【論説】合気道開祖 植芝盛平を世に知らしめた人々

文・  スタンレー・プラニン

本誌の前身(季刊『合気ニュース』)の編集長で、合気道史および開祖植芝盛平翁の研究をライフワークとするスタンレー・プラニンが現代の武道の現状とその役割を考察します。
※所属や肩書きは、季刊『道』に掲載当時(2006年)のものです。

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皇武館時代の合気道開祖 植芝盛平(1883~1969)


 植芝盛平翁の合気道が、一現代日本武道として成功を収めたのは、開祖の類いまれな技とカリスマ性に因るのはもちろんだが、それと同等に、さまざまな人の支援と歴史的背景も大きな要因だったといえる。生まれ故郷田辺市(和歌山県)の青年時代から大本教の時代、戦前の華々しい東京時代、そして合気道が海外へ発展していった戦後と、開祖を信奉する多くの人々から支援と励ましが開祖に寄せられたのである。
 ところが、このような開祖の成功に重要な役割を果たした人々は、わずかしか知られていない。それも、合気道史に興味を持つ人々が知るのみである。ましてや、若い世代が占める今日の合気道界では、こうした外部の歴史的人物は知られることはない。
 以上のほかに、そのような支援者が軍事政権とかかわりがあったということで、盛平と彼らを結びつけて考えなかったということもある。たしかに、第二次大戦で日本の敗戦を招いた責任は、この年代の人々にあり、戦後の合気道の発展に努力している人たちにとって、過去のファシズム時代に今さら注意を向けることは、残念なことであり、戸惑いを憶えるのは当然であろう。
 以下に、合気道発展に貢献した〝あまり知られていない人々〟を念頭に置きながら、盛平の生涯を追っていくこととする。

植芝家と井上家

 植芝盛平は和歌山県田辺市の裕福な家に四人の子供の末子として誕生。長女・ためが嫁いだ田辺市の素封家・井上善蔵は、東京で商売を始めた弟の小四郎を金銭的に援助した。小四郎は日清戦争の折に非常な成功を収め、二十世紀初頭、日本屈指の財産家となった。
 盛平の父・与六と善蔵は盛平の進路を考え、19歳の盛平を浅草の小四郎のもとにあずけ、文房具店を手伝わせる。しかし脚気をわずらった盛平は一年未満で田辺に帰郷する。商売には向かなかったが、盛平は小四郎とは親交を続け、後に盛平が東京で武道家としての人生を歩む際、多大な金銭的援助を受けることになる。
 植芝家と井上家の関係は、善蔵の息子・要一郎を通してさらに親しくなる。1912年(大正元年)、盛平が北海道へ移住する際に、井上家は大きな力となっている。
 この北海道時代に、盛平は大東流柔術の武田惣角と出会い(大正4年)、その技の修得に執心した。当時十代の要一郎も、白滝の盛平の家に共に住み、大東流柔術を習う。その後の20年間、1930年代半ばに盛平と袂をわかつまで、要一郎は、盛平の武道教授を助けた。

武田惣角と大東流

 この大東流は、現代合気道の技面に多大な影響を与えた。つねに友好的だったとはいえない盛平と惣角の関係は、20年にも及び、また惣角はその生涯で、3万人余りを指導したといわれる。後の盛平と同じく、惣角の弟子のほとんどは政治家や警官をはじめとする様々な職業の富裕階級の人々であった。
 惣角の指導の大半は北日本で行なわれたが、盛平の活動舞台は、日本の二大都市・東京と大阪であった。惣角は、軍部や政界に大きな影響力をもっていた。そのため、盛平の交流網は大東流からくるものもあった。最もよく知られるのが三浦真大将である。三浦は1897(明治30)年頃、惣角から学び、1920年代後半、盛平の弟子となっている。
 ほかに盛平と惣角の指導活動で接点が見られるのが、大阪朝日新聞においてである。両者は、朝日新聞社員久琢磨を通して同社で指導を行なっている。

大本教と出口王仁三郎

 大東流とならんで、盛平と合気道の発展に影響を与えたのが、大本教とそのカリスマ的指導者出口王仁三郎である。盛平が入信した頃(大正9年)は、大本教は全国的に、とくに農民たちに、大きな影響力を誇っていた。多くの著名な学者や芸術家、海軍将校が入信した。盛平は京都綾部の大本信者に混じって真摯に思索する生活を送った。
 王仁三郎は早くから武道家としての盛平の才能を認め、盛平を側近に加えた。さらに王仁三郎は大東流を大本信者たちに教えるよう盛平に勧め、盛平は、綾部の自宅に付属した小さな道場を開く。大本の人たちは熱心に盛平の指導を受けた。また、軍人、主に海軍将校たちも綾部に近い基地・舞鶴港から稽古に通ってきた。
 1925(大正14)年から1927年にかけて、王仁三郎は盛平に機は熟したと、東京に転居して武術教授の範囲を広げるよう忠告する。
 東京に落ち着いた盛平は大本と王仁三郎との緊密な関係を保っていた。また、大本にとって、武道家として成功し、東京の上流階級と交流する盛平は、いってみれば宣伝媒体だった。
 1932(昭和7)年、王仁三郎によって武道宣揚会が設立される。これは王仁三郎が何年もかけて全国的組織にまで広げた大本の傘下組織であり、これによって盛平の武術教授は支援促進された。初代会長は盛平であった。日本各地の大本教支部には武道宣揚会が設置され、稽古者が集まった。武道宣揚会では、柔道、剣道等、日本の主要な武術指導をうたっていたが、実際は、ほとんど盛平の合気柔術であった。稽古生は主に大本信者であり、ほかに綾部近郊の、信者でない者も含まれていた。
 このように、盛平の武道家としてのキャリアは、王仁三郎によって保障されたといえる。王仁三郎は、大本教会の全国組織を利用して、盛平の成功を確固たるものとしたのである。1920年頃から1930年代中頃の盛平の弟子は、大本信者か大本信者にゆかりのある者であった。

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出口王仁三郎(1871~1948)

軍部とのつながりーー竹下勇大将
 
 綾部時代からの稽古生に浅野正恭海軍中将の名がある。予備役将校になりたての1922(大正11)年頃、入門している。この浅野中将を通して、浅野の海軍大学時代の旧友である竹下勇(1869~1949)に盛平のことが語られたと思われる。竹下は生涯の大半を外交畑で活躍した。数年を外国、とくに米国で過ごし、ルーズベルト大統領とも親交があった。英語はもちろん、語学に堪能で、また柔道、剣道、相撲など、武術をこよなく愛した。
 浅野から盛平の技のすばらしさを聞かされた竹下は、盛平の演武を見るために綾部まで赴いている。その時、竹下と盛平の間には親密な関係が生まれたと思われる。すぐさま竹下は、名士たちの前で演武を披露させるため、盛平を東京に招いた。大本教が東京で知られる機会となることを察知した王仁三郎は、盛平の上京を祝福するのだった。
 帰京するや竹下は、先輩の退役将軍山本権兵衛に連絡をとる。山本は首相を二回も務めた政治家でもあった。
 山本はじめ他の招待客は盛平の演武に深く感動した。ただちに後援グループが結成され、その後の2年間、盛平はしばしば上京しては、演武指導を行なった。
 すばらしい技の持ち主の上に、盛平は生得の、高い道徳性を兼ね備えたカリスマ的人物であった。東京の、盛平の支援者たちはすぐさま盛平に惹きつけられていった。これらのメンバーには、軍人、政治家、実業家などのエリートたちが名を連ね、彼らは盛平の東京での成功に腐心した。
 この頃、要一郎がしばしば盛平の助手をつとめたり、盛平の代わりに指導を行なった。また、要一郎は叔父の小四郎に、大東流合気柔術を広める盛平の力になるよう説得している。
 東京にはすでに、〝将来の弟子〟たちが存在していたといえる。とくに侍階級出身の者が多かった軍部では顕著であった。軍人には武術は必須であり、完成された人間としての〝しるし〟であり、社会的に望ましいものだと考えられていたからである。そのため盛平の講習は賑わった。富裕な人たちの住居を転々として教授をしていたが、とても対応しきれなかった。
 後援者や稽古生の支援によって1931(昭和6)年、盛平は新宿に皇武館道場を設立。稽古生のほとんどは上流階級の者か、大本教関係者であった。皇武館は一般人に開かれていない特別な個人道場であった。また入門を希望する者は紹介状が必要だった。
 盛平は皇武館での指導に加え、帝国陸海軍の高官たちとのつながりから、東京周辺のさまざまな軍部施設(学校)で指導を始めるようになる。また、前述の武道宣揚会も、短期間で日本全国に指導活動を広めるのに役立った。
 1933(昭和8)年頃、暴動事件のあった大阪朝日新聞社から盛平は社員に護身術を教えるよう依頼を受ける。これによって、盛平は大阪に指導の第二拠点を確立し、同市にいくつかの道場を設立した。そのほか、盛平は大阪府警の上層部と関係をつくることができた。これは、のちの第二大本事件(昭和10年)で、盛平が大本との密接な関係で逮捕されそうになった時、彼を助けることとなる。

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前列左二人目より、竹下勇 植芝盛平、下条小三郎、浅野正恭 
後列左より4人目、井上要一郎
植芝の前の子供は植芝吉祥丸 1925年撮影

皇武館の衰退

 大本とのかかわりは、武道家としての盛平にとって諸刃の刃となった。彼の熱心な支援者の中にさえ、大本と縁を切るよう説得する者もいたが、盛平は一貫して王仁三郎に忠誠を誓い、終生大本信者であった。大本に対する過酷な弾圧と第二次大本事件後の多くの大本指導者の逮捕によって、大本は混乱の渦中に投げ込まれ、武道宣揚会に所属していた盛平の諸道場は一夜にして消滅した。15年あまり盛平を支えた二大支柱の一つである大本は突然取り除かれてしまったのである。
 皇武館道場の屋台も、日本軍部が東アジアに戦域を広げ、多くの若者が徴集されるにつれてゆらぎ始めた。軍部の諸施設の武術指導で忙しく立ち回っていた盛平だったが、助手をつとめた内弟子たちは次々と兵役にとられ、その上、後継者として養子とした者も植芝家を去っていくなど、心労が重なっていった。
 1930年代後半、わずかの弟子が残された皇武館は経済的にも逼迫し、竹下勇や実業家によって盛平に忠告やかなりの寄進が行なわれた。最良の方法として、皇武館を法人化し、法的な優遇を受けるようにすることが決定され、1940(昭和15)年4月、承認された。竹下が財団法人皇武会の初代会長に就任し、理事会のメンバーには首相近衛文麿公爵をはじめ、将校、実業家、高名な医者などが名を連ねた。
 1941年後半、太平洋戦争の勃発によって、日本は戦時色に塗りつぶされ、大都市は空襲におびやかされた。そのような厳しい状況下でも、盛平は皇武館道場で指導を続け、また数ヶ所の軍部施設の巡回指導を行なった。王仁三郎や大本の指導者たちがまだ獄中にあること、盛平が逮捕を免れたのは、コネによるものだと一部の大本の人たちに見られていたことなど、盛平にとって心痛の続く時期であった。
 そのような盛平にとどめを刺すような事件が起こった。最後まで残って指導を助けていた内弟子(盛平の姪の夫)が、大阪で不慮の死をとげたのである(昭和17年)。このショックで健康を害した盛平は、ついに胃の不調を訴えるようになる。皇武館の管理を子息・吉祥丸に託し、盛平は茨城県岩間に引退し、回復をはかる。そして、岩間で農業と稽古と瞑想の生活を送るのだった。

戦後の植芝盛平
 
 合気道を支える戦後の社会状況は、戦前とはまったく様子が異なるものであった。
 合気道が世界中に広がるにつれて、様々な社会層や職業の人たちが入門してきた。また世界の先進国や発展途上国でも稽古が行なわれるようになった。
 敗戦後のGHQによる武道禁止令によって、盛平の東京の道場は事実上運営は停止されたが、戦前盛平を支えていた支援組織は、一部稼動していた。富田健治、藤田欽哉、友末洋治等の戦前の支援者たちである。藤田は富裕な実業家であり、政治家の富田は大阪府警本部長を勤めたこともあり、第二次大本事件の時、盛平に逮捕を免れさせた人物である。友末は当時の茨城県知事であった。
 社会情勢も経済も厳しい状況だったが、吉祥丸と上記の支援者たちは、道場(一時的に岩間に本部を置いた)を法人化することを計画し、1948(昭和23)年、財団法人合気会が発足した。これは皇武会を引き継ぎ、合気道の主流として現在にいたっている。
 植芝吉祥丸をはじめ、藤平光一、大澤喜三郎、奥村繁信、その他の合気会の師範たちは、一歩先の養神館(盛平の高弟・塩田剛三によって昭和30年に設立)の成功に刺激され、1950年代半ば指導活動を再開した。つぎつぎと大学の合気道クラブ、社会人合気道クラブ、そして個人道場が誕生した。1950年代後半には、合気道に関する本も出版され、戦前はごく限られたエリートだけのものだった合気道が、広く一般に知られるようになった。
 戦後になり、盛平の支援者だった日本帝国陸海軍は消滅してしまったが、戦後の海外における合気道発展の促進力の一つが、アメリカの軍人たちだったことは皮肉である。彼らは駐日している間に合気道を習い、帰国後はそれをアメリカで教えたのである。ちなみに当時、彼らのほとんどは養神館で稽古をした者たちである。
 そして合気道が世界的に普及した最も重要な要因は、米国、ヨーロッパ、オーストラリア、東南アジアなどに渡った若き指導者たちの活躍である。彼らは赴いた国々に合気道組織をつくり、そこに何万人もの会員を集めた。彼らのほとんどは今も日本の組織に忠誠を誓い、海外の赴任地に居住し、優れた合気道家とみなされている。
 1950年代後半から合気道はテレビにも登場するようになり、次第に合気道は日本の現代武道として承認され、他の武道とともに日本文化の一つとしてみなされるようになった。

結論 

 盛平が武道家としての生涯をまっとうできたのは、出口王仁三郎の多大な貢献によることは認められなければならない。あまり知られていないが、北海道から完全に引き上げる前に、盛平は、1919(大正8)年夏、田辺に帰郷した際、すでに小さな道場を開いている。ということは、王仁三郎との出会いがなければ、盛平は植芝家の家長として父の後を継ぎ、と同時に柔術を田辺で教えるつもりであったことが察せられる。
 もし父・与六が急逝せず、また盛平が父の後を継いでいたら、結果はどうであったか……盛平は田辺の静かな生活に満足したであろうか? また、それまでどおりの熱心さで武術の修行を続けたのであろうか……
 とにかく、王仁三郎の励ましと大本という基盤・組織が、盛平に第一級の武道家としての道をひたすら走らせたのであり、また、軍部とのつながりが、武道家への道を早めたのである。そして、この軍部とのつながりは、大本信者であり海軍中将の浅野正恭からきているのである。
 盛平は物事に熱中するタイプであると同時に、ある面、自己中心的なところのある人物だった。家族と共に過ごすことは少なく、東京に転居後はたえず巡回教授に出ていた。また、非常に社交性のある盛平は、著名な武術家をはじめ、さまざまな身分の人たちとの交流があった。と同時に、盛平の武術と宗教に対する態度は真剣そのものだった。たえず、新しい技を試し、他の優れた武術家の技を観察し、武器技を高度なものとした。そして熱心な大本信者として信仰と祈祷の毎日を送っていた。
 時間とエネルギーのすべてを以上のことに注ぎながら、盛平は、性格もあるが、経済的なことには無頓着で、植芝家は時には経済的に厳しい時期もあった。さらに、盛平は道場の管理や組織の管理運営向きの人間ではなく、これらの世俗的な事柄は妻・はつや竹下勇、富田健冶、内弟子たち、吉祥丸に任せられていた。道場の財政管理や盛平の活動の予定は、その時々の盛平の周囲の人間によって決められた。
 合気道の成功を考えた時、それは当然主に盛平の功績によるものだと考えられがちだが、歴史的な事実を見ていくと、以下のような結論が出される。
 つまり、「植芝盛平という天才によって、あのような美しい、多くの人々の心をつかんだ高邁な理念の合気道が生み出されたのは事実である。しかし、盛平を熱心に支援し、盛平に心を寄せた人々も、今日の合気道家たちから感謝されるべきである」と。彼らの、表立つことはないが、努力と貢献が盛平を支えたのであり、その恩恵に浴しているのは、今日の合気道家たちなのである。
                 (2006年3月 ラスベガスにて)
 

―― 季刊『道』 №148(2006春号)より ――




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「行動している人」の原動力を探り、エネルギーを伝えるインタビューを中心に発信。 季刊『道』とその前身、武道・合気道研究誌 季刊『合気ニュース』からお届けします。 記事一覧 → http://www.dou-shuppan.com/interview/