守弘 合気会九段

(33)実践合気――和の精神を日常生活に活かす

(34)園田天光光 日本初女性代議士|どう出版 (note.com)

(35)近代武道・合気道の形成過程: 植芝盛平の大東流合気柔術の修行過程に着目して (jst.go.jp)

論文PDFリンク

(36)合気道入門 1の力で10の敵を倒す法

(37)和久田三郎「相撲一路」国防武道協会1941年9月1日

(38)武道学研究25号2 「海軍大将竹下勇・武術日記」と大正15年前後の植芝盛平--合気道の形成過程の研究:志々田文明

(39)塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷


マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?