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偽物の夕焼けと陽炎(かげろう)について_SEKAI NO OWARI

1ジャンル1つの原則で生きている。洋楽はベートーヴェン(洋楽か?)。邦楽はここ数年ずっとフラワーカンパニーズを聴き続けていたのだけれど、去年からSEKAI NO OWARI(セカオワ)を聴くようになった。日曜日のお昼のラジオ番組を聞いていて楽しそうな人たちだったのと、その時にかかるセカオワの音楽がなかなか良かったのでSpotifyで聞くようになった。メジャーデビューしたばかりの頃のFukaseのエフェクトがかかりまくったボーカルと中二病バンドと言われる歌詞の内容になじめない人も多いと思うけれど、何を隠そう私もなじめない。最近の楽曲の方がいい。デビュー直後の曲や一番ヒットした代表曲が結局一番いい、というバンドが多いのが残念な真理だと思うのだけれど、セカオワは昔の曲より今の方がずっといい。

先月発売された最新アルバム(sent of memory)は、エフェクトも控えめなのとボーカルがFukase以外の曲が沢山あるのがいい。12曲中、インストルメンタルが2曲、ギターのNakajinが歌う曲が1曲、ピアノのSaoriが歌う曲(初)が1曲、Fukaseが2人の妹と歌う曲が1曲というバラエティにとんだ内容だ。残念ながらDJ LOVE(ピエロの人)の曲はなかった。

以前からFukaseよりもギターのNakajinの歌の方が好きだったのだけれど、今回初めてとなるピアノのSaoriボーカル曲「陽炎(かげろう)」も非常によかった。歌い方があやうげ(音をはずしそうで踏みとどまる感じ)でタイトルとマッチしていた。ゆらいでいる。全く悪い意味ではなく、クセになる歌声でセカオワの作品として完成されていて、セカオワの世界に多様性、深みを与えている。

セカオワの有名な曲は歌詞も音もかなり濃いめの味付けで、繰り返し聞くとオジサンはすぐおなか一杯になってしまう。その点、ニューアルバムはFukaseのボーカル少なめ控えめ、セカオワワールド(ポップでキュートなセカオワメロディ)が薄目で非常によい。聞いていると私は別にセカオワっぽい曲や、あのエフェクトのかかった歌声を聞きたいわけじゃないんだなあと改めて実感する。

SEKAI NO OWARIの曲の作詞、作曲のクレジットを見るとDJ LOVE以外の3人がかなりバランスよく参加していることがわかる。バンドだとほとんど1人が作詞作曲をやっているというイメージなので意外だけれど、そのあたりも楽曲のバランスの良さや多様さ、デビューから年を重ねても行き詰まらないで進化していく秘訣なのかもしれない。

セカオワつながりでSaoriが藤崎彩織名義で先月出版したエッセイ集「ねじねじ録」を読んだ。こちらも面白かった。2019年のバンド解散危機や曲作りの話など本人たちでないとわからない話もあり興味深かったけれど、私が特に共感したのは「偽物の夕焼け」というエッセイだ。ごく簡単にまとめてしまうと、映画の撮影で夕焼けのシーンを撮りたいときに、朝焼けの映像の方が見た人に訴えかけられる映像になるのなら、「それは本当は朝焼けの映像だから、嘘だからダメ」ということにはならない。同様に、ピアニストとしてライブで演奏するときには、「ピアニストはこうあるべき」という自分の中の価値観に縛られすぎるとうまく届けられないものもある、というような話。例えば観客を見ながら演奏するのはピアノ演奏としてのパフォーマンスは下がるかもしれないけれど、セカオワのライブを観客に届けるためには有効だという話だった。

きっとライブでは一人のピアノ奏者としての技量だけを求められているのでなく、SEKAI NO OWARIの音楽や世界観を観客に届け、観客と一体となって一つの世界を作っていくことが求められているということなのだろう。私はこれが正しいと思うからこうします、ではなく、この世界(例えばライブ、私であれば今の仕事、プロジェクト)でより大きな達成や共感を創り出すために何ができるのかを優先させることの大切さ。

Saoriのかわりに世界で一番のピアニストが演奏してもセカオワのライブでは響かない。私も今の仕事で、そんな存在になれたらいいなと思った。


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